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悟は、駅前で春香のことを待っていた。
街路樹として数本植えてあるヤマモモの木が、僅かに作ってくれる木陰で、夏の強い日差しを避け、足元にはコン太がちょっと暑さに参ったって感じで、だらしなく座っている。
時刻は正午。天気も好く、暑さ真っ盛りだ。
夏休みに入り3日目、今日は春香がコン太を見にやってくる。 悟の命の恩人(恩犬!)、コン太を是非見たいと言われ、もちろん快くOKした。 家を出る時、満子に「いい?絶対春香ちゃん、連れてくるのよ!!」…と念を押されている。 満子は腕によりをかけてご馳走を用意して、今か今かと自宅で待機している。 …悟と春香が告白し合った日、早々に満子に見破られた。 自宅に帰っても、嬉しくてヘラヘラ二ヤケていた息子を見て、直感で何があったのかを悟り、後は悟に問い詰め自白させた。恐るべき母親。
それからというもの、ちゃんと紹介しろ!家へ連れて来い!…と、毎日のように騒がれ、ついに悟は根負けし、ちょうどコン太と会いたがっていた春香に笹山家訪問の話を切り出した。
<ちくしょー。本当は2人きりでどっか行きたいのになー> 悟としては、当然そう思うわけで…でも、春香は悟の家族にとても興味があるようだった。
『私、笹山君のご家族に会ってみたい!』 …と、やけに積極的。 <中山、そろそろ来るかな…> 改札から、まとまった人数の乗客が出てくる。どうやら電車が到着したらしい。 そんな風景を3度ほど繰り返し見たところで、コン太が耳をピクンと動かし、立ち上がる。 尻尾を振って、ただ一点を食い入るように見つめる。
「あ…。」 悟も気が付いた。 白いワンピースを着た春香が、改札から出てきて、悟達に手を振った。
「少し緊張する。」 笹山家に向う道すがら、春香は緊張のドキドキと嬉しいワクワクが混じりあって高揚していた。
「そんな緊張するような家じゃないって。」 「でも……やっぱり緊張する!」
リードを握っている春香の手に、自然と力が入る。 悟にお願いしてコン太のリードを持たせてもらっていた。 代わりに、悟は春香が持って来てくれたケーキの手提げ袋を持っている。 コン太は初対面から春香によく懐き、今も悟と春香に散歩してもらっている状況に興奮気味だ。 悟の方を向いては顔を上げ<ちゃんと付いてきてる?>と確認し、春香の方へ寄っては<僕の新しいお友達!>と、足元に纏わり付く。 途中、散歩中の犬に何度か出会ったが、その度、悟は<あれ?>っと思うような光景にでくわす。
犬達はいつものように悟に愛情をぶつけるが、同じように、春香にも寄って行く。
「なあ、中山。最近、変わったこと、ないか?」 「え?」 「単刀直入に聞くけど、犬にやたらモテてないか?」
悟の問いに、春香は明らかに心当たりがあるという目をして、頷いた。
「…初めはね。気のせいかと思っていたの。たまたま人懐こいワンちゃんに出会っただけだって思った。でもね、どの犬も、どんな時でも、私のところに来て、尻尾を振って喜んでくれるの。寄って来なくても、視線を感じる。」 「…俺と同じだな。」 「うん。私もそう思う。確信が持てたのは、昨日の夜だったんだけどね。」 「確信?」 「うん。昨日の夜…。」
春香は、自分の身に起きた不思議な出来事を語る。 昨晩、春香は欲しい雑誌があり、夕食後に近くのコンビ二へ出かけた。 途中、人気のない病院跡の廃屋と、夜は無人になる工場前を通らなければならないのだが、まだそれほど遅い時間ではなかったので、気にせず歩いていた。 ふと、何かの気配に気が付き、後ろを振り返ると、一匹の中型犬が春香を見つめていた。 首輪はなく、薄汚れていて、どうやら野良犬のようだった。 少し、怖いと思った。 最近悟のおかげで犬に触れ合う機会が増えていたが、さすがに野良の犬には気軽には近づけない。 春香はしばらく犬の顔を見ていたが、ずっとそのままでいるわけにはいかないので、出来るだけ犬の興味を引かないように静かに歩き出す。 すると、その犬も、春香に歩調を合わせ、一メートルほど後ろから、距離を保ち付いてくる。 犬が春香に気を使っているように見えた。 <このワンちゃん、もしかして…> 春香はある予想を立てる。
