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悟達の高校では、一学期の期末テストが終わり、夏休みまであと数日となった時期、球技大会が開催される。
今年の種目はサッカーとバレーボール、そしてバスケ。
当日は青空の広がる晴天となった。 悟はサッカーのメンバーだったが、早々に負けてしまった。
「あっという間に暇になっちまったな。」
直人も同じサッカーのメンバーだった。暇になったと言いながら、ラッキーだと言う顔つきだ。 気楽な直人とは対照的に、悟は不機嫌な顔をしていた。
「笹山。もしかして、お前、口惜しがってる?」 「当たり前だろ。勝てると思ったのになー。」
試合終了ぎりぎりのところで逆転されてしまった。 しかも、悟は最後の最後で見事なまでに転んでしまい、右足の膝を擦り剥いてしまった運の悪さ。 短パン姿の膝から足首へと血が流れていた。 悟と直人は連れ立って校庭から校舎に向かいゆっくりと歩いていた。 悟が右足を庇いながら歩いていたので自然と歩みが遅くなっているようだ。
「お前、それ保健室行った方がいいぞ。」 「ああ。」
悟達に残された役割は、まだ勝ち続けているクラスのバレーボールとバスケの試合を応援することくらいなので、適当にぷらぷらして、休んでいようと思う。
校舎に入り、着替えるために更衣室に向う直人と別れ、悟は保健室へ足を向ける。 校庭の喧騒とは対照的に、校舎内はとても静かで、廊下を歩く悟の足音だけが響く。
「派手に転んだのねー。傷口砂だらけだし…。」
保健室の先生が、悟の傷を見て、まるで先生が痛みを感じたように目を細める。 消毒が終わり、最後に大袈裟なくらい包帯を巻かれて、治療が終了した。
ちゅうどその時、保健室のドアが開き、若い女性の先生が入ってくる。
「先生。職員室の方にお客様が来てるんですが…。」 「あら。ありがとう。今行くわ。」
言うと同時に席を立ち、椅子に座ったままの悟に目を落とす。
「じゃあ、笹山君。今日はあまり足を動かさないでね。」
そう言い残し、先生達は保健室から出て行った。 悟以外誰もいなくなった保健室は、廊下と同じくらい妙に静かに感じられる。 急ぐ用もないので何となく椅子に座ったまま、窓の外へ目を向ける。 校庭では次のサッカーの試合が始まっていて、緊迫した試合展開に興奮し、応援する声が響いている。
…と、静かにドアが開く音がした。 悟がドアの方へ振り返るのと同時に、少女が彼の名を呼んだ。
「笹山君。怪我しちゃったの?」 「国井…。」
上は体操服で、下はジャージ姿の里美が、入り口で立っていた。 ドアを閉め、ゆっくりと悟の許へ歩いてきて、膝の怪我を心配そうに覗きこむ。
「大丈夫なの?」 「ああ。平気。…それより、お前もどっか怪我したのか?」
悟は、警戒しながら尋ねる。 里美は、悪戯を思いついた時の子供みたいな笑みを浮べ、悟の真正面にあるベッドに座る。
「笹山君が保健室に入るの見かけたから来ただけよ。」 「お前も暇な奴だな。」
悟は呆れたように目を細め、ため息をつく。 里美は足を組んで左手で頬杖をつき、実に楽しそうな笑みを浮かべる。
「ねえ、笹山君。」 「何だよ。」 「この状況、私の思うツボなんだけど。」 「へ?」 「笹山君足怪我して素早く動けなさそうだし、さっきドアに鍵かけたし、2人っきりの密室でおまけにベッドまであるし。」
悟はギョッとして目を見開いて、慌てて立ち上がる…が、膝が痛み、再び椅子に腰を降ろす。 その様子を見て、里美はプッと頬を膨らませ拗ねて、悟を睨む。
「あのねぇ。普通、こんなに可愛い子から迫られたらもっと喜ばない?」 「誰が喜ぶか!」 「…そう言う可愛くないこと言ってると、本当に襲うわよ。」
里美は獲物を狙う猫のような瞳で悟を視界に捉える…が、マジで怯えている悟の顔を見て、クスクス笑い出す。 <冗談か…> 悟はホッとして肩の力を抜いた。
「お前なー。もういい加減にしてくれよ。」 「この前私を脅した仕返しよ。」
この前とは、里美が仕掛けた罠を悟が逆に利用し、脅した一件だ。
