戻る

 パトカーが到着し、野口と瑞希はもちろんのこと、尚也、悟も警察に連れて行かれ事情聴取されることになった。
 野口の顔は腫れ上がっていい男も台無し状態だったが、自分でしっかりと立ち上がり、歩いていた。
 最寄の警察署で、悟は自分が何故今回のことと関わったのか説明を求められ、ある意味追い詰められていた。
<どう言えばいいんだ?>
 本気で悩んでしまった。
 犬の幽霊のことなど信じてもらえないことはわかっていたが、今回ばかりは瑞希に話をした時と同じ嘘を言うわけにはいかなかった。
 悟は交通事故があった6月11日、同時刻、家にいた。そのことは家族みんなが知っていたから、調べられれば嘘はすぐにばれてしまうからだ。
 だからといって、事故のことを犬の幽霊に教えてもらったなどと言っても、笑い飛ばされ、挙句はからかっているのかと怒鳴られるだろう…。
 そう思いながらも…深く考えるのが苦手な悟は、半ばヤケクソ気味でクロのことを話してしまった。
 想像した通り<何を言ってんだこいつは>と、呆れられてしまう。
 まあ、それでも、瑞希の家から連れて来られた春香も後から事情を聞かれ、悟と同じことを言ってくれたことと、警察が団地に駆けつけた時、現場に犬がたくさんいたことから、多少耳を傾けてくれる刑事さんもいた。
 で、結局、尚也のことを調べているうちに、偶然憩いの森公園に集まる犬仲間から鍋島のことを知り、事故にでも遭ったのではと聞き込みを始めた悟が野口に狙われたことで事実に辿り着いた…という事で話はまとまった。

 野口は、事件の全てを自分の罪だと認め、電話で告げたように最後まで瑞希も被害者なのだと主張していた。
 一方、瑞希は自分が何をし、どんな罪を犯したのか、隠すことなく全てを明らかにした。

 そして、尚也は…。

「上村瑞希は君を拘束し監禁したと言っているんだが…。」
「俺は自分の意思で上村さんの家にいたんです。監禁なんかされてない。」
「でもねぇ…。」

 事情を聞いていた刑事さんはほとほと困ってしまった。
 自分が監禁された事実を頑として認めようとはしなかったのだ。

 …野口が自ら警察に電話を入れて明らかになった轢き逃げ事件。
 これがどんな風に処理されるのかはまだわからない。
 いずれにせよ、野口と瑞希は、罪を償う日々が始まる。

 夜も更けて来た頃。
 悟、春香はそれぞれの親が迎えに来た。
 一番早く駆け付けたのは、悟の母親、満子だった。
 悟の無事な姿を確認すると、まず一発、平手打ちが飛んできた。

「無事だったからよかったものの、警察から電話をもらった時は心臓が止るかと思ったわよ!!」
 悟が野口に襲われたこともその電話で知った。
<何で相談してくれなかったのよ!!>
 それが口惜しくて、だからこそ怒りが湧き、文句の嵐だった。
 けれど、それも悟の元気な姿を見てホッとした証拠だ。
 そうこうしているうちに、春香の親も迎えに来た。…とても真面目そうな男性だった。
 春香の父親、広志だ。
 満子と悟に軽く頭を下げ、春香を連れて帰って行った。
 別れ際、悟は小さな声で「大丈夫か?」と言った。家族との確執を知っていたし、今日は野口に人質に取られたことや尚也のことで春香の心にも色んなことがあったはずだから…。
 春香は、ぎこちなく微笑み、微かに頷いた。
 悟と春香は瑞希の家で別れた後、ほとんど会話する機会がなく、悟は帰って行く春香達親子の後姿を心配そうに見守っていた。

 警察からの帰り道、駅への道を歩いていると、満子は黙り込んでいる悟にニヤッと笑って言った。

「ねえ、ちょっとそこのラーメン屋、寄っていかない?」
「あん?」

 満子が指差した先には、ちょっと小汚い暖簾を掲げたラーメン屋があった。
 それを見た途端、悟は自分が空腹なことに気がついた。
 そりゃそうだ。夕方パフェを食べてから何も口にしていない。
 今はもう夜の10時を回っている。

「俺も腹減った。」
「じゃあ、決まりね♪」

 満子は軽い足取りで店に入って行き、悟も後に続いた。
 もう閉店時刻間際らしく、他に客はいなかった。
 でも、女将さんらしき小太りな中年の女性は満面の笑みで迎え入れてくれた。

 4人用の席に付いて、注文をした後、満子は悟に意味深な笑みを向ける。
 道すがら、悟はここ最近起きた出来事について、満子に尋問を受ける前に洗いざらい自供していた。

「ねえ、悟。あんた、あの中山春香ちゃんって子、好きなんでしょう。」

 悟は飲みかけていたお水を喉に詰まらせ咳き込んだ。
 満子を睨み、少し頬を赤くして答える。

「ああ。そうだよ。悪いか。」
「別に悪くないわよ。そーかー。だから悟君としては、頑張っちゃったわけね。」
「からかうなよな。」
 ムッとする悟。
 でも、満子のからかいの笑みは、嬉しそうな微笑みに変化していた。

