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 犬と一緒なので、タクシーで帰ろうと思う。
 でも、何度も断られ、犬が同乗しても良いと言ってくれるタクシーを見つけた時には夜10時を回っていた。
 クロが車に対し恐怖心を抱いていて、なかなか乗ろうとしなかったが、何とか宥めすかして落ち着かせた。
 タクシーは無事悟たちを乗せ、夜道を走る。
 クロはバス通いで鍛えられた成果か、酔うそぶりも見せず、悟の足元で大人しく伏せている。
 野良犬は、悟の膝の上で蹲っていた。
 悟は窓の外を見つめ、自分を襲った男のことを思いだす。
<あの男が犯人> 
 顔は曖昧にしか思い出せないが、あの目だけは忘れない。
 男は悟の名前を知っていた。
<やっぱり、トヨ婆ちゃんに事故のことを聞いてきた男が犯人だとしか思えないな>
 トヨお婆ちゃんの顔が浮かんだ。
<明日、もう一度トヨお婆ちゃんに詳しい男の特徴聞こう>
 自分の正体がどこまで犯人に知られてしまっているかわからない以上、これから先は常に一人で行動しようと決めた。
<俺以外にも事故のことを知っている人間がいると気が付かれない方がいい>
 春香に犯人の手が伸びることは絶対に避けたかった。
『お前はどこまで知っているんだ!』
 男が悟に言った言葉。
 本気で悟を殺そうとした。
<あいつ、俺が事故のことをかなり詳しく知ってるって思ってんだな…>
 …悟は<そう思われてた方が好都合>と思い、<今度接触してきた時がお前の最後だからな!!>と心の中で宣戦布告する。
「証拠掴んでとっ捕まえてやるからな。」
 小さな声で呟く。
 そして、自分の膝の上で、安心したように寝息を立てる野良犬を見つめ、家に帰った後、母親の満子をどうやって説得するかを考える。
 悟はこの犬を飼う気になっていた。
 今まで悟の家では犬を飼ったことがない。飼いたいと言った事もないわけで…。
 この野良犬を簡単に迎え入れてはもらえないと思っていた。
 
<ま、何とかするさ>

 そうこうしているうちに自宅に無事帰りついた。
 時刻は夜11時を過ぎていた。

 悟の財布ではタクシー代が払えず、野良犬を抱えて慌てて家に入る。
 その気配に気が付いた満子が、既に玄関で待ち構えていて、少々ご立腹の様子だった。

「悟!いくらなんでも帰るのが遅すぎ…あら?」
 いつもより輪をかけて帰りの遅い悟を叱ろうと思ったが、傷だらけの上、土で所々汚れた格好と、抱えている犬を見て、言う言葉を変更する。

「どうしたの?その犬。それに何その頬の傷!どうしたの?」
 ナイフで付けられた頬の傷に気が付き、少々顔色を変える。

「悪い!後で説明するから、外でタクシー待たせてんだ。タクシー代、払ってくれ!」
「ちょっと…。まったくもう!」

 満子はブツブツ言いながらもタクシー代を払ってくれた。

 居間にバスタオルを敷いて、野良犬を座らせた。
 悟と満子は傍らに座りこみ、容態を見る。

「この犬、酷い怪我してるわね。特に首の周り。」
 満子が痛々しげに見つめる。

「ああ。仔犬の時に首輪をイタズラでハメられたみたいなんだ。母さん、こいつ飼っていいか?」
「いいわよ。」
「え?」
 悟はあまりにあっさりOKをもらえたので、驚いて思わず満子を見つめてしまった。

「いいのか?」
「いいわよ。その代わり、散歩は悟がするんだからね!」
「うん。ありがとう。まさかこんなにアッサリ飼えるとは思ってなかった。」
「どうして?」
「今までペット飼ったことなかったから。」
「だって今まで誰も飼いたいって言わなかったじゃない。」

 満子は、そう言って手を伸ばし、野良犬に触れようとした。
 野良犬は、鼻をヒクヒクさせながら自分に近づいてくる手を見つめ、触れられても大人しくしていた。
 いつもだったら、こんなことをされたら、怯えと敵意で牙をむいていただろう。
 でも野良犬は悟の心を感じ取り、満子も自分の味方だということをちゃんと認識していた。
 満子はひとしきりフワフワとした毛で覆われた体を撫で、その後ポツリと呟いた。
「悟…。」
「何?」
「あんた、危ないことに巻き込まれているわけじゃないわよね?」

 悟を見つめる満子の目は真剣だった。
 悟は思わず頬の傷に手をやる。
 毎晩遅くまで帰ってこない上に、頬の傷や腕を所々擦り剥いている悟の姿を見て、口を出さずにはいられなかったのだろう。
 悟は少し躊躇った後、口を開いた。

「少しだけ、危ないことしてる。」
「悟!」
 満子の表情が険しくなる。
 でも、悟は満子がその先を言う前に、説得の言葉を口にする。

「今やめるわけにはいかないんだ。悪いことをしているわけじゃない!もう少しだけ見逃してくれ!」
「危ない目に遭いそうな息子を守るのは親の勤めよ。」
「大丈夫!大丈夫だから…。もう怪我なんてしないよ!誓うから。」
「何を根拠に大丈夫なんて言葉、軽々しく使ってんのよ!」
「俺、どうやら犬に守られてるらしいから!」