背後からは、敵意も攻撃の気配も感じない。あるのは優しげな視線。 人気のない道を抜け、人通りの多い、商店街の入り口まで来ると、犬の足音が止る。 春香が振り返ると、数メートル手前の電柱の下で、その犬は座っていた。
自分の役割をわきまえているような素振りだ。
買い物を終え、商店街を後にし、もと来た道を通る春香の目に、先ほどの犬が映る。 犬は、同じ位置で座って待っていて、再び春香の後を付いてくる。 そして、また、人気のない道を通り抜け終わると、その犬はそっと春香から離れ、夜の闇に消えて行った…。
去って行く犬の後姿を見送りながら、春香の予想は確信へと変わっていた。 <ワンちゃん。私のこと、守っててくれた…> どう考えても、春香のボディーガードをしているとしか思えない犬の行動。
春香の話を聞き、悟は驚きを隠せないでいた。
「それって明らかに犬が中山を守ってるってことだよな。」 「…今思うとね、ワンちゃんたちが私を気にしてくれるようになったのって…クロちゃんが見えてからなの。」 「え?」 「あの日から段々犬の視線を感じるようになって、犬友達も随分増えたわ。」 「俺と同じように?」 「うん。」
悟と春香は、立ち止まり、お互いの顔を見やり、首を傾げる。
<どうしたの?>…と言いたげに、コン太が2人の間に割って入り、顔を見上げていた…。
「春香ちゃん!可愛いわねー!うちの愚息にはもったいないわ!!」
笹山家で、てぐすね引いて待っていた満子は、春香が来るなり、悟を追いやってマシンガンのごとく話をしだした。 コン太はコン太で部屋の中を駆け回り、独自のやり方で嬉しさを表現している。 ……騒がしい笹山家。
<…姉ちゃんと父さんがいなくてよかった…> もしこれで笹山家全員揃っていたらと思うとゾッとしていた。
食事を終え、居間のソファーでくつろぎ、春香が持ってきたケーキを食べながら紅茶を3人で飲んでいた。 悟は隣に座る春香を気にし、さりげなく顔を見る。 春香は、ひっきりなしにしゃべり続ける満子の話しに耳を傾け、とても楽しそうにしていた。
<…緊張もしてないようだし、まあいっか> 悟は、満子の話が悟の子供時代の失敗談に移り変わるのを、半ば諦める形で見守っていた。
「春香ちゃん。うちの悟のこと、よろしくね!こんなんだけど、根は悪い奴じゃないから!」 「どういう意味だよ!『こんなんだけど』って!!」 「悟は黙ってて!私は春香ちゃんと話をしてんの!」
春香は、悟と満子のやり取りを見ていると、自然と顔がほころび笑顔になってしまう。 悟がどんな人に囲まれて育ってきたのか、知りたかった。 <イメージ通り、素敵な家族ね> ここにはいない悟の姉や父親像も自然と想像できる。 この家からは悟と同じ『匂い』がする。 この家の空気に触れた時、悟の傍にいる時と同じように、自由と安心感で包まれた。
どれだけ悟が愛されて育ってきたのかが感じられた。
「くぅーん。」 春香の足元で甘えるように顔を覗かせるコン太。 澄んだ瞳で春香をじっと見つめる。 春香は、ニコッと笑って抱き上げて膝の上に乗せ、抱き締める。 それを見ていた満子が何かを思い出したようで、突然話題を変えた。
「悟、そう言えばさ。私、この前からずっと考えていることがあるの。」 「何?」 「何であんたがやたらめったら犬に好かれるかってこと。」
悟と春香、同時に顔を上げ、満子に注目する。
「どう考えても我が家も、悟自身も、犬に感謝されたり、恩返しされるようなことをしているとは思えないのよね。」 「思えないってことは、結局何もわからないんだな。」 「それがね、一つだけ気になったことがあるの。父さんの実家に行った時、話に出たことなかったかな。おじいちゃん、昔、野良だった老犬を飼って、すごく可愛がってたって話、聞いたことない?」 「ない。じいちゃん、犬飼ってたんだ。知らなかった。」
<俺が生まれる少し前に死んじゃったんだよな…> 父方の祖父の話だ。悟は、写真でしか会ったことのない存在。
「うん。でね。数日前、おばあちゃんから電話があったの。悟、今年のお正月、何だかんだ言っておばあちゃんちに行かなかったでしょう。だからこの夏休みに是非悟に遊びに来て欲しいって電話だったんだけど、話をしているうちに、昔おじいちゃんが飼っていた犬の話になってね。病気で寝込んでいたおじいちゃん、その犬に向ってずっと何かを話しかけてたんですって。」 「何を話してたんだ?」 「『優しい子に育って欲しい。』とか『会いたかった。』とか。それってきっと悟のことなのよね。」 「え?」 「…おじいちゃんね、悟が生まれてくるの楽しみにしていたの。」