「あれはお前が悪いんだろ!」 「わかってる。ごめんね、もうしないわ。」
笑いながらも、素直に詫びる里美。…やけに素直過ぎると、それもまた悟の警戒心をあおる種になる。
<ビックリ箱みたいな奴だな> 最近、里美に纏わり付かれ、積極的で予測の付かない行動に翻弄され気味な悟にとって、彼女はまさにビックリ箱。 と、里美が目を伏せ、小さな声で呟いた。 少し寂しげな表情を一瞬垣間見せるが、悟は気がつかなかった。
「…あーあ。全然脈なしかぁ。」 「え?なんか言ったか?」
里美の声はとても小さく、悟には聞き取れなかった。 表情もガラッと変わり、今は元気印の笑顔を貼り付けている。
「ううん。なんでもない。それより笹山君に報告することがあるの。」 「何だよ。」 「私ね。やっと封筒を開けることが出来たの。」 「あん?封筒?」 「うん。詩織からの手紙。」 「詩織って…例の、小学校の時の仲たがいしたって親友だろ?」 「そう。実はね、私が転校した後、詩織から一通だけ手紙がきたの。」 「へぇ…。」 「私ね、その手紙ずっと読んでなかったの。もらった時はすぐに破いて捨てようと思ったんだ。どんなことが書いてあろうと許すことなんて出来ないと思っていたから。」
元気な笑顔が、澄んだ微笑みに変化する。 この時の里美の表情は、少し泣きそうにも見えるが、悲しさを感じさせるものではなく、優しいものだった。
「…でも、捨てられなかった。何度も何度も捨てようとしたけれど、ダメだった。そのくせ、封を開けることも出来なくて、ずっと机の引き出しにしまっていたの。」 「その手紙、読めたのか?」 「うん。」 「そっか。」 悟の、この手紙に対しての反応は、ここまでで終わってしまう。 里美は、心もち硬い表情で尋ねる。
「…手紙の内容、興味ないの?」 「ないよ。」
悟のそっけない返答に、里美の胸が切なく痛む。
<少しくらい私のことに興味持ってくれてもいいじゃない> 悟の気持ちが春香にあることは知っていても、やっぱり恋する乙女としては、まるっきり眼中にない態度をされると落ち込んでしまう。 これがいつものラブコールに対する態度なら、それほど凹まないが、里美の心に一番重く圧し掛かっていた過去に関係している話だからこそ、少しは耳を傾けて欲しかった。
「何しょぼくれてんだ?」
いきなり大人しくなって肩を落としている里美に、悟は首を傾げて聞く。
「何でもないわよ!!」
プイッとそっぽを向いてしまう。
「良いことがあったってのに、何怒ってんだ?変な奴。」
<え?良いこと?> 里美の動きが止る。 悟の方を見ないまま耳だけそばだてる。 少し鼓動が早くなる…。
「良いことって、何で笹山君にそんなことわかるのよ。」 「あ?だって、その手紙、お前が嬉しくなるようなことが書いてあったんだろ?」 「だから…。だから、内容も聞いてないのに、ましてや興味も持ってないのに何でそんなことがわかるのよ!!」 「お前の顔見てりゃ、書いてあった内容が良いことだったのか、悪いことだったのかくらいわかる。それ以上のことは聞く必要ないだろ。良かったな。お前、さっきすごく良い顔してたぞ。」
<笹山君…> 里美はそっぽを向いたまま、体全体がじんわりと温かくなるのを感じた。 <誰よ、笹山君が鈍感でガサツな男だなんて言った奴> 学校の噂で、悟はかなり酷い言われ方をしている。里美はその噂を真に受けている奴ら一人一人に声を大にして言いたかった。 <一番肝心なところはちゃんと見ていてくれる> ただ、表現が雑で誤解されやすいだけ…まあ、これは里美がかなり悟に対しひいきしている評価だとも言えるが…。 <笹山君を振ってきた女たちは大馬鹿者ね> 里美にとって悟はとびっきりのイイ男以外の何者でもなかった。
ようやく読もうと決心した詩織からの手紙は、黄色く黄ばんでいた。 のりで封をされていた部分も古くなり、簡単に剥がれ、数年ぶりの時を経て、詩織の気持ちが綴られた便箋が顔を覗かせた。 手紙には、ただただ里美に詫びる内容が書かれていた。 周りから爪弾きになることを恐れ、流されて、本当の友達を失った…詩織はとても後悔し、里美に詫びる言葉を便箋いっぱいに書き綴っていた。 懐かしい詩織の字を目で追い、過去の辛い想い出が少しずつ洗い流され、最後に心の中に残ったのは、大好きだった詩織の笑顔だけだった。