 悟は、<かなり苦しい説得の仕方だよな>と思いながらも、ここで怯んではいけないと胸を張って言い切った。
 …が、満子は、馬鹿にもせず、悟を見つめた後、フゥ…と小さな吐息を漏らした。
 言い出したらきかない息子のことを良く知っている満子だった。

「…わかったわ。もう少しだけ傍観しててあげる。」
「ありがとう!」
「でも、今度怪我して帰ってきたら、洗いざらい全て自供してもらうからね!」
「ああ。わかった。」

 満子は悟から視線を外し、立ち上がる。

「ご飯食べちゃって。あ、そのワンちゃんには冷蔵庫にあるもの適当にあげてね。牛乳もあるから。」
「うん。」
「それと、明日あんたが学校行っている時ワンちゃん獣医さんのとこ連れて行くから、そっから先は全てあんたが世話するのよ。」
「うん。ありがとう!」
「じゃあ私はもう寝るわ。…早くそのワンちゃんに名前つけてあげなさい。」

 そう言って、満子は居間を後にする。
 寝室に向いながら、満子は悟がまだ幼かった頃のことを思い出していた。
 悟自身は忘れてしまった事件。
 怪しい男が幼い悟を女の子と間違えて悪戯目的で公園に連れ込んだ。
 日も暮れかかった寂れた公園で、周りに人もいなかった。
 でも、悟が恐がって泣き出した途端、野良犬がどっからともなく現れて、男から悟を守ってくれた。
 悟のことを探し回っていた満子が、公園で悟を見つけた時、驚いた。
 足を押さえて蹲る男。その少し離れた所で、しゃがんで泣きじゃくる悟。
 そして、悟の小さな体を、自分の体で包み込むように伏せている大きな犬。
 犬は、満子の存在に気が付き、静かに立ち上がり、何処かへと消えていった。

 悟をさらった男は無事警察に捕まった。
 満子が後から知ったことだが、男の足には数箇所犬に噛まれた痕があったそうだ。

<犬に好かれる体質なのかしらね>
「本人は女の子にモテたかったでしょうにね…。」
 口では冗談を言ってみるが、過去の不思議な出来事が偶然ではないのではと思い始めている。
 そう思って考えてみても、悟と犬との不可解な関係に、納得の行く答えなど探せるはずはないのだが…。

「そう言えば、義父さん、昔犬飼ってたわよね…。年老いた老犬…。」
 悟の父方の祖父は悟が生まれる数ヶ月前に既に他界している。
 その祖父が可愛がっていた犬がいた。
 祖父の家に迷い込んできた野良の老犬で、そのまま祖父の飼い犬となった。
 その犬のことを、祖父はとても可愛がっていた。
 祖父が亡くなり、その後を追うように犬もこの世を去った。

「我が家に関係ある犬のエピソードはこれくらいよね…。」

 満子は肩を竦めて寝室へ向った。

 悟は野良犬に『コン太』と命名した。
 コン太は与えられた牛乳とハムを美味しそうに食べたので、とりあえず悟をホッとさせた。

「なあ、クロ。コン太…。」
 悟は、コン太に餌をやりながら、呟く。
 傍らに座っているクロとコン太は悟の言葉に、食い入るような眼差しで注目する。

「鍋島さんと川田先輩。生きているのかな…。」
 いつも都合の良い方にしか思考を働かせない悟が、初めて暗い予想を立ててしまう。
<轢き逃げ犯は、俺を殺そうとした>
 本気で絞め殺そうとしていた。それを悟は嫌というほど感じた。
 明日、きっと首に痣の痕が出るだろう。それくらい相手は真剣だった。

<俺を殺そうとした犯人。罪を隠して逃げている犯人。そんな奴が、自分が車で轢いた被害者を生かしておくとは思えない>
 悟は胡坐をかいて俯き、目を瞑る。

<どう考えても、無事だとは思えない!!>
「くぅ〜ん…。」
 悟の不安な気持ちが伝わったのか、クロがしきりに顔を覗きこみ、切ない声を上げる。
 クロの視線に気が付き、悟はとにかく微笑んでみる。

「…そうだよな。お前は疑うことなく無事を信じてご主人様んトコへ行こうとしているんだもんな。」
<今は、あの轢き逃げ犯に罪を認めさせ、事故の一部始終を明らかにさせることだけを考えよう>

 悟はふと、不安を感じる。
「トヨ婆ちゃんに声をかけてきた男が轢き逃げ犯なら…ヤバイよな。」
 犯人は悟を事故を知る目撃者か何かだと思っている節がある。
 だとしたら、悟を消すのに失敗した轢き逃げ犯は、自分の顔を知っているトヨお婆ちゃんを邪魔だと思うかもしれない。

「明日朝一で会いに行こう。」
 行って、しばらくの間憩いの森公園には近づかないように頼もうと思った。
 下手すると轢き逃げ犯の魔の手がトヨお婆ちゃんにまで伸びることを恐れた。
 万が一ってこともあるからだ。
 今さらながら、自分が取ってきた行動が、大きな危険をはらんでいることを実感していた。

2002.8.8 第3章(終)  第四章『償い』へ⇒