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 一段一段階段を上り、屋上へのドアがある踊り場へ辿り付く。
 ドアに鍵がかかっていなければ、屋上へ入ることが出来る。
 ノブに手をかけ、軽く回してみると、鍵はかかっていないようだった。
 野口が安堵していると、階下から、複数の足音が聞こえてくる。
 足音と言っても人間のものじゃない。まるで獣が走っている軽快な足音…そして荒い息遣い。

<何なんだ?>

 不思議に思った野口が振り返ると、ちょうど一階下から足音の主がラストスパートと言わんばかりに野口の許へと向って階段を駆け上がってくる。


「い…犬?」

 そう。犬だった。凛々しい顔したシェパードがリードをぶら下げて駆け上がってくる。
 飼い主の姿はなかった。
 野口の顔が強張る。
 犬は、一匹だけではなかった。
 次に野口の視界に飛び込んできたのは真っ白い豊な毛を纏った大型犬のサモエドだ。
 これも飼い主不在でリードだけ引きずってくる。

「う…うわ!」
 野口は、噛まれると思って慌ててドアを開け屋上へ飛び込む。
 その瞬間、シェパードも体をドアに滑り込ませ、野口の後を追った。
 ワンテンポ遅れてきていたサモエドはドアを体で押さえ、閉じないようにしていた。

 野口は必死に走りフェンスへと行こうとする。
 もともと飛び降りるつもりで屋上に上がったのが、今は犬から逃げるために飛び降りそうな勢いだ。
 が、追ってきたシェパードは、野口を追い越し、振り返って立ち止まる。

「ぐるるるるぅ〜。」
 野口を威嚇し、まるでフェンスまで行かせないように立ちはだかっているようだった。


「お前ら…何なんだよ…。」

 野口が戸惑っているうちに、犬の数は着々と増えていった。
 初めの2匹と、雑種の白い犬や茶色の犬、ビーグル、ラブラドールレトリバー…ぞくぞくと屋上に集まり、野口を取り囲んでいく。

 最後には9匹もの犬が集合していた。
 みな首輪やリードをつけていたり、ちぎれた鎖をぶら下げていたりした。
 散歩中に駆け付けた犬や、犬小屋から抜け出してきたようだ。

「ど、どけよ!!俺をどうする気だよ!」

 蒼白な顔で、野口は犬を見つめる。右を見ても左を見ても犬ばかり。
 夜の暗闇の中、光る犬の眼。

「ちくしょう!」

 野口は噛み付かれるのを覚悟し犬の間を突破しようと駆け出した。

<とにかく、飛び降りるんだ!フェンスを越えて飛び降りれば全てが終わるんだ!!>

 上手い具合に犬の隙間をすり抜け、フェンスに手をかけよじ登る。
 が、半分くらいまで登った所で、ラブラドールレトリバーが、スーツの上着の裾の部分に噛み付き一気に引き降ろす。

「うわぁ!!」

 バランスを崩した野口は、コンクリートの地面に見事に尻餅をついた。
 そのタイミングを逃さずに、今度はサモエドが飛び掛り野口を押し倒してどっかりと腹に座り込む。
 伏せの状態で全体重をかけ、野口を動けなくする。
 しかも他の犬達も、腕や足に乗っかって動きを封じ込めてしまっていた。

「何なんだよ!!お前らは!」
<死なせてくれよ!!>
 野口は半ば半狂乱になって犬達から逃れようとする。
 対する犬達も野口を逃さない。
 絶えず威嚇するように低い声で唸り、でも、犬達は決して野口を傷つけようとはしない。
 それはまるで、野口が自ら命を絶とうとするのを阻止するかのようだった…。

 野口と犬が奇妙な戦いを繰り広げている頃、尚也と悟はようやく野口の車へ辿り着く。

「あの車だ!!」
 尚也が駐車していた瑞希の車の後ろにバイクを停め、素早く降りてメットを外す。
 悟もそれに続く。

「くぅ〜ん。」
 車の、助手席側のドアの前で、野良犬と思われる白地に黒いぶち模様のある犬がウロウロしていた。
 尚也に気が付いた犬が目を向けて、そして再び助手席側に視線を戻す。
 犬は何かを訴えている。
 尚也は飛びつくように車に駆け寄り、躊躇わず助手席のドアを開ける。
 グッタリとして座席に身を預けていた瑞希の姿が尚也の目に飛び込んでくる。