悟の父は、4人兄弟の末っ子で、すぐ上の兄ともかなり年が離れていた。 この話をすると本人は激しく否定するのだが、兄弟の中では、ダントツで可愛がられ、甘やかされて育ってきたそうだ。
祖父が40歳を過ぎてから出来た子供だということもあるのだが、子供の教育に対する厳しさや、親の威厳…みたいなものを誇示する気も、年とともにすっかり何処かへ行ってしまっていて、後に残されたのは、元気にのびのびと育って欲しい…という気持ちだけだった。
だから悟の父親は、競い合うことなどなく、兄弟の誰かと比較されたりとか、萎縮したりしないまま、親の願い通りにのびのびと育ち、のん気な性格は今現在でも変わらない。 そんな末っ子の、2人目の子供が生まれる。
それを知った時には、すでに祖父の体を病魔が蝕み始めていた。
床に伏せることが多くなり、入退院を数回繰り返していた。祖父は、自分の命が孫の誕生する日まではもたないと、悟っていたようだった。 長女の美穂が生まれた時も大騒ぎで、泣いて喜んだ祖父。 まだ見ぬ孫の顔を見たいと切に願う。 何とか悟の誕生まではと親族全員願っていたが、願いも虚しく、祖父は孫の顔を見ることなくこの世を去ってしまった。
「おじいちゃんは、きっと悟への気持ちをその犬に話していたのね。」 「…その犬、何ていう名前だったの?」 「確か、チコって名前だったな。何回か会ったことあるけど、真っ白い毛…っていうにはかなり薄汚れてて、ちょうどコン太くらいの中型犬だったわ。老犬だったってこともあるけど、大人しい犬だった。」 「その犬は…チコはいつ頃までいたの?」 「かなりの老犬だったからね。おじいちゃんが亡くなって…後を追うように逝っちゃった。あ、でもね。悟、チコと対面してるのよ。」 「え?」 「…今思い出したわ…。その時、ちょっと不思議な感じがした…。」
満子は、悟達に語る…と言うより、自分の記憶を辿る旅人のような、少し遠い目をし、少しずつ話しだす。
「悟が生まれて、しばらくして、おばあちゃんに会いに行ったの。家族揃って。その頃のチコは、もう自分じゃ立っていられなくて、日の当たる縁側に毛布を敷いてあげて、そこで寝ていた…。私がね、何かの用事で、悟を抱いてチコのいる部屋へ行った時、チコ、立ち上がったのよね。かなり危なっかしい足取りだったけど、フラフラと私の足元に寄って来て、弱々しく尻尾を振ってた。…じっと私の腕の中にいたあんたのことを見てたから、私、思わず膝をついて、見せてあげたわ。」 「それで?チコは何かやったのか?」 「しばらくの間、しょぼしょぼの瞳で悟を覗き込んでた。その後、自分の足で寝床に戻って行ったわ。」 「…ふーん…。」 「あの時のあんたとチコを包む空気が…何ていうか…とにかく不思議だった。」 「何だそりゃ。」
「うーん。何て言うか、チコ、犬なのに、しかもかなり弱った老犬なのに、その瞬間だけ、すごく頼りになるように見えた…。懐の広い、優しい人に見守られているような気がしたわ。」
満子は腕を組んで、一生懸命、その時の情景を表現しようとする。
「ただただ愛す…。うん。この言葉が一番しっくりくるわ。」 「ただただ愛す?」 「チコの様子は、悟のことを、全身全霊かけて愛することを誓ってたように感じた。」
と、言った後、満子はぺロっと舌を出して、照れ臭そうに笑う。
「なんてね。大袈裟かな。どんな犬も、好きな相手にはいつでも一途だもんね。」
悟は、満子の話を聞いて、何故だかチコと自分の出会いの風景を鮮明にイメージできた。 赤ん坊だった悟に、当時の記憶などあるはずないのだが、何故だかチコの眼差しをハッキリと感じることができる。 ふと、今、この瞬間も、イメージしたチコと同じ眼差しを感じ、反射的に目を向けると…。
「…!」 春香の腕の中にいたコン太が悟を見つめていた…。
<俺は…守られている> 今までだって犬に守られていることは自覚している。 実際に何度も何度も助けられてきたから。 けれど、誰かの、何かの意思を感じ、守られていると思ったのは初めてだった。
「母さん。俺、明日からでもばあちゃんち、行ってくるよ。」
自然と口から出ていた。
「え?随分突然ね。まあ、おばあちゃんも喜ぶと思うけど…。でも、本当に明日から行くの?」 「うん。ダメかな。」 「じゃあ、電話で確認してくる。お義兄さん達の都合もあるだろうしね。」