里美は、悟の方へ顔を向けた。 悟はというと、もう違うことに意識を向けていて、横を向いて窓の外を見つめていた。 悟の横顔を心ゆくまで見つめ、里美は彼のために自分が出来ることを実行しようと思う。 それはとても切ない、損なことではあったけれど…自分に唯一できる悟への贈り物だったから。
<恋のキューピット役かぁ…私には似合わないんだけどね> 悟と春香が、両想いのクセに未だにもたついていることを里美はちゃん知っていた。 里美が2人の邪魔をしていたことも原因の一つだが、それ以上に悟が彼らしくない消極的な態度でいるからだと里美は分析している。 もちろん、里美はギリギリまで諦めずに2人の間に割って入っていたのだが、たった今、諦めることを決意した。
「ねえ、笹山君。」 「ん?」
悟はちょっと小首を傾げ、里美の方に向き直る。
「最近、春香ってば、すごく可愛くなったと思わない?」 「中山はもともとすげー可愛いよ。」 「そのことに、みんな気が付き始めてるわよ。」 「え?」
悟は不安げに里美のことを見つめた。
「知ってる?彼女、今男子の間でちょっとした人気者。狙ってる奴多いわよ。」
作り話でもなんでもなく、事実だった。 以前と違い、よく笑い、楽しげに話をする春香は、とても魅力的で可愛かった。 今まで春香の気持ちを縛り付けてきた全ての重石が取り除かれ、彼女本来の明るさが顔を出した結果だ。 誰が彼女を変えたのか、里美はよくわかっていたが、肝心の本人がまったく気が付いていない。
<確かにこういうトコは鈍感よね。ホント、自分のことだとまるでわかってないんだから>
里美は柔らかな眼差しで、愛しげに悟の様子を見守る。
「狙ってるって…。」 悟は焦っていた。 <俺、川田先輩のことばっか気にしてたけど…> 自分の甘さに眩暈がする。 <中山のこと好きになる奴、他にもいるに決まってるじゃないか!>
動揺する悟に、里美は更に追い討ちをかける。
「この球技大会期間中に告白する奴、いると思うわよ。イベントで盛り上がって、ついでに気持ちも盛り上がっちゃてるから、良い雰囲気だしね。」
悟は、想像したくないことをバシバシ里美に言われ、ちょっと恨みがましい視線を向ける。
「それに、もうじき夏休みよ。やっぱ夏休みは彼女とラブラブだと楽しさも倍増するわよね。告白するには今しかないでしょ。今日も春香に接近してる男子結構見かけたしね。」
ガタンっ…と、派手な音を立てて椅子を揺らし、悟は立ち上がる。 怪我した足を庇うことを忘れていて、顔を顰めるが、構わずに走り出す。
ドアを開けようとするが、鍵がかかっていたので、慌ててロックを外し廊下へと飛び出した。 悟は怪我をしているので、少しリズムのずれた足音を立てて廊下を走って行く。 里美は足音が遠ざかるのを、耳を澄ませてずっと聞いていた。
「ぜんぜんなびかなかったな。笹山君。」
先ほど、冗談で悟に迫ったわけではなく、里美は本気だった。 少しでも悟がその気になれば押し倒すまではいかなくても、キスの一つくらい奪ってやるつもりだったのに、怯えられてはさすがに無理強い出来なかった。 里美がどんなに恋心をぶつけても、悟の、春香への気持ちは1ミクロンも動かなかった。
「あーあ。失恋かぁ。こんな可愛い子振って後で後悔しても知らないからね。」
思い切り伸びをしてから勢いよく立ち上がる。
先ほどまで悟が座っていた椅子を見下ろし、微笑む。 ちょっと背中を押してあげれば、悟と春香はすぐに結ばれる…それがわかっていたから、力いっぱい押してやった。
『良かったな。お前、さっきすごく良い顔してたぞ。』
悟の声が耳に残っている。
「その気もないのに、嬉しくなるようなこと言わないでよね…。笹山君の馬鹿。」
窓から注ぐ夏の陽射しが、里美の頬に当たり、涙の粒が光を反射させながら零れ落ちた。
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