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サイレンの音に気が付き、顔を上げた尚也。
<何で警察が?> 立ち上がりフェンスまで走って行く。 下を見ても、まだパトカーは見えないが、サイレンの音は確実にこの団地に向って来ているように思えた。
その時、今まで抜け殻のようだった野口が痛みで顔を顰めながらゆっくりと身体を起こし、呟いた。
意識もしっかりと戻ったようだ。
「…警察…俺が連絡した。」 「野口…?」
尚也は野口に目を向けた。
「…償うよ…。一生掛けて、償う…。」
野口の声は弱々しかったが、ちゃんとした意思が込められているのを感じた。 尚也は彼の意外な言葉に、目を見張る。
野口は安堵と痛みを同居させているような微笑を浮かべていた…。
<逃げずに、償わなきゃ…俺に出来ることはそれしかない…>
野口は尚也の怒りに触れ、自分が奪ってしまったものの大きさを肌で感じ、逃避せずに、償うことを誓う。
今の野口にとっては、目の前のフェンスを越えるよりも、生きて償うことの方が辛く険しいことだった。
だからこそ、そうしなければと強く感じる。
尚也は、彼のことを到底許すことなど出来ないが、それでも償うと言った彼の言葉を複雑な思いで受け止めていた。
野口に対する怒りは消えるはずもない。
どんなに時間が経とうと、大切な友人を奪われた悲しみは消えない。
だから今は…野口の言葉を痛みと共に自分の中に刻み込もうと思う…。
その痛みは、鍋島とクロが尚也の傍にいてくれた証だから。
楽しかった想い出と共に、その存在を奪われた痛みも抱えて生きて行こうと思う。
「尚也君…。」
突然背後から呼ばれ、しかもその声が瑞希のものだったので驚く。 慌てて振り返り、彼女の姿を探す。
「瑞希さん…。」
瑞希はビーグル犬を抱き締めたまま、そっと尚也の前に立っていた。 泣きはらし、赤くなった目が、まだ潤んでいた。
「私も償います。今まで、色々とごめんね、尚也君…。」
そう言った瑞希に、前のような危うさはなかった。 もう死ぬなどと思うことは、ないだろう。 尚也は、力強く頷いた。
「あの…瑞希さん。」 「なあに?」 「俺の言ったこと、本気だから。」
尚也は、少し俯き加減で一途な眼差しを瑞希に向けていた。 瑞希は顔を上げ、少年の気持ちに耳を傾ける。
「俺、瑞希さんのこと本気で好きだから。」 「尚也君…。」
「返事は、今はいらない。俺が、ちゃんと自分の足で歩いて行けるようになったら瑞希さんに会い行くよ。その時、返事がもらえたら嬉しい。」
社会人になり、ちゃんと自分の力で生活出来るようになった時、返事を聞こうと思った。
それは決して遠くない未来だと、尚也の瞳は語っていた。
瑞希はすぐには返事が出来なかった…。
<私なんかあなたに相応しくない>
<私はあなたに好きになってもらう資格もない> <あなたにはもっと似合う別の女性がいるはず>
様々な言葉が脳裏に渦巻いていた。
でも、実際に口にはしなかった。
瑞希に会いに行く。
それは、尚也にとって近い将来必ず実現するものだと思っていた。 けれど、瑞希にとっては手の届かない、遠い幻のような夢だった。
それほど自分と尚也との距離を感じていた…。
ひと回り近くある年齢差も、これから歩んで行く未来も…。 尚也のことは好きだ。でも、その気持ちは恋とか愛とか、そういう思考になる前に、瑞希は自ら打ち消した。 尚也には幸せになって欲しかったから。 だから、自分のことなど忘れて、真っ直ぐに生きて行って欲しかった。
これは、尚也に伝わることのない、瑞希の本心。 伝える気はなかった。
瑞希は、今ここで尚也の願いを壊す気などなかったから。
