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『上村さん…。こいつが轢き逃げ犯だろ…?あんたとこの男、どんな関係なんだ…?』 春香は、野口にナイフを突きつけられ、恐怖で震えながらも、悟の言葉を聞き逃さなかった。 <この男の人が、轢き逃げの犯人…?> 自分の背後にいる男の存在にゾッとし、背筋が寒くなる。
一方、瑞希は搾り出すように言葉を吐いた。 「…何で?どうして私が裏切ったなんて…。のぐ…。」 『野口さん。』と呼ぼうとして、その言葉を飲み込む。 こんな状態になってまで、まだ野口の素性を出来るだけ隠そうとしている。 <まだ…まだ大丈夫。何か手はあるはず!> 野口は、自分が轢き逃げ犯だという決定的な言葉は発していない。 瑞希は、野口がこれ以上墓穴を掘らない方法を必死で考える。
そんな瑞希の気持ちにも気が付かず、野口は自分の気持ちをぶつける。
「何であいつが生きてんだよ。」 「え?」 「あの時、お前が始末するって言っていたガキだよ!」
<ガキって…尚也君のこと…?> 瑞希は野口がどうしてそのことを知っているのかわからず、言葉に詰まる。
「昼間俺がお前に電話かけたら、あのガキが出やがって、ご丁寧に俺に自己紹介しやがった。」
<嘘…何で?> 瑞希は尚也の足が治っていることを知らない。 まだしきりに右足を痛がって、移動は瑞希の肩を貸さなければ出来ないはずだ。 その尚也が、自分で立ち上がり、廊下を歩いて電話台まで歩いたという事実は瑞希を驚かせた。 それでも、例えば机や戸棚、壁などを伝ってならば歩けたのかもと想像を巡らすが、そうなのであれば最大の疑問が残る。 移動することが出来るのなら、何で逃げなかったのか…という疑問。 尚也は逃げもせず、それどころか電話で外部と連絡を取った気配もない。 いつ逃げ出されても構わないと思っていた瑞希は、サナの散歩や買い物などで日に何回か必ず家を空けていた。 尚也は何故逃げることが可能だったのに、逃げなかったのか…瑞希は混乱した。
「何とか言えよ瑞希…。」 少し苛立ちを含んだ小さな声。 野口にとって、瑞希の存在は生命線だった。 小心者の野口が今まで精神的にバランスが取れていたのも瑞希がいたからだ。 瑞希も少年を殺し、自分と同じように手を汚していると信じて疑わなかった。 今まで色んな嘘をついてきた野口は自分のことを棚に上げて、瑞希に怒りを感じていた。 瑞希の言うことを信じていた…その想いが余計に憤りを感じさせていた。 「それに、何なんだよこいつらは。」 瑞希に事実を問いただそうと仕事を早めに切り上げて尋ねてきた…と、言うより、忍び込んで様子を伺おうとした所で『目撃者』を連れて帰ってきた瑞希に気が付き咄嗟に身を隠した。 <笹山悟をここに連れてきてどうするつもりなんだ?> 挙句に見知らぬ少女まで加わって、瑞希が何をやろうとしているのか見当もつかなかったが、もう彼女を信用することなど出来なくなっていた。
<どうせこのガキたちも始末する気ないんだろ> 野口はそう確信していた。 少女を盾に取られ、蒼白な顔をして自分を見つめる瑞希を見ていればわかる。 <このガキたちが傷つくのを怖がってる> 「もし俺を裏切ってないと言うんなら…俺の味方だと言うんなら、俺がこのガキにナイフ突きつけてもお前平気なはずだろ?」
野口の手が震え、ナイフの刃が春香の頬を微かに傷つける。 春香の口から、小さく消えてしまいそうな悲鳴が漏れる。 傷つけられた頬から赤い玉が浮き出て、春香は痛みで顔を強張らせ、怯えきっていた。 足にも力が入らず立っているのがやっとのようだ。
「てめぇ!!中山傷つけたらただじゃすまねぇって言っただろ!!」 悟は食ってかかろうとしたが、瑞希に肩を掴まれ制止された。
「落ち着いて…。今彼を刺激するのはまずいわ。本当に刺してしまうかもしれない…。」
瑞希は野口から目を離さずに言った。 確かに今の野口は追い詰められて何をするかわからない。 それを感じた悟は、目を閉じ、必死で自分の気持ちを落ち着かせた。
「野口さん…私の話を聞いて…。」 懇願するような瑞希の言葉を、野口はあからさまに拒絶する。
「嫌だね。」 「…そんなに私のことが信じられないの?」 「ああ。もし信じて欲しいなら、今俺の目の前でそのガキを殺せよ。」
野口は今にも正気の糸が切れてしまいそうな危うい笑いを浮べ、悟を指し示すように顎をしゃくって見せた。 悟は瑞希の方へ顔を向ける。 <どうする気だ…?> 瑞希がどうするのか、反応を待った…。 瑞希は何も言わずに俯いて、小さく横に首を振る。 その『返事』に、野口は可笑しそうにクスッと笑う。 「やっぱり出来ないんだな。俺のこと助ける振りして結局警察に引き渡すつもりだったんだろ!!こいつは轢き逃げ犯ですってな!」
