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左手で野口の胸倉を掴み、右手拳を振り上げて満身の力を込めて振り下ろす。 嫌な、鈍い音がして、野口の左頬が一瞬歪む。 口の中が切れたらしく、口の端から血が流れる。
「お前が逃げずに、すぐに助けを呼んでたら、鍋島のじーさんは死なずに済んだかもしれないんだ!!」
尚也は、野口の身体をゆすり、悲痛な声で叫ぶ。
「何で助けを呼ばなかった!!その所為でじーさんは…。」
そこから先は言葉にならなかった。 尚也の目から涙が零れ落ちる。 無言のまま泣きながら野口を殴り続ける。 野口は完全に無抵抗で、されるがままだった。
悟は、そんな2人のことを見て、立つ尽くしていた。 思考は完全に停止し、体中から怒りと悲しみを溢れさせている尚也と、抜け殻のような野口をただただ見つめていることしか出来なかった。
このまま尚也が殴り続ければ、野口は下手をすれば死んでしまうかもしれない。 微かに、脳裏にそんな考えが浮ぶが、そこから先の思考が発展しない。 その時、背後のドアからカリカリと引っかくような音がして、悟はゆっくりと振り返った。 悟は、何を考えることなく、やるべき仕事を見つけたように足を運び、ドアを開けた。 すると、団地へ案内してくれた黒ぶちの犬がスルリと身体を滑らせ入ってきて…その後に、もう一匹続いて入ってきた犬は…。
「…クロ!!」
クロはドアが開くのを待ちわびていたようで、勢いよく飛び出してきた。 まっしぐらに尚也の許へと走って行く。
悟はクロの姿を目で追って行く。
「わん!わんわんわん!!くぅーん!」 クロは、尚也の周りを忙しなく駆け回り、懸命に何かを伝えようとしている。 尚也の激しい怒気を感じ、尻込みしながらも前足を尚也の膝に置き、尻尾を振って何かを訴えている。 でも、クロの姿は尚也には見えない。
<クロ…?> 悟はクロの行動をずっと見ていた。 野口は鼻からも血を流し、頬も段々腫れてきている。 意識も朦朧としているようだ。 尚也の方も拳が傷つき、それでも殴るのを止めようとしない。
「くぅ〜ん…。」 クロは悲しげに尚也を見つめ、後退り、その後悟の方へと目を向けた。
クロの、澄んだまるい瞳が悟を捉える。
悟は、クロが尚也に何を伝えたいのか、この時感じた。 <クロ…> 悟は弾かれたように走り出し、尚也に向って叫ぶ。
「やめろ!!」
振り上げられていた右腕に横から飛びついた。 尚也は、怒りの捌け口を失い、鋭い眼差しで悟を睨む。
「何で止めるんだ!!」 「もう充分だろ!!これ以上殴ったら死んじまう!」
悟の言葉を聞いて、尚也はハッとし、野口に目を落とす。 コンクリートの地面の上でグッタリと倒れている野口。 頬は涙で濡れ、微かに声を漏らしていて、小さな声でずっと謝り続けていた。
『野口さん、あの人…死ぬ気だわ…。お願い!尚也君…彼を、止めて…。お願い…。』 瑞希は野口を助けてくれと言った。その願いを叶える約束を尚也はしてあげられなかった。 瑞希を巻き込み、鍋島の命を奪った野口を目の前にして、どうしても怒りを抑えられないでいる。 その葛藤を、今度は止めに入った悟にぶつける。…まるで答えを求めるかのように。 …今の尚也にはそれしか出来なかった。
尚也は、自分の右腕を掴む悟の手首を左手で掴み、力任せに引き離し、立ち上がる。 そして悟に詰め寄る。
「こいつは鍋島のじーさんを見殺しにしたんだ!!そんな奴を助けるのか?」
叫ばずにはいられなかった。抑えられない悲しみと怒り。 尚也にとって、鍋島は大切な存在だった。 自分のことを鍋島に知って欲しかった。 鍋島のことも知りたかった。 人と接し、自分自身を知ったり、少しずつ変われたり…誰もが普通に繰り広げている日常を尚也は拒絶し生きてきた。 そんな尚也に初めて出来た友達。 自分にも友達が出来たことをやっと知ったのに、その矢先、永遠に失ってしまった。 鍋島との未来を完全に奪われてしまった。