時が流れ、きっと尚也も別の道を歩き出す…何の疑いもなく、そう思っていたから、あえてここで夢を壊すことはない…そう思っていたから…。
「瑞希さん…。」 何も答えてくれない瑞希に、尚也は少し不安を感じた。 瑞希はぎこちなく微笑み、右手をゆっくりと上げて、尚也の頬に触れる。
「ありがとう。」
瑞希の口から出た言葉は、この一言だけだった。 「瑞希さん。」
尚也にとってこの一言は、希望だった。
瑞希がちゃんと自分にチャンスをくれたのだと信じ、笑顔になる。 でも、瑞希にとっては、自分のことを救ってくれた尚也に対する感謝の気持ちと、別れの言葉だった…。
<元気でね。尚也君> 瑞希は目の前の、嬉しさを隠し切れず、笑顔を見せる少年に、胸が熱くなる。 瑞希も尚也の気持ちに触れて、ほんの少しだけ夢見てしまったから…。 尚也は、もうすぐ少年から青年へと成長し、逞しくて、優しい男になるだろう。
そんな尚也に会いたいと…瑞希も一瞬だけ夢見てしまったから。 瑞希は、クスッと笑う。 <馬鹿ね…私>
今、自分に出来ることは、自分を好きだと言ってくれた少年の幸せを願うことだけなのだと言い聞かせた。
今、2人の気持ちはこんなに違いがあり、離れ離れで…。 尚也の未来。 瑞希の未来。
2人の人生がもう一度交わることがあるのかどうかは、まだわからない。
尚也と瑞希のことを見守っていた野口は、苦笑いする。
瑞希の心の中を見透かしていたからだ。 <お前、また遠回りしてんだな…> 瑞希の、どこまでも自信のない行動を野口は嫌というほど見てきたから、彼女が何を思い、何を願っているのかが手に取るようにわかっていた。
<俺なんかより先に、そいつと出会っていたら良かったのにな…> 心底そう思った。 けれど、瑞希はきっと幸せになれると確信していた。 尚也はきっと瑞希に会いに行く…。 そして、瑞希の頑なな気持ちを振り向かせることが尚也には出来る…ごく自然に、そんな未来が2人には待っていると思えたから。 瑞希の幸せ…野口にとって、それが唯一の願いだった…。
一方、2人のやり取りに魅入っていた悟はと言うと…。 <川田先輩、本当に上村瑞希に惚れてんだな…> 尚也の真剣な姿は悟の恋心にも影響していた。 自分の中に相反する気持ちがせめぎあっているのを感じていた。
一つは尚也の気持ちが、完全に瑞希に行っているのを再度見せ付けられて、春香のことを思うといてもたってもいられないような、切ない気持ち。春香の想いが尚也に届かないことを予感し、まるで自分のことのように胸の痛さを感じていた。
…が、同時に<やっぱ中山には俺しかいないんだ!!ここはガンガン攻めるっきゃないぜ!>などと都合の良いことを考えちゃっている自分にちょっと呆れながらも、<だってマジ好きなんだからそう思っちゃうのも無理ないだろ>と、開き直っていたりもしていた。
その時、地上の方から、複数、犬の名前を呼ぶ声がこだました。 悟はフェンスに駆け寄り下を見ると…。 「あ…犬の飼い主さん達だ…。」
団地の周辺に、愛犬の名を呼びながらウロウロしている主婦らしき人や青年、子供やお年寄りが集まってきていた。 すると、屋上にいた犬達は一斉にドアへと駆け出し<ドアを開けて!!>と意思表示する。 悟は慌ててドアに駆け寄り、犬達の願いを叶えてやる。
「みんな、ありがとな。」
最愛の飼い主さんの許へと走って行く犬達、一匹一匹に礼を言う。 悟とクロの願いに協力してくれた、気の良い仲間達。 みんなを見送って、もう一度フェンス越しに下を覗くと、どの犬も飼い主さん達に、軽く叱られながらも抱き締められていた。
…と、そんな光景に混じり、パトカーが到着した。
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