そう言って満子は電話をするために席を立った。 悟の祖母は、現在長男夫婦と暮らしている。長男夫婦の子供達はすでに社会人で家を出て独立しているので祖母と伯父、伯母の3人暮らし。
<行っても、何もわからないかもしれないけれど…>
父親の実家に、犬と自分とを結びつける何かがあるような気がした。 それに、久しぶりに祖母にも会いたいと思い、祖父のお墓にも挨拶に行きたかった。
「悟。おばあちゃん、OKだって。とても喜んでたわ。ご馳走用意して待ってるって。」
電話を終えた満子がソファーに戻ってきて、OKサインを右手の指で作り、ウィンクした。
「3日くらい泊まってくる。その間コン太の世話、いいかな?」 「了解。」
悟と満子のやり取りを見ていた春香が、何かを言いたげに、口を開きかけては閉じ、言葉を飲み込んでいた。 春香の様子に気が付いた満子が笑いかける。
「どうしたの?春香ちゃん。」
春香に話題が振られ、悟も春香に目をやる。 春香は突然注目され、少し強張った顔をし、コン太を抱く腕にギュッと力が入る。 緊張しているようだ。
「中山?どうしたんだ?」 「あ、あの…。」 悟に問いかけられ、言おうと決心するが、やはり躊躇われる。
「どした?」 春香の緊張を解すため、軽い口調で再度聞く。
「…あの!!私も、悟君と一緒に行っても良いですか?」
勢い余って、少し大きな声で一気に言い切った。 そして、頬を赤らめ俯く。
悟と満子、しばらく固まったように春香を見つめ…まずは悟が我に返る。
「一緒にって、俺と一緒に、ばあちゃんのトコへ?」
春香、コクンと頷く。 今度は満子が聞く。
「おばあちゃんの住んでいる所、片道4時間ほどかかるから、日帰りじゃ慌しいし、泊まることになるけど…お家の人とか大丈夫なの?」 「は、はい。多分…。」
満子は戸惑った。彼氏と2人きりで旅行に行きたいと思うこと自体はおかしいとは思わない。 けれど今回の行き先は笹山家の父方の実家だ。まずその点が不思議に思えた。 ラブラブ気分で行きたがるような場所ではないだろう。 …母親としては普通なら、まず、若い二人が泊りがけで旅行に行きたいと言われたら、もっと慌てるものなのかもしれないが、その点に関しては、満子はのんびりとしたもんだった。 まあ、行き先は祖母の家なので、2人きりの旅行というわけではないからでもあるのだが…。
満子とは違い、悟は初めは疑問に思ったものの、すぐに意図を察した。 春香も、悟と犬との不思議な絆のことを調べてみたいと思ったのだろう…と感じた。
<今や中山も当事者だからな> 犬の愛情を受ける身となった春香にとって、悟同様、チコの話はとても興味がある。
「…何もわからないかもしれないけど、それでも行く?」
悟は春香に確認の意をこめて尋ねる。 春香は迷わず頷いた。
「ちゃんと両親の承諾もとります。あの…いいでしょうか?」
遠慮がちにお伺いを立てる春香に、満子は笑顔を向ける。
「別に春香ちゃんさえ構わなければ、うちはOKよ。」
言った後、悟の方にグルンと顔を向け、厳しい目で見据える。
「いい?!道中春香ちゃんに変なことしないのよ!」
満子は釘を刺す。 「しねーよ!!何だよ変なことって」
悟は即座に抗議するが、満子は聞く耳持たずで、春香の方に身を乗り出す。
「いい?もしこの馬鹿息子が何かやらしいことしそうになったら遠慮なく殴っていいからね!」 「人を変態扱いすんなーーーー!」
…春香は、この親子の言い合いに、どう反応して良いのかわからず、ひたすら引きつり笑いをしていた…。
この日の夜、春香は両親の許可をもらうことに成功した。
満子が春香の両親に電話を入れて、きちんと挨拶し、事情を説明したことで、意外とすんなり認めてもらえた。 悟は荷造りを終え、明日に備えて早々とベッドに入り込む。 待ってましたとばかりにコン太もベッドに上がり、悟の横に寝そべる。 悟とコン太はいつも一緒に寝ている。…前にクロがそうしていたように…。
<中山とずっと一緒にいられるのかぁ…> 予期せぬラッキーな展開に、悟は本来の目的を忘れそうになるくらい、ワクワクする。
コン太は鼻の下を伸ばした幸せそうな飼い主の顔を、ペロンと一舐めした。
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