「じーさんを殺したんだ…。」 「川田先輩…。」 悟は尚也の気迫に押され、自然に後退ってしまう。 でも尚也は、逃げることを許してはくれない。 尚也にどんどん追い詰められ、背中にフェンスが当たるのを感じ、これ以上逃げ場がないことを知る。
「俺はこいつを許せない…。」 尚也の声は震えていた。 悟は尚也が自分に何を求めているのか探そうとした。 尚也の瞳は、激しい憎しみで染まっている。 でも、野口に対する怒りを必死に抑え、悟に助けを求めているようにも見えた…。 どうしたら許せるのか教えて欲しい…そう叫んでいた。 悟には憎しみからくる殺意と闘っている姿に見えた。
悟は視線をずらし、後ろにいたクロを見る。 クロは、ただじっと、悟と尚也を見守っている。 悟は再び尚也に目を向け、口を開いた。
「…なあ、川田先輩。俺と中山が何故あんたに辿り着けたかわかるか?」 「…え?」 「俺は事故を目撃なんかしてねぇ。もちろん中山も。」 「じゃあ誰なんだよ!そいつが通報してくれたら…。」
バイクに乗った時、悟に目撃者のことを尋ねた尚也の声音に怒りが込められていた理由は、これだ。 通報してくれていたら、鍋島の命を救えたかもしれないからだ。 悟は尚也の気持ちを知り、切ない胸の痛みを感じる。
「…通報したくても、出来なかったんだよ。」 「何でだよ!」 「目撃者はクロだから。」 「…何だって?」 尚也は眉間にシワを寄せ、悟を見据える。 とても信じられるような話ではなかったからだ。 クロは死んでいるはずだ。例え生きていたとしても、犬が事故を伝えられるわけがないと思うのが普通だ。
だから、悟はクロとの出会いを丁寧に説明していく。
「俺さ、昔からやたら犬に好かれる特技があるんだ。6月12日、犬の幽霊に取り憑かれたんだ。真っ黒い毛の中型犬。そいつがまた意気地がなくて気が弱くて…幽霊のクセに雷の音にも腰を抜かして、言い争う声を聞いただけで部屋の隅で震えているような犬でさ。でも俺に必死に何かを伝えてんだ。」
尚也は悟が語る犬の特徴がクロそのものなので、驚く。 そして、犬の幽霊が現れた日にちにも心臓の鼓動が早くなる。 6月12日。事故があった次の日だ。
「クロがお前に取り憑いたっていうのか…?」 「そうだよ。」
尚也は端から疑って聞いていた悟の話に、次第に耳を傾け始め、引き込まれていく。
「クロに出会った後、中山に出会ったんだ。…中山は学校に来ないあんたのことを探していた。あんたのことを心配して、たった一人で必死で探していた。中山から、あんたがクロと関係があるって聞いて、俺も協力したんだ。…そして、憩いの森公園に辿り着いた。」
事故のあった場所。ニュースにもなっていない交通事故を知っている者がいたとしたら、目撃者、もしくは事故の当事者だ。 事故を目撃していないと言う悟の言葉を信じるならば、誰かが彼に事故のことを知らせたとしか思えない。 そして悟の口から語られるクロの様子は、尚也が良く知っているクロそのものだ。
<本当にクロが…?> 尚也は胸が締め付けられる。
「事故のことを教えてくれたのは、クロだよ。車が行き交う横断歩道に、腰抜かしながら立って、あそこで事故があったことを教えてくれたんだ。鍋島さんのことも教えてくれた。」
悟はどうやって鍋島のことを知り、尚也の許へと辿り着いたかを説明した。 尚也は、もう疑う気持ちなどなく、悟の言葉をそのまま受け入れていた。
「交通事故の目撃者は、クロなんだ。目撃者って言うより、被害者だけどな。事故のことを一生懸命誰かに伝えようとしていたんだよ。」
そのクロの想いに気が付くことが出来たのは悟だけだった。 意気地なしのクロにとって、事故のことを伝えることがどんなに大変だったか、尚也にだってわかる。
