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 一方、突飛ばされた春香は布団の脇に倒れこんだ。

「中山、大丈夫か!!」「大丈夫か?」
 悟と尚也、同時に春香に話しかける。

「だ、大丈夫!」
 春香はすぐに身体を起こした。
 頬の傷以外は何処も怪我をしておらず、とりあえず悟も尚也もホッとした。

「中山!紐、切ってくれ!」
 尚也が叫ぶ。
 それと同時に、玄関のドアが閉まる音がした。野口と瑞希が外に出たことを知る。

 春香は部屋の中に目を走らせ、戸棚の上にある鉛筆立てにハサミが立てかけられているのを見つける。
 駆け寄って手に取り、まずは尚也の手足を縛ってある紐を切り、次に悟の紐を切った。

 尚也は即座に駆け出し、玄関に向かい野口たちを追う。

「中山、もし俺たちが1時間経っても戻ってこなかったら警察に通報してくれ!」
 悟は、春香にそう言い残しワンテンポ後に尚也を追った。
 尚也は瑞希に自首をして欲しいと願っている…悟にはそう感じられた。
 でも、野口が瑞希を連れて行ってしまった今、彼女の身が心配だった。
 追い詰められている野口は何をするかわからない。
 もし、自分たちの手におえない状態になった時には、警察に一刻も早く野口を捕まえてもらう必要があった。
 もちろん、それは最悪の事態を考えてのことで、この1時間の間に野口をとっ捕まえて、瑞希には自首をしてもらうつもりだ。

 尚也は裸足のまま外へ飛び出した。まだ走ると右足に僅かに鈍痛が走るが構ってなどいられない。
 その時ちょうど野口と瑞希が乗った車が走り出して、門から出て行く所だった。
 後を追って門の外へと走って行くが、遠ざかる車の後姿を見ているしか術がない状態だった。
 …と、車を追っていた尚也の視界に、これからバイクに乗ろうとしている2人組の若い男女が目に入った。
 駐車場からバイクを出して、まさにこれからバイクを走らせようという感じだった。

「あの2人はどうした?」
 ようやく尚也の許へ辿り着いた悟は、野口と瑞希のことを尋ねた。
 車が走り出す音がしたので大体の察しはついていた。
 車は悟が来た時、十字路を左折して姿を消して行った。
<逃げられちまう!>
 悟は心の中で舌打ちする。
 尚也は何も言わずに、バイクの持ち主である男女の許へと走り出す。
「何処行くんだ?」
 悟も慌ててそれに続いた。
 尚也と悟はほぼ同時にバイクの2人組の許へ辿り着いた。

「すいません!バイク貸して下さい!!」
 尚也は躊躇うことなく男性に頼み込んだ。
「へ?」
 頼まれた男性の方は面食らい、素っ頓狂な声を出す。
 何故って、初対面でいきなりバイクを貸せと無茶を言う男の格好が、寝巻き姿で、その上素足で、しかもそれでもカッコイイと思ってしまえる男だったから。
 男性の隣にいた活発そうな女性は、尚也を見て<何てカッコイイ子なの!!>と心の中で叫ぶ。
 悟は尚也がバイクで後を追おうとしていることに気がつき、尚也に目を奪われていた女性に必死に懇願する。

「お願いです。必ず返します。貸して下さい!!」

 女性は今度は悟に目を向け<ああ、こっちの子はめちゃ可愛い>などと心の中で感想を述べていた。

「急いでるんです!人の命がかかってるんです!」
 あっけに取られている男性に尚也が詰め寄ると、女性の方がうっとりした瞳を輝かせて、男性に向って「いいじゃない。貸してあげなさいよ。」と言った。
 この男女は、恋人同士らしく、どうやら男性は女性に頭が上がらないらしかった。
 まあ、それ以上に、尚也と悟の様子が切迫してて、本当に緊急事態だということも感じられたからなのだが…操られるようにメットと鍵を尚也に手渡す。

「どうぞ…。」
「ありがとうございます!必ず無傷で返します。」
「でも君、裸足…。」
 男性がそう言うと、女性がすぐに「気がついているんなら、靴も貸してあげなさいよ!スニーカーだからすぐ脱げるでしょ。」と言った。
「はい!」
 男性が慌てて靴を脱ぎ、尚也に渡す。
 この男性の方が尚也よりも若干背が高く、身体つきも良かった。
 だから、靴も多少の緩さを感じただけだった。
 尚也は素早く靴を履いて、メットを被り、バイクにまたがる。

