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『轢き逃げ犯の身代わりになって死ぬつもりだったんだろ!』
 野口は尚也が叫んだこの言葉を聞いて、酷く動揺していた。
 驚きを隠しようがなかった…。

<俺の身代わりだって…?>
<遺書…だって?>
 今、自分のことを涙に濡れた目で見つめている瑞希を<信じられない>と言った眼差しで見返していた。
 瑞希が野口を見つめる眼差しは、いつも頑ななまで一途で、彼女の言葉も行動も全て野口を愛情で包み込んでくれた。
 野口は瑞希と会う度に、彼女の愛情に居心地悪さを感じ、時に逃げ出したくなる衝動に駆られながらも手放せずにいた…。
 そう思っているうちに、野口と瑞希は交通事故という鎖で繋がれてしまった…。

 瑞希は野口の思い出したくない人を思い出させる。
 
<冗談じゃないぜ…>
 自分の中に湧いてくる認めたくない感情を認めたくなる…。
 野口の信念が揺らごうとしていた…。

「…瑞希。俺の身代わりって、何の話だ?」
「野口さん…。」
「全部説明しろよ…。」

 野口の力ない声は、どこか投げやりで、それでいて救いでも求めているように感じられた。
 瑞希は少し考え事をするように俯き、重い口を開いた。
 尚也との生活、そして瑞希が野口のことを守り、同時に尚也を殺さずに済むために考えたシナリオのことを順に話して行き、そのシナリオは悟や春香の出現により大幅に変えざるを得なくなり、結局水泡に帰したことを告げた。
 そして、最後に、野口から事故のことを知った時に、瑞希が何を想ったのか、懺悔のように語った。
 悟と春香はこの告白で、瑞希の正体と、交通事故後の大まかな全体像を知ることが出来た…。

「私ね…。野口さんが私に助けを求めてくれた時、心のどこかで嬉しさを感じたの…。ああ、これで私の願いが叶うって思ったの…。」

 ここでいったん、言葉を詰まらせた。そして、覚悟を決めたように、本心を言葉にする。

「…私は野口さんを助けたかったわけじゃないの。ただ、あなたにとって特別な女になりたかっただけなのよ…。歪んでるわね。」

 うな垂れて、それでも言葉を続ける。

「私は野口さんが好きだった。私を初めて女として扱ってくれた…。嬉しくて嬉しくて…あなたのためなら何でも出来るって思ったわ。はたから見たら馬鹿らしいと思われるでしょうね…。何て愚かな女なんだと笑われると思う。でも私にとって野口さんとの時間はいつも夢のようだった。本気で相手にされていないこともわかっていた。それでも、私は野口さんを愛していた。…どんなことでもいいから野口さんにとって特別な存在になりたかったのよ。だから、罪だとわかっていても事故を隠し、尚也君を監禁した。…本当に馬鹿よね。」

 瑞希の瞳から落ちた涙が、ポツンポツンと彼女の膝に置かれた手の甲を濡らしていく。

 最後まで静かに聞いていた野口だったが、瑞希が話し終えるとすぐに笑い出した。
 可笑しそうに、息が苦しくなるまで笑った。

「本当に馬鹿だよお前!!」
 野口の言葉は瑞希を打ちのめす。

「冗談じゃないぜ!何だよその迷惑な愛情は!鬱陶しくてやってらんないぜ。」
 刺すような言葉を言い続ける野口に、尚也は怒りを感じその想いをぶつけようと口を開くが…言葉を詰まらせた。
 何故かと言うと…。

「どうしてそこまでやれるんだよ。わけわかんねぇ。俺のどこがそんなにいいんだよ。俺がお前に何してやった?気まぐれに呼び出して気まぐれに振り回して、挙句に犯罪の片棒担がせて。」

 最後の方は声が震えていた。野口は笑いながら、泣いていた。
 自分の頬を伝う涙に気が付き、野口は<みっともねぇ。俺泣いてる…>と感じても、止められなかった。
 笑いながら泣く野口に、瑞希も尚也も言葉を失った。