「そのクロが、今あんたの傍にいて、悲しんでんだよ。」
悟は尚也の右手首を握り、彼の目の前に持ってくる。 尚也の目に、傷つき、血が流れている自分の拳が映る。
大切な人の命を奪った存在。 もし、野口が逃げずに事故を知らせていれば、鍋島は死なずに済んだかもしれない。 …許せるはずがない…悟自身もそう思ってしまっている。 だから、もしクロがいなかったら、止めに入ることが出来たかどうかはわからない。 悲しさと憤り、憎しみを野口にぶつけてしまっている尚也を説得する言葉など持ち合わせなかっただろう。 けれど、クロは尚也のことを止めようとしている。 尚也の怒りに圧倒されながらも、身体全体で止めようとしているのだ。 そんなクロの気持ちを代弁出来るのは、悟しかいなかった。
「クロはあんたのこんな姿を見たくてここまで辿り着いたわけじゃない。クロにとって鍋島さんとあんたは大切な存在なんだ…。今クロがあんたに何を願ってるか、言ってやろうか?」
悟は口調を強くし、クロの代わりに気持ちを伝える。
「『怒らないで、憎しみに駆られないで、泣かないで!』身体全体でそう叫んでる!」
悟の言葉に、尚也はハッとしたように目を大きく見開いた。
夜風が悟と尚也を優しく撫でて通り過ぎる…。 尚也は目を伏せ俯く。夜の暗闇を月明かりと星達が照らす…その光に反射したように尚也の瞳が僅かに光る。
悟は静かな声で優しく囁く。
「クロはあんたを守ろうとしているんだよ。」
クロは、野口を庇っているわけじゃない。 ただただ、尚也にこれ以上傷ついて欲しくないだけ、これ以上怒りと憎しみに捕らわれ苦しんで欲しくないだけ…笑って欲しいだけ…。 クロが何を願っているのか、尚也にも痛いほど感じられた。 悟はニコッと笑う。
「クロも、中山も、あんたを守ることだけを考えてここまで来たんだ。あんたすげー愛されてるよ。だから、その気持ちに応えてやってくれよ。」
明るい声で言ったはずなのに、言葉の最後の方は震えていた。 悟はクロや春香がどれだけ必死で頑張ってきたか見てきたから、だからこそ、感情が溢れ出してしまった。 尚也はゆっくりと顔を上げ、微かに微笑む。 そして、悟に掴まれていた手首を静かに離し、後ろへ振り返る。 尚也は屋上全体に視線をさ迷わせる。 地面には相変わらず野口が気を失って倒れていて、2匹の犬が彼の顔の傷を舐めていた。 他の犬達は、野口の傍で静かに座り、尚也と悟を見つめていた。 でも、その犬の中にも、屋上の何処にもクロの姿はない。 尚也には見えない…。
「なあ、お前の名前、何だっけ?」 尚也が悟に尋ねた。
「…笹山悟。同じ学校の1学年下。」 「笹山…お前には見えるんだろ?クロの姿。」 「…ああ。」 「今、クロは何処にいるんだ?教えてくれよ。」
悟の目に映るクロの姿。 クロは、尚也の足許にチョコンと座り、尻尾を振りながら彼の顔を見上げていた。 呼ばれればいつでも抱きつくスタンバイOKと言った感じだ…。 悟はクスッと笑いながら、その様子を伝える。
「あんたの足許で座って、熱い視線を送ってるよ。」
尚也は自分の足許に視線を落とす。…でもやっぱりクロの姿はそこにはない。 いつも、鍋島の家に尚也が顔を出すと、クロは玄関に飛び出してきた。 尚也はそんなクロの頭を、しゃがんで撫でていた。 同じように膝を付き、手を伸ばす。
「クロ…。」 呼びかけてみる。 本当はもっとたくさんの言葉をかけたかったが、出てこない。 代わりに、クロが一番望んでいた笑顔で、もう一度名前を呼ぶ。
「クロ。」
