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 この日春香は授業中ずっと落ち着かなかった。
 授業の合間の休憩時間に悟の教室へ顔を出した。
 里美が言っていた頬の傷が気になったからだ。
 春香の問いに、悟はあっけらかんと笑って「野良猫にひっかかれたんだ。」と言った。
 その後、「今日は昼休み野暮用があるから『秘密の場所』に行けない」と告げられた。

 昼休みに一人でお弁当を食べながら、春香は悟の様子に胸騒ぎを覚えていた。

<…今日の笹山君、何だか変だった>
 何か隠しているような気がした。
 そんな思いを抱えながらその日の授業を終えた。

<やっぱり気になる!>
 春香は授業が終わるとすぐに教室を飛び出し、悟のクラスへと足を運んだ。
 けれど、春香たちのクラスより一足早く授業が終わっていたようで、生徒たちはまばらにしかいなかった。
 悟の姿を探すが、見当たらない。
 
「中山さん。」
 ドアの所で立ちつくしていた春香に、一人の男子生徒が話しかけてきた。
 加賀直人だ。

「俺、加賀っていうんだ。笹山の友達。」
「え?」

 ニコニコ顔の直人に、春香は戸惑いの眼差しを向ける。

「笹山のこと探してるの?」
「あ…はい。」
「あいつ授業終わった瞬間即行で帰りやがったよ。」
「え?」
<何でそんなに急いで…?>
 春香はますます胸の中がもやもやしてくる。
 
<憩いの森公園に行ってみようかな…>
 悟には止められていたが、見えない不安を抱えているのが辛かった。

 考え込んでいた春香に、直人がにこやかな笑顔を向ける。

「中山さん。笹山ってさ、言葉乱暴だし、行動大雑把だし、繊細って言葉から遠くかけ離れた奴だけどさ…すげーいい奴だから。…まあ、あいつのこと、よろしく頼むよ。」

 突然の直人の言葉に、春香はどう反応して良いのかわからず困惑する。
 そんなことはお構いなしに直人は言葉を続ける。

「ま、俺もさ、あいつの友達だし、少しは宣伝してやらなきゃなって思ってさ♪ああ、俺って良い奴〜。」
「あの…。」
「じゃあ、そういうことで!」

 直人は一人でしゃべり、一人で納得して話を終わらせてしまい、帰ろうとした。
 廊下に出て歩き出した直人を春香は咄嗟に呼び止めた。

「あ、あの!」
「ん?」

 直人はちょっと小首を傾げながら振り返る。

「あの、笹山君の電話番号…知っていますか?」
「え?」
「教えてもらえたらと思って…。」

 少し躊躇いながら、俯き加減で尋ねた春香。
 公園に行かないまでも、夜にでも悟と連絡をとってみようと思ったからだ。
 直人は、まるで当たりクジを引いた時みたいに満面の笑みを湛える。

「了解!いくらでも教えてあげる♪」

 直人は悟の連絡先を伝えた。

「笹山悟に清き1票をよろしく!」

 そう言って、最後にこれでもかってくらいの笑顔を見せて帰って行った。
 その背中を見つめながら、春香は小さな声で呟いた。

「……私も知ってるよ。」
<笹山君、いい人だって知ってるよ…。でも…>
 春香は、自分の気持ちが誰に向かい、誰に惹かれているのか、見失っていた。
 結局、憩いの森公園へは行かずに、トボトボと家路を歩く。
 家の前まで辿り着き、ため息を一つつく。

「ただいま。」
 ドアを開け、誰も答えてくれないことがわかっていながらも、ちゃんと声をかけて玄関に入る。
 が、その瞬間異変に気が付いた。

 割れたお皿や本が廊下にちらばっていた。
 壁に投げつけられたであろうイスが床に無残に転がっている。

<どうしたの…?ど、泥棒でも入ったの?>
 春香は震える足を進め、居間へと足を踏み入れる。
 最初に目に入ったのは、割られた戸棚のガラス。
 次に倒されたテーブル。
 そして、ぶちまけられた雑誌や本の数々。
 酷く荒れた部屋の状態に、春香は唖然とする。

 何があったのかわからず、戸惑いながらも、この家にいるはずの母親を探す。
 でも居間に姿はなかった。
 あと、家にいるのは…。
<お兄ちゃん…>
 先ほど通ってきた玄関には兄、秀一の靴があった。

 春香は居間を出て、2階の兄の部屋に向う。
 秀一の部屋のドアの前に立ち、ノックするが応答がない。
 震える手でノブを回し、ドアを開けた。
 春香の目に映る光景は…勉強机に向かい、俯いて座っている兄の後姿。