「からかってなんていないわよ。」
「嘘付け。」

 プイッとそっぽを向く悟に、満子は目を細める。

<私の息子も、結構良い男に育ったじゃない>

 満子はちょっと親バカなことを考え、クスッと笑った。

「はい。塩ラーメンと、チャーシュー麺。おまちどうさん。」

 女将さんが注文の品をお盆に乗せて持って来てくれた。
 塩ラーメンは満子が、チャーシュー麺は悟が頼んだものだ。

「さあ、とっとと食べちゃいましょう!」
「ああ。」

 満子と悟は、割り箸を手に、さっそく食べ始める。

「ん〜、美味しい♪」

 満足げに麺をすする満子を、悟は優しげな眼差しで見ていた。

 満子は悟の話を全部信じてくれた。
 クロの幽霊のことも、全部信じてくれた…。
 あまりにもすんなり納得していたので、逆に悟の方が尋ねてしまったくらいだ。

『なあ、少しは疑わないのか?』
『何を?』
『何って…犬の幽霊だぜ??信じられるのか?』
『馬鹿ねー。何年あんたの母親やっていると思ってんのよ。あんたは犬のアイドルなのよ。幽霊だって取り憑くこともあるでしょう。…それに、あんたが嘘を言ってるかどうかなんて私にはお見通しなのよ。』

 そう言って笑った。

 悟は目の前で元気にラーメンを頬張る母親に心底感謝し、この人の子供に生まれてこられて幸せだと感じていた。

<中山…どうしてるかな>
 悟は春香に思いを馳せる。
 心配でたまらなかった。

 …その頃春香は、父親、広志が運転する車に揺られ、助手席で窓の外をぼんやりと見つめていた。
 警察を出てから、何の会話もない。
 春香は、親の無関心には慣れていたので特には何とも思っていなかった。
 …が、信号待ちの時、広志から意外な言葉を聞くことになる。

「…春香。」
 名前さえ、何ヶ月ぶりに呼んでもらえたのだろう。
 春香は広志に顔を向ける。
 広志は真っ直ぐ前を見つめたまま、口を開いた。

「秀一のこと、母さんから全部聞いた。今日は大変だったらしいな…。」

<またお兄ちゃんの話…>
 期待など何もしていなかったが、春香が事件に巻き込まれていたことに何の関心も示さない父親に落胆する。

 ちょうどその時信号が赤から青に変わり、広志はアクセルを踏んで車を走らせる。

「…春香と話がしたい。」
「……え?」
<お父さん?>
 突然の広志の言葉に、春香は驚いて顔を上げる。

 広志は相変わらず春香の方を見ようとしなかったが、その様子はかなり緊張しているように感じる。

 秀一と春香が溜め込んでいた気持ちを爆発させたことで、英子は途方に暮れ、広志に助けを求めた。
 広志はこの時初めて自分のこと以外に目を向け始めていた。

「…私は今日の今日まで、家庭の問題などないと思ってきた。いや、家族に目を向けることなどなかったから、問題など何も見えなかったんだと思う。」

 広志はため息をついた。
 広志だけではない…母親である英子も、秀一のためと言いながら、実は自分のことしか考えていなかった…そのことを愛してきた秀一自身に思い知らされた……。
 気が付いたはいいが、どうしていいのかわからない自分に更に愕然とする。
 そして、秀一は、春香が英子に叫んだ言葉を2階で聞いていて、妹の気持ちが胸に突き刺さった。
 
 結局みんな、求めるばかりで…肝心な相手の気持ちなど何も考えてはいなかった…。
 
「今さらだが…話をしよう…。」
「お父さん。」
「……春香が無事で良かった…。」

 それから、広志は家に帰るまで口を噤んだままだった。
 春香は俯いて、涙が出そうになるのを必死で堪えていた。
 もしかしたら、春香がずっと欲しかったものが手に入る日が来るかもしれない…そう思い胸を熱くする。
 広志の言葉は、とても短く、気持ちを表すには拙いものだったが、春香にとっては心が踊り出すほど嬉しいものだった。
 嬉しくて嬉しくて…。
 でも、今泣き出したら広志が慌てて事故を起こしかねないと思い、グッと我慢していた…。

<笹山君…私、あなたみたいに自由になれるかな…>
 車の外に目をやり、夜景を瞳に移す。
 少し涙ぐんでいて、色とりどりのネオンの光が滲んで見えた。
 嬉しい時も、思い出すのはやっぱり悟のことで…。
 春香の心の中には悟の存在がドーンと根を生やしていた。


 まあ、まだ本人は知らないのだけどね。

2002.10.10