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<何処に連れて行く気なんだよ…>
 瑞希に導かれるまま、何も聞かず付いて行く悟。
 電車に乗り、のどかな風景になってきた所で下車する。
 それからは、駅前のこじんまりとした商店街を通り、静かな住宅街に入る。
 少し先を歩く瑞希の背中を見つめ、悟はどんな展開が待ち受けていても切り抜けられるように冷静になろうとした。
 クロは辺りをキョロキョロしながら悟にくっ付いて、ちょこまかと歩いている。
 住宅街は人通りはほとんどなく、静かなものだった。
 そろそろ、夕食の下準備に取りかかるような時刻になっているので、時折家の窓からカレーや炒め物の匂いがしていた。
 
 瑞希は悟に注意を払いながら、最後の段取りを考える。
 まず、尚也を餌に悟も拘束し、車に乗せる。
 その後、玄関先に車を駐車させ、尚也をそこまで運ばなければならない。
 とりたてて力の強くない瑞希にとっては重労働が待ち受けている。
 2人を車に乗せ、何処かの山奥にでも置き去りにする。

<上手い具合に山小屋でも見つかれば、都合がいいわね>
 そこに2人を運びこんで、血を見るのが嫌だとか言いながら、小屋に火でもつけて2人を殺そうとすればいい。
 もちろん、すぐに火を消して、あたかも殺すのに失敗したように見せかける。
 後で瑞希自身が匿名で、さもなければ子供にでも頼んで警察に電話を入れて、2人の所在を告げればいい。
 助け出された2人の口から交通事故のことが語られ、きっとテレビや新聞で事故のことが明らかにされるだろう。
 …交通事故と犯人を結びつける確実な糸は、全て瑞希にしか繋がっていない。
 そして、最後の仕上げに、報道を見て追い詰められた瑞希は遺書を残し、自ら命を絶つ。

<正直言って、上手くいくかどうかはわからないけれど…でも…>

 瑞希は少し寂しげに微笑み、例え誤魔化せずに失敗し、野口が捕まってしまっても、そんな場面を見なくて済む…。
 それが瑞希のせめてもの救いだった。

 しばらく歩いていると、悟の目に、大きな一軒家が見えてくる。
 年代物の木造住宅。広い庭があるようで、外から見ても木々の緑が溢れていた。
 自然に囲まれた、安心感と懐かしさを感じさせる家だった。
 ヒビや汚れが目立ち始めた塀に囲まれていて、ちょっとくたびれた印象のある木で出来た正門と、車用の鉄の柵で出来た門が、距離をおいて並んでいた。
 鉄の柵は10cmくらいの間隔で縦に四角い鉄の棒が並び、上下はそれよりもっと太い鉄が使われている。
 所々錆びていた。

「…ここは?」
 悟は門の前に立ち、思わず尋ねてしまう。
「私の家。」
「あんたの…。」

<自分の家に連れて来てどうするつもりだ?>
 表札を見ると、『上村』と書かれている。
<確かにこの女の家だ…>
 その時、クロが門を見つめてあからさまに警戒し、唸り声を上げた。
<…クロ?>
 悟はクロの様子を見て…ハッとして目の前の家に視線を戻す。
<まさか…>
 クロが敵意を向ける相手としてすぐに思いつくのは…。

<…轢き逃げ犯がこの家にいるのか…?>

 悟の表情が強張る。
 轢き逃げ犯と瑞希がグルなのではないかと思う。

「笹山君?どうしたの?」
「あ、いや…なんでもない。」

 瑞希の正体もわからないのに、迂闊に心の内を見せるわけにはいかない。
 ましてや尚也は瑞希に人質に取られているようなものだ。
 下手に動けない。

「…入って。」
 瑞希は少し微笑み、門を開ける。
 敷地内に入って行く瑞希に、すぐに付いて行こうとはせず、ほんの少し躊躇い、意を決したように足を踏み入れた。
 瑞希は悟を招き入れ、ホッとしたように肩の力を抜いて門を閉める。

