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本当に大切なものが何なのか、ずっとわからないでいた。

ずっと欲しかったものが目の前にあったのに、わからなかった。

…違う。本当は気が付いてた。

でも、認めたくなかった。

この気持ちを認めてしまったら、今までの生き方を否定することになってしまうから…。

だから、恐さと苛立ちを感じ、ついには自分の手で大切なものを壊してしまった…。






どっぐきゅ〜ぴっと



4章 償い



 悟と野口が接触した夜、瑞希と尚也、そしてサナはとてものどかに過ごしていた。
 毎度のことながら『監禁している側』と『されている側』とは思えないくらい、穏やかな空間。

 この日の晩御飯はビーフシチュー。
 瑞希は、布団をまたいで置ける横長のテーブルを探してきた。
 このテーブルのおかげで尚也は体を起こせば布団の上で食事が出来やすくなるわけだ。

「何も俺の好物ばかり用意しなくてもいいのに…。」

 用意された夕食を目の前にして、苦笑いする。
 瑞希は、しつこいくらい尚也の好物を聞きだし、それをメニューに取り入れていた。

「でも、窮屈な思いをさせているし、せめてこれくらいは…。」

 少しぎこちない微笑を浮かべ、瑞希は尚也を見つめた。

「…まあ、嫌いなものを出されるよりはいいけどね。少しは自分の好きなもの作れよ。」
「私好き嫌いないの。さ、冷めないうちに食べましょう。」

 こうして和やかな夕食が始まった。
 食事をしている時、瑞希は遠慮がちに尚也に尋ねた。

「…尚也君のご家族の方、心配しているでしょうね。」

 ずっと気になっていたことだ。
 瑞希が尚也を拘束している張本人。
 だから、こんな質問をすること自体おかしいのはわかっていた。
 でも、常に罪悪感を抱えているわけで…。
 被害者である尚也にそんな気持ちの断片を吐露するのは筋違いもいいところ。
 でも、一見恐そうに見えた尚也が、あまりにも柔らかな態度や眼差しを向けるもので、気が緩むといつの間にか甘えたくなってくる。
 瑞希は現在29歳だ。自分よりかなり年下の少年に甘えたくなるなんて、瑞希自身信じられなかったが、尚也にはそういう雰囲気があるのだ。

 尚也は瑞希の言葉を聞いて、少しの間、彼女を見つめていた。
 瑞希はその視線を感じながら、心を覗かれているようで恥ずかしくて体を小さくする。

「うちの家族は、少しも心配してないよ。」
「え?」
「俺、よく黙って外泊したりしてたから。1週間帰らなかったことも何度もあったよ。」
「何で?」
「年齢誤魔化して夜間のバイトもやってたし、ずっとファミレスにいたこともあったかな。学校だってサボってばっかりだったし。だから誰も心配してねーよ。」

 尚也はそう言って笑った。
 瑞希の『何で?』の言葉の意味は、どうして家族は心配していないなどと寂しいことを言うのかを問う言葉だった。
 尚也はそのことに触れなかったし、瑞希もこれ以上聞けなかった。
 瑞希は、尚也が自分を安心させようと思って言ってくれているのか、それとも真実なのかを計りかねていた。
 瑞希の気持ちを知らずに、尚也は美味しそうにビーフシチューを口に運ぶ。

<食べることってこんなに美味しいものなんだな>
 尚也はそう思っていた。
 自分以外の誰かと同じ時を過ごす。
 ただ同じ場所にいることではなく、意識をお互いに向けて過ごす時間。
 春香とお昼休みや放課後、『秘密の場所』で同じ時間を共有して過ごした時も少し感じたが、今はもっと実感している。
 瑞希と食べる食事はとても美味しかった。
 今の家族との食事では美味しいと感じたことなど一度もなかった。

 食事の後、お茶を飲みながら、瑞希と尚也はテレビを見て、たわいのない話をしていた。
 いったん話題が途絶えた時、瑞希が少し悪戯っぽい顔をして尚也に質問を始めた。

「ねえ、尚也君の初恋はいつだったの?」

 尚也は飲んでいたお茶を噴き出しそうになる。

「そんなもん、忘れたよ。」

 …実は、尚也の本気の初恋の相手は、今同じ屋根の下にいる瑞希だ。
 ちゃんと人を好きになり、恋愛したことはないが、体だけの経験なら結構ある。
 バイト先で知り合った年上の女性や、街で声をかけてきたOL。
 気分がのれば誘いに乗った。相手に対し何の感情もなく、ただ欲望を吐き出すだけの行為。
 その尚也が初めて恋をしている。

「そう言う瑞希さんはどうなんだよ。」
「私は小学1年生の時、担任の先生。」

 瑞希はニコッと笑って答えた。

「じゃあ俺も学校の先生にしとくよ。」
「嘘ばっかり。」

 瑞希はクスクス笑い、その後、フッと笑顔に影が過ぎる。
 それでも笑顔を崩さず話を続ける。

「私ね。もっと可愛く、美人に生まれてこれたらって鏡を見る度落ち込んでいたわ。暗い青春。」
「瑞希さん…?」
「一度だけね、高校の時、勇気を出して好きだった男の子に告白したことがあるの。」

 瑞希は手にしていた湯飲み茶碗の中に視線を落とす。

「でも、振られちゃった。それ以来ちゃんとした告白なんてしていないの。」

 尚也は黙って瑞希の顔を瞳に映していた。
 瑞希は少し疲れたように頬杖を付いた。
<…でも、その後も一度だけ愛していますって伝えられたわね>

 クスッと笑う。

<でも、あれは脅迫したようなものだしね…>

 楽しくて笑ったわけではなく、自分の愚かさに対して笑ったのだ。
 脅迫。
 …脅し。
 瑞希が野口に言った言葉は、脅しの上に成り立っていた。
 『交通事故のことを隠蔽してあげるかわりに私を愛して。』という気持ちをこめて脅した。
 言葉で言わなくても、あの状況では野口は拒絶することなど出来ないとわかっていながら脅した。

<酷い女よね…>

 瑞希は湯飲みを握る手に、キュッと力を込める。
 そして、とても明るい声で「美人や可愛い人は得よね。」と言った。
「得って…。」
「綺麗な人ってそれだけで得してるように見えちゃうのよね。そう思えば思うほど、卑屈になっちゃうのよね。」

 そう言った後、瑞希はちょっとおどけたように笑った。

「私なんて今まで誰かに好きになってもらったとか、一度もなくて。だから、もてる人が羨ましい。」

 尚也は、フッと瑞希から視線を外す。

<ここにいるんだけどね…。あんたのこと好きだと思ってる奴…>
 確かに瑞希は美人ではない。華やかさもない。
 でも、尚也は彼女の笑顔が好きだった。
 彼女が作り出してくれる、どこかほのぼのとする空間が好きだった。
 出会った当初、瑞希は身を縮こませて、いつもなるべく目立たないように振舞っていた。
 それが、少しずつ自分を出すようになってきてくれていた。
 それどころか尚也自身時折不思議に思うほど、自分との会話を楽しんでくれていると感じる瞬間もある。

<それはそれで嬉しいけど、弟みたいな扱いされてんだよな>

 まあ、年齢差を考えれば仕方のないことだとは思いながらも、瑞希に恋している尚也として納得するわけにはいかない。

<男として見てもらえなくってどーすんだよ>

 傍にいたサナを抱き寄せ苦笑いする。
 まあるい瞳で、尚也を見つめるサナは、いつも思いのまま愛情をぶつけてくる。

<お前みたいになれればいいのにな>
 フゥっとため息をついた。

2002.8.11