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「瑞希さん。瑞希さん!」

 過去の記憶に入り浸っていた瑞希だったが、尚也の呼ぶ声で現実に引き戻される。

「あ、ごめんね。何?」
「電話鳴ってる。」
「え?」

 聴覚も現実に引き戻すと、なるほど電話の呼び出し音が鳴り続けていた。
 慌てて部屋を出て、受話器を取る。
 それと同時に受話器の向こうから聞こえる声。
『瑞希。俺だ。』
「あ…野口さん。」
 名前を呼んだ瞬間、尚也のいる部屋の方へ目をやり、襖をちゃんと閉めてきたかを確認する。
 聞かれたらマズいからだ。

「どうしたんですか?こんなに遅くに…。」
 腕時計を見ると、もうすぐ夜11時半になるところだった。
 野口の声が、あの事故を起こした日のように切迫していることに気が付き身構える。

『交通事故の目撃者がいたんだ!』
「…え?」

<何ですって?>

 野口の言葉に、瑞希は血の気が引いた。

<事故の目撃者?>

「野口さん。落ち着いて話して…。」
『さ、笹山悟って高校生なんだ。あいつ事故があった場所も、俺が轢き逃げ犯だってことも知ってる。俺を探していたんだ!だ、だから俺、さっきそいつに会ったんだ。』
「会ったって、何で…。」
『もちろん、そいつを殺すためだ!だって、他に方法があるか?笹山悟はきっと全て知ってる!知ってって警察にも行かずに何か企んでやがるんだ!』
「野口さん。もっとわかりやすく、最初から話して。」


 瑞希は、動揺している野口を宥め、悟に辿り着いた経緯と、今夜、野口が悟に対し取った行動を知った。

<なんてことなの…>

 事態がどんどん最悪な方へと転がっていく。
 瑞希は唇を噛んだ。
 それでも、野口が悟と言う少年の命を奪わずに済んだことに救いを感じた。
 動揺する気持ちを抑え、冷静に野口に指示を出す。
 指示。今の野口には、その方が冷静に行動してくれそうなので、わざといつになく強い口調で言う。

「野口さん。話はわかったわ。今何処から電話しているの?」
『い、家からだよ。公園から帰ってきてすぐに電話したんだ。』
「野口さん。良く聞いて。もう野口さんは何もしないで。後は私が何とかするから。」
『何とかって、どうするんだよ!』
「私に考えがあるから、全部任せて。」
『考えって…。』
「とにかく、これ以上野口さんが動くのは危険だわ。後は私に任せるの!!大丈夫。あなたは安心していつも通りの生活を続けていればいいの。」
『瑞希…。』
「野口さん。その少年の電話番号を教えて。それと、事故当日の様子を出来るかぎり詳しく教えて。」

 その言葉で、ようやく野口は落ち着きを取り戻したようだった。
 野口から悟の電話番号を聞きだし、事故がどういう風に起き、野口がどういう行動を取ったかを克明に説明させた。
 瑞希は電話を終わらせ、受話器を力なく置いた。
 そっと目を閉じる。

<もう、野口さんに誰も殺させちゃいけない。もう誰も死んじゃいけない>

 瑞希はゆっくりと目を開け、再び受話器を取る。
 今さっき聞いた電話番号を素早く押す。

 瑞希が電話をかけた相手は、今、新入りの家族、『コン太』が食事を終えてようやく寝入ったのを見て安心していた。
<腹いっぱいになって安心したのかな>
 頭を撫でて微笑む。
 傍でちょこんと座っていたクロが、羨ましそうに眺めていた。
 その時、電話が鳴った。

「誰だよ。こんな夜遅くに!」

 訝しげに首を傾げ、立ち上がる。
 走って電話台に駆け寄り受話器を取った。

「はい。笹山です。」
『夜分遅くすみません。上村と言います。』

 女性の声だった。
<誰だ?>

『あの、失礼ですが、笹山…悟君、ですか?』
「はあ。そうですが…。」

 悟の答えに、女性は少しの間黙り込んでいたが、意を決したように、ハッキリとした口調で驚くべきことを告げる。

『あなたが探している交通事故の轢き逃げ犯は、私です。』
「…え?」
『それを証明するから、明日会っていただけますか?』

「あの…ちょっと待ってくれよ。」
<この電話の女性が轢き逃げ犯?>
<嘘だろ?>
<今夜襲ってきたのはどう考えたって男だ。共犯だったのか?>
<それにクロが教えてくれた事故直後の声だって男だし、香水だって男性のものだ>
<どういうことだ?>
 次々と疑問が浮かび、悟はかなり混乱していた。