「瑞希さん!!」
 尚也が身を乗り出して瑞希の肩を揺らす。
 瑞希は一瞬顔を歪めて、薄っすらと目を開けた。

「な、尚也君…?」
「怪我は?あいつに何かされたのか?」
「わ、私は大丈夫…それより…。」
 瑞希は痛む体を動かし、尚也の腕に縋りつく。

「野口さん、あの人…死ぬ気だわ…。お願い!尚也君…彼を、止めて…。お願い…。」

 消え入りそうな声で懇願する。
 尚也はまるで痛みを感じたように眉を動かし、そっと瑞希の肩に手を置いた。

「…瑞希さんはここでじっとしててくれ。」

 尚也はドアを閉めて、辺りの景色を確かめるように視線を泳がせる。
 すると、数十メートル先に、先ほどの犬と悟がいて尚也に向って叫んでいた。

「川田先輩!こっち!」
 尚也は悟の許へ走り出した。

 悟は尚也に少し遅れて車まで辿り着き、尚也と瑞希のやり取りを傍で見ていた。
<死ぬ気?自殺する気か?>
 瑞希の言葉から、轢き逃げ犯が自ら命を絶とうとしていることを知って動揺した。
<探さないと…>
  そう思った時、ふと足元を見ると、先ほど車の傍でウロウロしていた白地に黒いぶちの犬が悟に飛びつき、必死に<付いて来て!>と言う意思表示をする。
 悟は犬に導かれるまま古びた団地の前まで辿り着いた。
 
 尚也が息を切らして悟の許へ辿り着く。

「犬が、この団地に何かあるって言ってんだ!それに…。」
 悟が団地を見上げる。尚也もそれにつられ、同じように屋上に目を向ける。

「わんわんわん!」
「ばぅ!ばぅ!」

 頭上から犬の鳴き声が響いてくる。
 その鳴き声に混じって、男性が何やら叫んでいる声も聞こえた。

「…上に野口がいるのか…。」

 尚也が険しい眼差しで屋上を見つめる。

「なあ…野口って野郎、本当に死ぬ気なのか?」
 悟の声は少し不安げだ。
<飛び降りる気なのか…>
 2人の脳裏にそんな言葉が過ぎった瞬間、ほぼ同時に走り出していた。

 急く様に団地に入り、階段を駆け上がる。
 2人の足音が狭い通路に響いた。

 尚也が屋上へのドアノブを乱暴に回し、力任せにドアを開いた。

 屋上に飛び込んだ2人の目の前では、奇妙な光景が繰り広げられていた。
 2人は思わず足を止める。

「どけーーー!頼むから、どいてくれ!!」
 仰向けに大の字に寝ている野口が叫んでいた。涙声だった。
 犬達は何を言われようと構わずに野口の上に寝転んだり、座ったりして、野口が反抗的な態度をとると激しく吠えていた。

<犬達が止めてくれてたんだ…>

 悟にはそう感じられた。
 一方、尚也の方は、先ほどからの犬の不思議な行動に戸惑いつつも、それ以上に激しく突き上げてくる感情に支配されていた。
 野口の許へと走り出す。
 尚也に気が付き、犬達がビクッと身体を強張らせ、野口の体から離れた。
 まるで尚也に怯えたかのようだった。

「…え?」

 野口はいきなり軽くなった自分の体に気が付き、様子を見るため恐る恐る頭を持上げた。
 自分の上に乗っていた犬達が消えていた。
 ようやく犬から解放されたと思い、ホッとした。 
 でも、その自由はすぐに奪われた。
 身体を起こそうとした野口は、再び腹にズシッとした重さを感じた。
「…あ…。」
 野口は驚いて目を大きく見開いた。
 尚也だった。
 尚也は野口に馬乗りになり、野口を睨みつける。
 その瞳は怒りに満ちていた。
 尚也は両手で野口の胸倉を掴み、乱暴に彼の上半身を持上げる。

「…なあ、一つ答えてくれよ。」
 顔を近づけ、今にも爆発しそうな感情を押し殺し、低い、静かな声で尋ねる。

「鍋島のじーさん…事故起こした直後…生きてたんじゃねーか?」
「…う…ぁ!」
 野口は、胸倉を強く掴まれているのと、恐怖とで、上手くろれつが回らない。
 そんな野口に苛立つように尚也が叫ぶ。

「答えろよ!!」

 尚也の目が怒りと悲しみの涙で滲む。
 事故直前の記憶。
 鍋島を庇うように車の前に飛び出したクロの姿をハッキリと覚えている。
 クロがクッションの役割を果たしてくれていたら鍋島への衝撃は和らいでいたはずだ。
 そうだとすれば、鍋島は生きていたのではと思わずにはいられない。
<俺があの程度の怪我で済んだんだ。鍋島のじーさんだってきっと…>

 尚也の悲しい予想は当たっていた。

「鍋島って…あの男のことか…。」
 野口は、瞳から恐怖の色が消え、まるで魂が抜けたように全身から力が抜ける。
 そこには、全てを諦め、投げ出してしまった野口がいた。

「生きていたよ。ずっと飼い犬の名前を呼んでいた…。」

 でも、その声も少しずつ小さくなり、瑞希の家に着く前に途絶え、息絶えた。

 その事実を聞いた時、尚也は、もう感情を抑えてはいられなかった…。

<野口さん…尚也君…>
 瑞希は痛むお腹を押さえながら、車を降りた。
 そして、ふらつく足で歩き始める。

2002.9.26 

次回4章ラストです。