悟の目に、クロが嬉しそうに前足を尚也の膝に乗せ、尻尾を振る姿が映る。 背中を思い切り伸ばし、尚也の頬や口をペロペロと舐めている。 クロの瞳は、ただ嬉しいって気持ちで輝き、尚也への愛しさで満たされていた。 尚也は、目には見えないけれど、確かな温かさを感じて、鍋島とクロと過ごした時間を想う。 何気ない会話をしながら、鍋島と尚也が笑い、その横でクロが寝そべっていた。 そんな風景は、今はもう、儚い夢。 でも、クロは今、その夢の中にいた。 何故って…今、クロは自分の傍に寄りそう鍋島を感じていたから。 鍋島は、前と変わらずにクロに微笑んでいる。 尚也も笑っている…。 クロは、大切な人達の柔らかな場所にやっと辿り着いた。 これで、クロが思い残すことは何もなくなった。 幸せな、幸せな夢に包まれ、クロの想いも、夜空へと溶けて行く…。
<クロ…> 悟はクロの姿が段々消えていくのを見ていた。 悟には鍋島の姿は見えなかったが、クロの満足げな顔を見て、願いが成就されたことを知る。
その時、屋上のドアが開いていたことに、尚也も悟も気が付いていなかった。 瑞希だ。 瑞希は開いた扉に寄りかかる様にして、尚也のことを見ていた…。 ちょうど悟が尚也を説得し始めた時、屋上に辿り着いた。 傷つき横たわる野口を見れば何があったかは容易に想像が付いた。 ボロボロの野口を見て、自分達がどれほど尚也のことを傷つけてしまったかを今まで以上に受け止める。
短い間ではあるが、尚也と接し、共に生活してきて、彼の優しさに触れてきた。 その少年をここまで追い詰めたのは野口と瑞希の罪だ。 人の命を奪った罪と共に、瑞希の心に重く圧し掛かる。 <尚也君…> 瑞希はずるずると力なくしゃがみ、頬を涙が伝う。
<ごめんなさい…ごめんなさい…> 何度も何度も謝り続ける。 尚也は、傷つき、怒りながらも…それでも野口のことを助けてくれた。 そして、今、尚也はとても穏やかだ…そのことが唯一の救いになる。 悟が語っていたクロと言う犬の幽霊の存在は、やはり瑞希にも見ることは出来なかったが、尚也のことを救ってくれたことを感謝する。 たくさんいた犬のうち、ビーグル犬が瑞希の所へ尻尾を振ってやってきた。 顔を覗き込むように、首を傾げる。 <ワンちゃん…?> 瑞希は、ようやく屋上に犬がたくさんいることに意識が向いた。 そのことを不思議に思うより先に、そっと身を寄せてくれたビーグル犬を抱き上げ、抱き締めた。 瑞希は自分の腕の中にある温かな存在に縋り、声を殺し泣き続けた…。
膝に手を置き、微笑んでいた尚也。 悟は、小さく息を吐いた後、そっと声をかける。
「川田先輩。クロ、逝ったよ。」 尚也にクロが鍋島のいる世界へ行ったことを伝えた。 「クロ、嬉しそうだった…。」 その言葉を聞いた尚也は、ホッとしたようにぎこちなく笑い、その後、俯いて目を瞑る。
<…ああ…そうか…> 悟は、今ようやくわかったような気がした。 クロの魂をこの世に残らせたのは、鍋島と尚也のいる穏やかな場所に戻る一念だったのだ。 鍋島が死んでしまったなんて、きっと今だって知らない。 クロ自身、魂だけの存在になってしまっただなんて、きっと気が付いてなかったんだと思う。 鍋島を探し、尚也を探し、2人の許へ辿り着くために走ってきた。
<きっと鍋島さんにも会えたんだな…> 2人に笑顔で迎え入れられ、クロの想いは果たされた。 悟は<クロ、よかったな>と心の中でそっと呟く。
少しの間だったけれど、ずっと一緒にいたわけで、クロの幸せを心底喜び、そして別れに寂しさを感じた。
<さよなら…> 別れの挨拶に、ちょこっと文句も付け足す。 <に、しても、散々迷惑かけたクセに、最後は俺のことなんてすっかり忘れてたな。薄情モン!> クロの大好きリストナンバー1の鍋島と、ナンバー2の尚也のことだけでクロの脳みそ許容量いっぱいいっぱいだったことは悟にもわかり過ぎるくらいわかっていた。 だから、愛情のこもった文句だった…。
遠くの方からサイレンの音がこだまし、その音は段々と近づいてきた…。
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