『会ってもらえないんですか?』
「いや…。えっと、上村さんでしたっけ。あなたが轢き逃げ犯って…本当か?」
『本当です。だからそれを証明してあげるから。明日会っていただけますか?』


 悟は受話器を握る手に力を込める。
<どうする?>
 犯人は男だ。悟はそう思っていたし、女性の告白を聞いた今でもその思いは変わっていない。

<いずれにせよ、この女が事故に関係しているのは確かだよな>
 だったらこんなチャンス、逃すわけにはいかない。
 答えは決まっていた。

「何時に、何処に行けばいい?」

 悟は、女性が指示する待ち合わせ場所と時間を、電話の傍にあったメモ帳にボールペンで書き留める。
 クロが悟の足元に絡みつき、<どうしたの?どうしたの?>と、見上げて必死に尻尾を振っていた。

 6月28日(金)
 朝、悟はいつもより2時間くらい早く家を出て、トヨお婆ちゃんへ会いに行く。
 ポコの朝の散歩は大体7時頃だと聞いていたからだ。

<そういや、少し前まで遅刻魔とか言われてたのに、この事件に関わってから朝だってちゃんと起きられるようになったな>
 憩いの森公園へ向いながら悟は苦笑いする。

 トヨお婆ちゃんには無事会うことができた。

「何でここで散歩しちゃいけないのかね?」と、しきりに不思議がるトヨお婆ちゃんを何とか説き伏せ、了承してもらう。

 もちろんただではなかったが…。
「一緒に歌舞伎を見に行ってくれたら悟君のお願いきいてあげてもええよ。」
 これが条件。当然悟の答えは「了解!」だった。
 これで、悟がOKを出すまで、しばらくトヨお婆ちゃんは憩いの森公園への散歩はお預けである。

 この後急いで学校へ向い、何とか遅刻せずに校門へと辿り着く。

<忙しい朝だな>
 走ってきたので息を切らしていた。

「おはよう!笹山君!」
 後ろから超明るい声で呼ばれる。
 春香の声ではなかった。
 でも、聞き覚えのある声で…。

 悟はちょっと迷惑そうな顔を作り、振り返る。
 すると、そこには、元気いっぱいの笑顔を湛えた里美が立っていた。
 どうやら悟が来るのを校門の陰に隠れて待っていたようだ。

「何よ、その景気悪そうな顔。」
「違う。警戒してるんだよ。」
「やーねー。もう罠なんか仕掛けないわよ。」
「どうだかなー。」
 プイッと顔を背け、歩き出す。
 でも、まあ、春香から里美と仲直りをしたと聞いていたので、本気では拒絶していなかった。
 里美は悟のすぐ横を歩調を合わせて歩き出した。

「それより、その頬の絆創膏、どうしたの?」
「お前には関係ないよ。」
「冷たいわねー。人がせっかく反省してお礼を言おうと思ってんのに。」
「え?」

 里美の言葉に、悟は足を止めた。
 当然、里美もそれに合わせて立ち止まる。
 里美は、今までの、どこか茶化した口調から一転して、とても静かな声で気持ちを言う。

「楽しいこと、見つけたから。…春香にも謝った。ありがとう…私に気が付かせてくれて。感謝してる。」
「国井…。」

 あまりに素直な態度をとられ、悟は目をまるくする。

 里美はニコッと笑って悟に挑戦的な目を向ける。

「でね、楽しいことって、何だと想う?」
「へ?わかんねーよ、そんなの…。」

 戸惑い気味の悟。
 里美はすかさず、ちょっと背伸びをして、悟の耳元で囁く。

「今度は本気で笹山君に迫るから、覚悟しててね。」
 ふぅっと吐息まで吹きかけられ、悟はビクッとして後退る。

「何すんだよ!」
「ふふふ。照れちゃって♪愛してるわよ♪」

 そう言って投げキッスをして、軽い足取りで去って行く里美。
 後に残された悟。
 里美の攻撃に、かなりダメージを食らっていた。

 前向きになってくれたことは嬉しいが、彼女の持つ強力なエネルギーの矛先が自分に向くのは『勘弁してくれ状態』だった。
 もちろん、気持ちは嬉しいが、今の悟は春香一筋なわけで…。
 里美は、それを知っていながら『迫る宣言』をしたわけだ。
 その言葉通り、真面目に毎日元気に迫られそうで、考えただけでもドっと疲れてくる。

<誰かあいつを何とかしてくれ…>
 切実にそう願っていた。
 クロは悟の足元で、首を軽く傾げ、その様子を見ていた…。

2002.8.14