「…お兄ちゃん。」
 その場から動くことが出来ず、ただ、声をかけるだけで精一杯だった。

 春香の声に答えるように、秀一の肩がピクッと動き、疲れたようなため息と共に、言葉が吐き出された。

「春香はいいな…。」
「え?」
「お前は、自由だ…。」
「じ、自由?」

<自由…?私が?>
 春香は秀一から言われた言葉が理解出来なかった。
 何故なら、自分を自由だとは一度も思ったことがないからだ。

「俺は、親に理想を押し付けられ、夢を押し付けられ…将来まで決められて…がんじがらめだ!」
 怒りのためか、悲しみのためか…語尾が震えていた。

「誰も俺自身のことなんか見てやしない!俺の気持ちなんか考えてやしない!!」
 秀一は、泣いていた。

「居間…お兄ちゃんがやったの?」
「…ああ。あの女があんまり煩かったから、黙らせた。」

 『あの女』とは自分の母親のことだ。

「祖父さんや祖母さん、親戚連中に自分の存在を誇示するためだけに俺を利用しやがる。そんな下らないことで俺を縛り付ける。汚い女だ!!」
 秀一は叫ぶように言った。…まるで心の悲鳴のようだった。
 春香は後退り、弾かれたように階段を降りて、両親の寝室へ向う。

 今度はノックをせず、ドアを開ける。

 するとベッドに力なく座っていた母親、英子がのろのろと顔を上げる。
 顔や体を見た限りでは、傷や怪我はなかったので、春香はとりあえずホッとする。
 秀一も、物に当り散らしただけで、英子自身の体には乱暴出来なかったようだ。
 英子は春香を見るなりヨロヨロと立ち上がり、縋るように抱きついてきた。

「お、お母さん?」
 春香の記憶にある、母からの初めて抱擁だった。
 昔、春香が欲しくて欲しくてたまらなかったもの…。

「は、春香…秀一が…秀一が暴れたの…。わ、私のこと、嫌いって…憎いって…。」
「お母さん、怪我は…?」
「私は秀一を愛してきたわ。ずっと秀一だけを見てきた…何が間違っていたの?いつも気を配って…お勉強だってずっと力を入れてきた。だって秀一の幸せのためよ?お義父様やお義母様、親戚中が文句を言えないくらい優秀なお医者様になってもらいたいから…だから…。春香…私はどうしたらいいの?助けて春香…。秀一はどうして私に…酷いことを…。」

 春香に泣きつき、助けを求めて縋る英子。
 春香の鼓動が早くなる。

 結局、今感じる母親の温かさは、全部秀一のもの。
 春香を抱き締め、瞳に春香を映していても、英子の心は秀一ばかりを追っている。
 春香の手には、何一つ残らない…。

 秀一も英子も…そして春香自身も自分の感情を抱えるだけで精一杯だった。

<…結局お兄ちゃんのことばかり>
 心のどこかで、今まで溜め込んでいたものが爆発した。
 春香は、英子から暴れるように離れ、キッと睨む。

「は、春香…?」
「…今さら私に助けを求めないで…。」
「春香…?」

 英子にとって思いも寄らない春香の反乱。

「私のことを見てくれたこともないくせに!私のことを愛してくれたこともないくせに!私が助けて欲しいと思った時、突き放したくせに!!今さら私に助けを求めないでよ!!…何よ!結局この家はバラバラじゃない!」

 そう叫んで、英子の顔から目を背け、走り出す。
 泣きながら家を飛び出した。
 すれ違う人の目を気にすることなく、駅に向う道を走る。

<笹山君…笹山君!!>

 春香は悟に会いたくてしかたがなかった。
 他の誰でもない、悟に会いたかった。
 
 春香の言葉にいつも耳を傾け、受け止めてくれた。
 春香のことを見てくれていた。

 初めて素直な気持ちを曝け出せた。

<笹山君に会いたい!>

 そのことだけを欲し、憩いの森公園へと向う。

 電車とバスを乗り継ぎ、憩いの森公園へ辿り着いたが、事故現場付近に悟の姿はなかった。
<笹山君…いない…>
 いつも必ず見張りをしているはずの悟がいないことで、春香の心はどんどん追い詰められる。
 少し離れた所に電話ボックスがあり、飛びつくように駆け込んだ。
 家を出る時、鞄は持って出なかったけれど、ポケットの中に小銭入れと、直人が教えてくれた悟の家の電話番号のメモだけは入っていたので連絡を取ることも出来るし、とりあえずの行動をする資金くらいはあった。

 悟の家に電話をする。

 何度か呼び出し音がなり、『はい。笹山です。』という明るい女性の声がした。
 悟の母親、満子だ。
「あの、私中山と申しますが、悟君、いらっしゃいますか?」
『悟?ごめんなさいね。あの子最近帰り遅いから今いないのよ。帰ったら連絡入れるように言いましょうか?』
「あの…何処へ行ったかわかりませんか?」
『うーん。ちょっとわからないわ…あ、ちょっと待って。…悟の字がメモに残ってる。』
「え?」
『悟が何かメモッた紙の文字が下の紙に跡になって残ってるの。鉛筆で軽くこすれば浮き出てくるわ。』
「何て書いてありますか?」
『えっと…。読むわね。』

 そのメモには、どうやら今日、悟が誰かと待ち合わせをしているような内容が書かれていた。
 
 春香は、悟と『誰かさん』との待ち合わせの場所、時刻を知ることが出来た。

<会いに行こう>
 迷いはなかった。
 悟に何があったのか、悟が何をしようとしているのか知るために、そして何より、春香が悟に会いたくて、躊躇わずにその場所へと向った。

2002.8.26