「俺も行く!」
 悟がバイクに駆け寄り叫ぶ。

「お前はここにいろ!」
「嫌だ!俺はあんたを守んなきゃいけないんだよ!」
「え?」
「あんたに怪我されると困るんだよ!!」

 尚也は悟の言葉にキョトンとし、首を傾げる…が、悟の様子があまりに真剣だったので、これ以上何も言えなくなる。

「わかった。乗れよ。」
 悟はニコッと笑い、後ろに乗った。

「んじゃ、行くぞ!」
「OK!…って、あんたバイク運転出来るのか?」
「当たり前だろ。でなきゃ乗らねーよ!免許取ってから1年以上経ってるよ。」

 と、言いながらキーを回してエンジンをかけた。

 尚也は免許もバイクも自分がバイトしたお金で手に入れ、時々乗っていた。
 運が良いことに、借りたバイクは尚也の取得した免許で乗れるものだった。
 ……ただ、今は免許不携帯だ…。

 尚也は、バイクのアクセルを吹かし、ギアをローにおとそうとした時、ポツリと悟に尋ねた。
「…なあ、お前本当に、事故の目撃者なのか?」
 その声音には、少し怒りが含まれているように悟には感じられた。
 悟は尚也が何を思ってその質問をしたのかわからなかったが、否定した。
「…違う。俺は目撃者じゃない。…目撃者は別にいるよ。でも今説明している時間ないだろ。」
 悟の言った『目撃者』とは、被害者でもあるクロのことだ。
 尚也は小さなく深呼吸をし、気持ちを落ち着かせる。

「わかった。後で話を聞かせてくれ。」

「坊や。これ!」
 先ほどの女性が悟にメットを投げてよこした。

「あなた顔小さいから私のでも入ると思う。」
「ありがとう!」

 メットを受け取った悟はさっそく被った。少しきつかったが何とか入ったようだ。

「しっかり捕まってろよ!」
「了解!」
 悟は尚也の腰に手を回す。
 バイクは景気の良い音を立てて走り出した。
 
 悟は初めて乗るバイクに体を強張らせていた。
 春香のことが脳裏を過ぎる。
 好きな相手に、目の前で別の女に告白されてしまった気持ちを想い、胸の痛みを感じずにはいれなかった…。

 残された春香は廊下で立ちつくしていた。

<笹山君と川田先輩…それにあの女の人…大丈夫かな…>

 みんなの無事を案じながらフラリと後退り、壁に背中を預ける。
 先ほどの、尚也の瑞希への告白を聞いて、春香は自分の気持ちがハッキリとわかった。
 必死で自分の想いを伝える尚也の気持ちを、瑞希が受け取ってくれれば良いと願った。
 素直にそう思えた…。

<私の、尚也先輩への気持ちは…>
 ぎこちない優しさで春香を包み込んでくれた…長い間寂しさの中にいた春香は、その暖かさに縋りついていた。
 大好きだった。暖かな居場所を失いたくなかった。
 手放したくなかった…恋していると思ってしまうくらいに…。
<とても強くて、優しい…もう一度人を信じさせてくれた人……>
 でも、それは恋じゃなく、強い憧れの気持ち。
 春香は、静かに、ゆっくりと尚也に対する気持ちを自覚する。
 そして、悟のことを想う。
 この短い期間、悟と触れ合い、気持ちをぶつけ合い、気がつけば、一番自分らしく振舞えていて…。
 悟の前では自分で自分を閉じ込めていた殻を少しずつ壊していけた。
 それが今、とても嬉しく感じ、どんどん新しい自分を見つけられそうで、ずっと悟の傍にいたいと思う。

<私は笹山君が…好きなんだ…>
 心の中で呟いてみる。すると、体中がその想いで満たされていき、胸の鼓動が早くなる…。

 春香は、目を瞑り、悟と尚也の無事を必死に祈った。
 その時。
 ふと、『何か』の気配を感じる。
 ゆっくりと顔を上げ、気配を感じた廊下の奥へと視線を向ける。
<…え?>
 春香は、自分の目に映った光景が信じられず、目を見開く。
 一番奥の部屋のドアの前で、悲しげに座り、うな垂れている一匹の犬の後ろ姿が目に映った…。
 黒い毛で覆われた犬が、耳を垂れ下げ、尻尾は力なく床に落とされ、ただドアを見つめている…。

2002.9.16