 クロは悟の周りをウロウロしながら、宙に鼻先をさ迷わせ、相変わらず攻撃的な姿勢を見せる。

「こっちよ。」
 瑞希は悟を導きながら歩き出す。
 玄関までの道は石が埋め込まれ、歩きやすくなっていたが、他は土と砂利なので多少空気がひんやりと感じられた。
 玄関に辿り着く前に瑞希が立ち止まり、悟の方へ振り返る。
 そして、手提袋の中から紐を取り出す。
「笹山君。…来て。」

 少し距離を置いて瑞希を見つめていた悟はすぐに彼女の意図を察した。

「俺のこと縛るのか。」
<そりゃそうか。暴れればいくら俺が男にしちゃ小柄でも、この女には勝てるもんな>

 クロの様子が気になり、そんな状態で自由を奪われるのは避けたいところだが、悟に選択権はない。

 悟は辺りに注意深く意識を向けながら、大人しく瑞希の許へ足を運ぶ。
 瑞希は悟の手から彼の鞄を取って地面に置き、背後に回り、後ろ手に一纏めにして紐で括る。

「最初に手首、縛らせてもらうわね。その後、あそこの車に乗ってもらう。」
 紐で悟の手首をグルグルと縛り、最後にきつく結ぶ。
「車?」
 悟は視線を泳がせる。…と、広い庭の隅に軽自動車が一台停まっていた。
<車で何処連れて行きやがるんだよ…>
 手の自由を奪われ、さすがに恐怖も入り混じった緊張感に襲われる。

 瑞希は悟の強張った顔を見て、目を伏せて僅かに微笑んだ。

「ねえ。川田君を心配している人って、女の子?」
<多分、女の子よね…>
 瑞希の予想通り、悟は戸惑いながらも頷いた。
 悟にしてみれば<何でこんな時にそんな質問するんだ?>と言いたげだ。
 瑞希は悟の気持ちを察しながらも、笑顔を消して無表情に戻る。
 でも心の中で、そっと囁いていた。
<君はその子のこと好きなのね…>
 尚也との関係を悟に尋ねた時のことを思い出す。
 『あいつがいないと泣いちまう奴がいるんだよ。』と言った時の悟の表情…。
 あの時の悟は、少し切なそうで、それでもとても優しい目をしていた。
 だから、『泣いちまう奴』はこの少年にとって、大切な存在だということを悟った。

<だからこんなに一生懸命なのね…>

 悟の表情、行動…言葉…その全てが瑞希の胸に突き刺さる。
 事故の被害者の無事を案じる気持ちと、轢き逃げ犯に対する怒り。
 そして、『大切な誰かさん』に対するひた向きな愛情。
 瑞希にとって悟の真っ直ぐな情熱は、愛しいと思うと同時に見ているのが辛くなる。
 自分の『歪み』を目の当たりにさせられる辛さだ。

 瑞希は小さなため息をついて、指示を出した。

「じゃあ、車の助手席の方に乗って…。」

 そう言った時、予想外の声が2人の耳に入り込む。
 少女の悲鳴と、何かが落ちる音。

 瑞希と悟は同時にその声に反応し、振り返る。
 悟は、振り返らなくても、声の主が誰なのかわかっていたが…。
 車用の門の傍で尻餅をついている少女。
 春香だった。
 門を乗り越えて庭に入ろうとして、最後の最後で足を滑らせてしまったらしい。
 着地失敗直後の春香の姿だった。
 クロが駆け寄り、尻尾を振ってしきりに<大丈夫?>と顔を覗きこんでいる。

「中山…。」

 春香の姿を見て、一番驚いたのは悟だった。
 悟と瑞希の視線に気が付いた春香は、慌てて立ち上がり、青い顔をして俯く。

「中山!お前何でここにいるんだよ!」
<何でだ?俺が上村瑞希と会うことは誰にも言ってない>
 悟は混乱した頭で、春香が何故ここにいるのかを考える。
 で、十数秒後、ようやく導き出した答えは『尾行された』だった…。
<学校から付けて来たってことか?>
 まあ、実際はかなり違うのだが、当たらずとも遠からずだろう。