 野口は、今、自分がずっと欲しかったものが何だったのか、認めざるを得なかった。
 そして、その欲しかったものを自分で叩き壊してしまったことを知る。
 それでも…まるで壊れた破片を集め、縋ろうとする。
 
「瑞希…こっちへ来いよ。」
「野口さん…?」
「いいからこっちへ来い!」
 野口が、ナイフを握っていた手に力を込める。
 瑞希は静かに立ち上がり、野口の許へと歩いて行く。
 野口は、自分の目の前に無防備に立つ瑞希の瞳を見て、微かに微笑んだ。
<これが一番欲しかったものなんて…な>
「…俺が一番馬鹿だ。」
「え?」
 呟くように言った野口の声は瑞希にも聞き取れないくらいに小さかった。

「瑞希。お前の車の鍵持って来い。」

 瑞希には、野口が何をしたいのかがわからなかったが、先ほどしゃがんだ時畳の上に置いた手提袋を拾い上げ、鍵を取り出し野口に手渡す。
 野口は鍵を手に入れ、春香を思い切り突き飛ばし、代わりに瑞希の腕を掴み引き寄せ、部屋の外へと飛び出した。
 瑞希は引きずられるように付いていく。

「野口さん!?」
 瑞希は、自分の腕を痛いほど強く握り玄関へと走る野口に戸惑いを感じる。
「いいから走れ!」
「…はい。」

 野口は外へと出たら、飛びつくように車へと駆け寄り鍵を開け、瑞希を助手席へと押し込める。
 その後車用の門を開け、急いで運転席へと乗り込む。
 エンジンをかけ、アクセルを踏んだ。車が滑るように門を出て、公道を走り出す。
 瑞希はことの成り行きを戸惑いがちに見ていたが、ハッと我に返り運転席の野口に尋ねる。

「野口さん、いったい何処へ行くの?」
「逃げるんだよ!」
「逃げるって、何処へ!」
「わかんねーよ!でも2人で行けるトコまで逃げるんだ!!」

 呆然としている瑞希に構わず、車を走らせた。
 野口は真っ直ぐ前を見ながら、ポツリと呟いた。

「…俺の父親はさ、馬鹿な男で、損ばかりしてた。」
「野口さん…?」
 瑞希は、野口が突然始めた話しに困惑する。

「いや、過去形じゃないな。今も馬鹿みないに愛なんてもの大切にして暮らしてる。」

 瑞希は、次の言葉を待ったが、野口はそれきり口を噤んでしまった。

 瑞希の愛情は、野口に、彼の父親を思い出させてしまう。
 野口にとって、父親は、この世で一番遠ざけたい存在だった。
 嫌いなわけではない。憎んでいたわけではない。ただ、父親を見ていると、苛立ちをぶつけたくなる…。
 野口の父親は真面目でとても穏やかな男だった。
 妻を愛し、子供を愛し、それだけで満たされる。そんな男だった。
 でも、彼の妻はそんな父親では物足りず浮気はするは遊び歩くはで、子供のこともろくに面倒をみたためしがなかった。
 そんな母親がとても嫌いだったが、成長するにつれ父親にも苛立ちの目を向けるようになった。
 野口の母親は何度も男と消え、そしてその恋が終わるとフラリと帰ってくる。
 金遣いも荒く、その金は父親が必死に働いて稼いでくる。その上浮気相手の男にも貢がせているようだった。
 こんな妻のことを、夫は愛していた。
 いつも優しく迎え入れ、今でも変わらない生活を繰り返している。
 こんな家が嫌で大学生になったと同時に家を出た。
 野口は、愛なんてもののために損ばかりしている父親を大馬鹿だと思った。
 そして、美人で要領が良くて、自分の楽しみと欲望に忠実な母親がこの世で一番嫌いだった。
 でも、いつの間にか生き方を見習っていた。
 結局愛情なんて下手に持ったら大損をするだけ。野口が母親から教えられたのはこのことだけだ。
 お互いの立場を上手く利用して美味しいとこだけいただいて楽しく暮らすのが自分にとっても相手にとっても一番幸せの近道だと思った。

 …そう思っていたはずだったのに…。

2002.9.13 

あら?今日は13日の金曜日…。