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 尚也は、全員の視線を集める中、酷く混乱していた。

<何なんだよ一体…>
 瑞希たちが戻る少し前に目が覚めていた。
 身動ぎしながら身体を動かすが、手足が動かず、声を出そうとしても口にテープを貼られていて声を出せないことを知った。
 そうこうしていたら、瑞希が帰ってきて、いきなり見知らぬ男と、自分と同じ高校の制服を着た少年と、そして春香が視界に飛び込んできたのだ。驚くなと言う方が無理だろう。

「先輩…。川田先輩!」

 尚也の耳に、久しぶりに聞く少女の声が届く。

<…中山>
 何でこんな所に春香がいるのか、どんなに考えても尚也にはわからない。
 尚也の目に、男に捕らえられ、ナイフを突きつけられ、それでも必死で身を乗り出し尚也のことを案じる春香の姿が映る。

<…どういうことだよ…>
 事態がまったくわからず、困惑した瞳を瑞希に向けた。

 瑞希はゆっくりとしゃがみ、尚也の口許に手をやる。

「瑞希!勝手に動くな!」
 野口が叫ぶ。
 その声を聞いて、咄嗟に尚也は電話の男の声だと気付き、この男が『轢き逃げ犯』だと確信した。
 事の成り行きはわからないが、どう見ても春香を人質に取って瑞希たちを脅しているらしい轢き逃げ犯に対し、尚也は攻撃的な目を向ける。

「口のテープを剥がすだけよ…。どうせ私たちはその子を盾に取られているんだから逆らえないわ。安心して。」
 瑞希の声はとても静かで、そして、何故かとても迫力があった。
 どこか覚悟を決めた…そんな力のある声。
 野口は一瞬その空気に飲み込まれ、瑞希を睨みつけるものの、それ以上何も言えず口出しを止めた。

 瑞希はそっと尚也の口のガムテープを剥がした。
 身体を起こそうとしていた尚也に手を貸して抱き起こす。

「ごめんね。窮屈だったでしょう…。」
「瑞希さん…。これは一体…。」
「…一つ聞きたいことがあるの。どうして逃げなかったの?」
「…え?」
「尚也君、一人で歩けるんでしょう?」

 瑞希の真っ直ぐな眼差しを尚也は受け止めた。

「……ああ。歩ける。」
「教えて。何で逃げなかったの?」

 尚也は、しばらく黙ったまま俯き、静かに顔を上げた。
 
「俺が逃げたら…あんた死ぬ気だったろ。」

 張り詰めた空気の部屋に、みょうにハッキリと尚也の声が響いた。
 瑞希は驚き、尚也の顔を食い入るように見つめた。

 尚也が言った言葉は、瑞希にとって衝撃的ですぐには返事を返せなかった。

<何で…何で尚也くんがそんなこと知ってるの?>

「…サナが腹壊した日、瑞希さんが書いた遺書、読んだんだ。」

<あの…うたた寝しちゃった日だ…>
 確か、台所のテーブルで遺書を見ていて、いつの間にか寝入ってしまった日だと思い返す。

「私が寝ている間に読んでしまったの?」
「…ああ。」

 あの時から尚也は自力で歩けていたという事実を知り、瑞希は胸が締め付けられる。
 トクントクンと、自分の心音が聞こえてくる。

「あんた轢き逃げ犯の身代わりになって死ぬつもりだったんだろ!この男、瑞希さんの恋人なんだろ?恋人庇って死ぬつもりだったんだろ!そいつ、電話で瑞希さんが出たと思って一人でベラベラ話してくれたよ!」

 キッと野口を睨み、次に瑞希に顔を向け、今度はありったけの想いをこめた強い視線を向ける。

「遺書を見た時、死なせてたまるかって思ったんだ…。」
「どうしてなの?私はあなたを監禁したのよ?怪我していたのに病院にも連れて行かなかった…。そんな女をどうして庇うの!」
「でも、助けてくれた。」
「助けたんじゃなくて、怖くて手にかけられなかっただけ!!私はあなたを殺そうとしたのよ!」

 瑞希は尚也の言葉を打ち消すかのように叫んだ。

「本気であなたの首を絞めようとした…。傷ついて熱を出して苦しんでいるあなたを…殺そうとした…。」

 自分の両手を見つめた。

 事故があった夜。野口を送り届け、帰宅した瑞希は、意識を失ったままの尚也に歩み寄り、傍らに膝を付いた。
 震える両手を伸ばし、その首に指を絡ませ力を入れようとした……。
 でも、どうしても出来なかった…。

「瑞希さん。あんたは俺を殺さなかった…。だから俺は今生きていられるんだ。」

 瑞希はのろのろと顔を上げた。
 
「ねえ…どうしてそんなに優しいの…?どうして…?」
「俺は瑞希さんのことが好きだ。」

 とても静かで、穏やかな声。何の飾りもない言葉だった。
 尚也の気持ちがこもった瑞希への告白。

 その想いが痛いほど伝わり…瑞希はその暖かさに包まれていく。

「瑞希さん。あんたがやってることは間違ってるよ。許されないことだ。……でも、あんたの『誰か』に向けられた怖いくらいの愛情に惹かれた。俺は今までそんな風に人を愛したことも求めたこともない。これからもそんな感情、俺には持てないと思ってた。…だからあんたに憧れた。自分の気持ちに気が付いて俺自身驚いたよ。よりにもよって自分を監禁している相手を好きになるなんてな。でも、どうしようもなかった。」

 尚也は軽く息を吐いた。

「俺はあんたが好きだ。」
「尚也君…。」
「だから死んで欲しくなかった。罪を償って欲しかった。」

 瑞希は尚也の話を聞いて、ゆっくりと目を閉じた。
 その時、涙がポロっと零れ落ち、頬を伝った。

 そして、大きく深呼吸した後、顔を上げ目を開けた。

 瑞希は微笑を浮かべながら尚也の顔を見て、そして後ろにいた悟へと視線を移し…最後に春香を見つめた。

「…ねえ、あなた何ていうお名前なの?」

 春香に向って尋ねた。
 春香はおずおずと小さな声で答えた。

「中山春香…。」
「ずっと尚也君のこと心配してくれていたの?」
「…はい。」
「…そう。」
 
 尚也は春香の言葉を聞いてとても驚いたようで、戸惑いの表情を春香に見せていた。
 そんな尚也の様子に、瑞希はフワリと笑う。
 詳しい事情はわからないけれど、尚也自身が言っていた通り、彼の親が子供がいなくなったことに何の関心も示していない状況だったとしたら、春香も悟も、ここまで辿り着くまでに奔走し必死だったに違いないと思った。


<何て真っ直ぐな気持ちなんだろう…>

 瑞希は、自分に向けられた尚也の愛情も、春香や悟が相手を想う気持ちも…みんな痛いくらいに眩しくて、愛しかった。
 それに引き換え、自分の気持ちは…。
<歪んでる…>
 瑞希は、自分の野口に対する想いが酷く歪んでいるように思えてならなかった。
 でも、交通事故があった夜、瑞希にはこんな風に野口の気持ちを繋ぎとめておくことしか思いつかなかった。
 野口を庇ったと言いながら、実際はどんな方法でもいいから野口のことを独占し、その心に自分の存在を刻み込みたかっただけ…。
 忘れて欲しくなかった。

<その結果がこれね…>
 瑞希は自嘲気味に笑い、彼女と尚也のやり取りを聞いて呆然と立ち尽くしている愛しい男に目を向けた…。

2002.9.9