野口は吐き捨てるように言った。
瑞希はこの瞬間、必死で考えていたシナリオが水泡に帰したことを知った。 今の野口の台詞は、もう取り返しがつかない。 悟の方へ目をやると、やはり今の言葉を聞き逃してはいなかった。 ちょうど視線がぶつかり合い、悟の目は<こいつが轢逃げ犯だって自分で認めたぜ>と語っていた。 瑞希は疲れたように苦笑いした。
2人の無言のやり取りを、野口は知る由もなく、自分の思い通りにことを進めようとする。 野口はまだ瑞希や悟たちをどうするかは決めていなかったが、いずれにせよ口封じをするしかないと思い詰めている。 冷静に考える余裕などなく、瑞希への憤りが余計に視野を狭くしていた。
「とりあえず、玄関の鍵、開けろよ。家の中で話をしようぜ。外じゃ誰かに聞かれるかもしれないしな。」
瑞希は小さなため息をついて、くるりと向きを変えて歩き、ドアの前に立ち、鍵を開けた。 力ない手でノブを握り、ドアを開ける。
「…どうぞ。」 「まず瑞希、お前から入れ。で、中にいる俺が殺しそこなったガキにもこの状況を説明して大人しくさせろ。家の中にいるんだろ?」 「ええ。…でも彼は大丈夫。今動けるような状態じゃないわ。」 この言葉には、野口より先に春香の方が先に反応した。 春香には詳しいことはわからなかったが、今までの会話から、もう一人の『ガキ』は尚也ではないかと思った。
「彼って誰なんですか…?」 春香の声は弱々しくて、震えていた。それでも必死に真実を知ろうとした。 「動けない状態って…川田先輩のことですか?彼に、彼に何をしたんですか?川田先輩は無事なんですか?」 「へえ。あのガキ、川田って名前なのか。」 野口が春香を拘束している腕に力を込めて言った。 「中山、大丈夫だよ。縛られて動けないだけだ。さっき写真で見せられた。川田先輩は無事だ。」 悟は春香の不安をすぐに取り除く様に言った。 先ほどポラロイドで見せられた状態なら、動けるわけがない。 瑞希が言った『今動ける状態じゃない』と言う言葉の意味は、そのことなのだと察していた。
「本当なのか?」 野口は瑞希に用心深く尋ねる。 瑞希は野口に顔を向け<彼の言う通りよ>と目で訴える。 それでも野口は悟に確認を取るように言った。
「おい。ガキ。今の話、本当なんだな?」 「ああ。」
野口は、それでやっと信じたようで、瑞希と悟に家の中に入るように命令し、最後に春香を連れて家に入り、春香にドアの鍵をかけさせた。
「さて。じゃあ、最後の一人、川田ってガキに会わせてもらおうか。」 野口は全員土足のまま家に上がらせて、瑞希に尚也の許へと案内させる。 廊下を進み、瑞希は尚也のいる部屋の襖を開けた。
それを見て野口は言った。 「全員部屋の中に入れ。」
その指示に悟と瑞希は黙って従った。 それを見届け、野口が用心深く春香と共に部屋に足を踏み入れ、視線を落とした。
入り口から少し離れた所に布団が敷かれていた。 布団の上に手と足をきつく縛られ、口にもガムテープを貼られて寝かされている尚也を見てから、その傍らに立つ瑞希に視線を移した。
<…瑞希。お前いったい何を考えてんだ?> 家に入る前に縛られているとは聞いていたものの、実際に自由を奪われた尚也の姿を目の当たりにすると、瑞希がいったい誰の味方なのか、何がしたいのか、野口にはさっぱりわからなくなっていた。
瑞希は辛そうに目を伏せる。
尚也はすでに目覚めていた。薬で眠らされてからすでに5時間以上経っていて、瑞希が使った睡眠薬は持続性が短いものだった。 意識はハッキリとしているようだ。 突然現れた登場人物たちを見て、目を見開いていた。 そして、悟は…。 <生きていた…> ポラロイドで尚也の無事を確認していたものの、実際に本人が呼吸をし、確かに生きていることを直接自分の目で実感出来たことで、心底胸を撫で下ろしていた。 そして、そっと春香の方に視線を移す。 すると、春香も同じ気持ちのようで、目が涙で潤んでいた。
悟は一瞬緩みそうになった気を引き締める。 <こんなにヤバイ状況なんだ。まだ喜ぶわけにはいかない!>
隙あらば野口に蹴りでも入れようと、全神経を集中して狙っていた。
この時。 いつもなら、悟の傍を離れないクロの姿が、この部屋にはなかった。
『くぅ〜ん…。』 クロは、みんなと一緒に家に入ったものの、廊下で落ち着きなくウロウロし、鼻をしきりにヒクヒクさせて、切なそうに鳴いている。 そして、ハッとするようにある一点に視線を注ぎ込む。 日が暮れ始め、薄暗くなっていく長い廊下の一番奥を、食い入るように見つめていた…。
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