 俯いていた春香が意を決したように顔を上げる。
「笹山君…これって一体どういうことなの?」
 春香は春香で、悟に聞きたいことが山ほどあった。
 尾行している間中、悟と瑞希の間にある、わけのわからない緊張感だけが伝わってきていた。

「その女の人は…誰なの?」
 悟を真っ直ぐ見つめ、答えを求める。

 瑞希は予想外の展開に戸惑いながらも、悟と春香へと交互に視線を泳がす。
 悟が少女に向ける目を見て 直感ではあるが、この子が『泣いちまう奴』なのではと感じた。
 尚也の身を案じてくれている存在。
<この子が尚也君を心配してくれた子…>
 …そして、悟が大切に想っている『誰かさん』。
 瑞希は一瞬柔らかな表情になるが、すぐに演技に戻る。ここで失敗するわけにはいかないのだ。

<騙す相手が2人から3人になっちゃったわね…>
 そう心の中で呟き、自嘲気味に笑う。
 そして、次の演技に入ろうとした時、新たな侵入者が登場した。
 ガサガサと草を踏み分ける音がして、家の陰から男が飛び出してきた。
 クロがいち早く反応し、激しく吠え立てる。

 悟と瑞希、それに春香も、お互いに気を取られていて、すぐには反応出来なかった。

 男は迷わず一番扱い良さそうな春香に襲い掛かり、背後から左腕を首に回し身動きが取れないようにする。
 そして右手に持っていたナイフを春香の頬に添えた。

「中山!」
「動くな!!」
 悟は春香の許へ駆け寄ろうとしたが、男が叫んだ言葉で足を止める。
「少しでも動いてみろ!こいつを刺すぞ!!」
 さほど大きくない声だったが、静かな庭にひんやりと伝わった。
 男はそのまま春香を引きずるようにして横に移動して行き、駐車場の門から離れる。
 柵の間から中が丸見えだからだ。万が一通行人がいた場合見られてしまう。
<通報でもされたらやっかいだからな>
 場所を移動し終えた男は震えた声で、愕然としている悟と瑞希に言い放つ。

「そうそう。大人しく俺の言うこと聞けよ。大声も出すな。小声で話せ。わかったな。」
「……そいつにかすり傷一つでも付けてみろ…ただじゃおかないぞ。」

 怒りのこもった声で男に忠告する。
 悟には、もうこの男の正体がわかっていた…。
 
 男は愉快そうに笑う。

「ただじゃおかないだって?笑わせるな。手を縛られてるお前に何が出来るって言うんだ?」

 悟は口惜しそうに唇を噛み、男を睨む。
 男はセンスの良いスーツを着ていて、見たところサラリーマンのようだった。
 同性の悟から見ても、とても整った顔立ちの男性だと感じてしまう。
 そして、その男の目は悟に一つのことを教えてくれた。

<こいつ、公園で俺を襲った奴だ…>
 間違いないと確信した。
 あの時、悟の目に焼き付いた男の目と同じだった。
 そして、男に対し激しく吠え、牙を剥くクロが男の正体を決定的にする。

「上村さん…。こいつが轢き逃げ犯だろ…?あんたとこの男、どんな関係なんだ…?」
 悟は隣にいる瑞希に目を向ける。
 悟としては、この状況から、瑞希と男がグルとは考えにくかった。
 何故ならば、男は悟だけではなく、瑞希に対しても敵意を持っているからだ。

 瑞希は、悟の言葉も耳に入らないようで、目を見開いて呆然と立ちつくしていた。
 男は、そんな瑞希を鼻で笑う。

「瑞希。お前、俺を裏切ってたんだな…。」

 瑞希は、今自分の目の前にある風景が、夢であって欲しいと願った。

<な…何でよ…何でここに来てしまったのよ…>
 悲愴感で埋め尽くされた心の中で、呻くように呟く。

 今、春香を人質に取り、瑞希に燃えるような怒りの視線を向ける男は…野口だった。

2002.9.3