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 里美は、教室に入るやいなや席にいた春香と目が合って、「おはよ!」と言いながら近づく。

「さっき笹山君に校庭で会ったんだけど、頬に絆創膏貼ってたわよ。」
「え?」
「何でだか私には言ってくれなかったけど、気になるから報告しとく。春香が聞けば教えてくれるかもよ。」

 里美はニコッと笑って自分の席へと去って行く。

 今までの里美と春香の関係では考えられないような2人の柔らかな雰囲気に、クラス中の目が集まる。

 席に着いた里美に一人の少女が話しかける。

「ねえ、昨日からどうしたの?いつから春香と仲良くなったの?」
「昨日からよ。」
「…あんなに嫌ってたのに、どういうこと?」
「私が八つ当たりしていただけなの。私が馬鹿だったのよ。」

 里美は、軽く目を伏せ、静かに言葉を続けた。

「これから償わなくちゃ…。」

 里美のいつになく真剣な様子に、話しかけた少女はキョトンとする。

<でも、そのことと恋は別だものね>
 授業の準備をしながら、里美はそんなことも考えていたりした。


 同じ頃、瑞希と尚也は遅めの朝食を済ませていた。
 その後いつものようにお茶を飲みながらテレビを見ている。
 尚也は、朝から瑞希の様子に、何となく違和感を感じていた。
 瑞希は、朝からしきりにサナを愛しそうに撫でたり、抱き締めたりしている。
 いや、別に瑞希にとってサナは大切な家族であり今までだって可愛がっている場面は星の数ほど見てきたが、今日は何だかいつもと違うのだ。

「サナ。サナちゃんはいい子ね。」
 瑞希は頬擦りしてサナを胸に抱き上げる。
 サナは尻尾を振って飼い主の愛情に応えている。
 実に微笑ましい光景なのだが…。

「今日は随分サナとベッタリだな。」
 尚也は少し呆れたように言った。
 瑞希はフッと微笑み、サナを見つめる目を細める。

「いつもと同じよ。ねー。サナちゃん。」
 そう言ってサナの頬にチュッとキスをする。
 とても無邪気な瑞希の姿に、尚也はクスッと笑って肩を竦めた。
 
 そして何事もなく昼食も済み…瑞希は後片づけを終わらせ、とても明るい笑顔で尚也に言った。

「サナの散歩に行ってくるわね。すぐ戻るから。」

 いつも日に2〜3回くらい散歩に行っている。
 サナは散歩が大好きだし、瑞希は散歩をかかさない。
 この日も、いつもの通り、なんら変わらない日常だ。
 けれど…。
 この時、ちょうど尚也の布団の上に座っていたサナは、何故か散歩を酷く拒んだ。
 いつもなら『散歩』という言葉を聞いただけで部屋の中を駆けずり回り、嬉しさを体全体で表すのに、今のサナはあからさまに散歩に関心がない素振りをする。
 瑞希はサナをいったん抱き上げ、畳の上にふわりと降ろし、散歩用のハーネスとリードを身につけさせる。

「サナ、行くわよ。お散歩よ。」

 瑞希の言葉を聞き、サナは更に体を強張らせ、足を踏ん張る。
<行きたくない!>と言う意思を、体で訴えているようだ。
 こんなサナを尚也は初めて見る。
 
<サナ…?>
 尚也は戸惑いながらサナを見つめた後、顔を上げ、瑞希に目を向けた。
 お互い、やけに切なそうな瞳をしていた…。
 
「お願いサナ。大人しく散歩、行きましょうね。」

 瑞希は嫌がるサナを抱いて部屋を出て行った。
 数十秒後、ドアが閉まる音がして、瑞希たちが出かけたことを知る。

<サナ、まるで嫌なところに連れて行かれるみたいな嫌がりようだったな…>
 尚也は言いようのない胸騒ぎを感じていた。

 瑞希たちが出かけて10分ほど経過した時、不意に電話が鳴った。
 静かな家の中に突然響く音に、尚也はビクッとする。
 瑞希の留守中電話が鳴ったのはこれが初めてだ。
 尚也は、何かの考えをまとめる前に、駆り立てられるように立ち上がり、廊下へ出る。
 足は普通に歩いても大丈夫なほど回復している。…もちろん瑞希には秘密だが。
 電話台の前に立ち、必死で受話器を取ってくれる主を呼び続ける電話をしばらく見つめていた。

 尚也の脳裏に、先ほどの瑞希とサナの顔が過ぎる。
 そして、何故かこの電話は取らなければならないという思いが込み上げてくる。
 そう思った後の尚也の行動は素早かった。
 多少乱暴なくらいに受話器を掴み、耳元に持っていく。
 尚也は何も言わず、相手の言葉を待つつもりでいた。
 その言葉を聞けるまでには1秒も間はなかっただろう。

『瑞希!俺だ。』
 瑞希の名を呼び捨てにする男性の声だった。

『瑞希。やっぱりどうしても気になって…。あの少年をどう始末つけるつもりなんだ?殺すんだろ?それしか手はないだろ?どうせお前は一人殺してんだから一人も二人も一緒だ。事故の目撃者を生かしてなんかおけない!』

 切羽詰ったように一人で話を続ける男性。

<一人殺してる?>
<始末をつける…?>
<事故の…目撃者?>
 尚也は受話器を握る手に力を込める。
 この男の正体、尚也がそれを考えた時、出た答えは一つだった。
 轢き逃げ犯。

 瑞希は、鍋島はここに連れて来られた時には既に死んでいたと言っていた。
 だとしたら、『どうせお前は一人殺してんだから』という言葉の『一人』は自分のことだと尚也は感じた。

<俺が生きてること知らないんだな>

『瑞希?おい!何とか言ってくれよ…。お前だけが頼りなんだよ…。愛してるから…。』
「お前が轢き逃げ犯か!!」

 思わず言葉を叩きつけていた。

『…え?』
 男が息を呑む気配が受話器から感じ取れた。

「お前が鍋島のじーさんとクロを殺したんだな!!」
『お…お前…。』
 『お前は誰だ?』と聞こうとしているようだが、言葉がなかなか出ないようだ。

「俺はお前に轢き逃げされて、殺されかけた男だよ!」

 この言葉を尚也が叫んだ後、電話は逃げるように切れた。
 ツーっという機械音を聞き、尚也は気持ちを落ち着かせるために大きく深呼吸し受話器を置いた。

「やっとわかったぜ。」
<瑞希さんが誰を庇っているのか>
 恋人。瑞希は恋人を庇っている。
<名前、聞けなかったけど、俺が生きていることを知って行動を起こすはずだ>
 チャンスだと思った。
 それに、電話の内容からすると、また瑞希が何か加担させられていることを感じさせる。

<瑞希さんが帰ってきたら何が何でも説得してあの野郎のことを聞き出す>
 いつも罪悪感で押し潰されそうになっていた瑞希。
 解放してあげたかった。
 罪を償って欲しかった。
<間違ってもあの野郎の身代わりで自殺するなんて馬鹿な真似させるわけにはいかない!>
 轢き逃げ犯に対する憎悪を燃やす。
 鍋島とクロの命を奪った男。
 尚也が大切にしていた存在をこの世から消し去り、瑞希を巻き込み、今ものうのうと逃げ続けている男。
 …殺意が芽生えるほどの怒りがじわじわと尚也を包み込む。

2002.8.18 

あー。何だかドキドキする。(汗)上手く書けると良いなー…。