| さて。 悟はこの日も当然のように憩いの森公園へ行き、いつものポジションで横断歩道の見張りをしていた。 学校を出る前に『秘密の場所』で春香に会い、その時、里美と和解したと聞かされ、ホッとした。 春香の心にある重石が一つ減ったことが嬉しかった。 <でも、何だか元気なかったよな> 俯き加減で、悟ともあまり目を合わせなかった春香。 笑顔にも力がなく、それが少し気になっていた。 <まあ、今まで抱えてきたもんが多過ぎて、そんなにすぐに割り切れるわけないもんな> そう納得した。 「さて、勉強勉強。」 春香に作ってもらった期末テスト対策用のノートはとてもわかりやすく、勉強もはかどっている。 今現在は、横に座っているクロ相手に歴史上の人物や年号をブツブツ言いながら勉強をしている。 クロはちょっと迷惑そうに目を合わせたり逸らせたりで、<何か別のことで遊んでよぉ>と、訴えていた。 夕方、トヨお婆ちゃんがポコを連れて悟の許へとやって来た。 ポコが地面から悟を見上げ、激しく尻尾を振る。 悟は花壇から降りてポコを抱き上げる。その途端にポコは悟の顔を舐め始める。 「悟君。こんにちは。」 「こんちわ!あれ?どうしたの?」 トヨお婆ちゃんがやけに嬉しそうだったので、悟は首を傾げる。 「今日は悟君に良いお知らせがあるんだよ。」 「え?何?」 「今日の午前中ね、事故のことで何か知ってそうな人に会ったんだ。」 <え!!> 悟は目を見開いて、身を乗り出した。 「ほ、ホント!?」 「ああ。その人も事故のことを調べているみたいだったよ。だから悟君の電話番号教えてあげちゃったんだけど…。」 <よかったかねぇ?>と言いたげに、ちょっと不安げな面持ちで悟を見つめた。 「いいんだ!ありがとう!その人、なんて言ってた?どんな人だった?」 「悟君と同じようなことを私に聞いてきたんだよ。この横断歩道で交通事故があったって話、聞いたことありませんか?…ってね。」 「へえぇ。」 悟は、期待で高揚した。 「背の高い青年だったよ。とても親切だった。パリッとしたスーツ姿が板に付いたサラリーマンで、とてもカッコ良くて見惚れちゃったよ。」 「トヨ婆ちゃん、よく買い物は忘れちゃうのに、こういうことは覚えているんだね。」 「私はいい男の顔は忘れないのさ。ふふふ。」 「ははは。」 悟はトヨお婆ちゃんの言い様に笑った。 トヨお婆ちゃんはふぉふぉふぉとひとしきり笑った後、言葉を続けた。 「必ず連絡するって言ってたから近いうち電話がかかってくると思うよ。」 「相手の名前はわからない?」 「それが聞きそびれちゃってね。ごめんよ。」 「ううん、いいんだ。マジありがとう!恩にきるよ!」 「じゃあ今度1日デートしてくれるかい?」 「いいぜ!トゲ抜き地蔵にだって浅草雷門にだって連れてってあげるよ。」 悟はニコッと笑った。 「嬉しいねぇ。私は悟君のファンだからね。約束だよ。」 そう言ってトヨお婆ちゃんは細い目を片目だけパチッと閉じてウインクし、ポコを連れて散歩の続きをしに公園へと消えて行った。 悟はクスッと笑ってトヨお婆ちゃんを見送った。 でも、その後で、何かを思いついたようにハッとして、トヨお婆ちゃんを追いかけて公園内へと走っていく。 「トヨ婆ちゃん!!」 トヨお婆ちゃんはまだ入口付近にいてすぐに追いついた。 「どうしたんだい?」 悟の真剣な様子に少々驚く。 「さっき言ってた人って、香水の匂いした?」 「え?…ああ。良い匂いがしていたよ。それがどうしたんだい?」 「あ、ううん。何でもないんだ。ありがと。」 キョトンとしているトヨお婆ちゃんにお礼を言って、悟は花壇へと歩いていく。 <交通事故のことを尋ねた男> ある可能性を感じトヨお婆ちゃんに香水のことを聞いたのだ。 悟は足を止める。 悟の足元をウロウロしていたクロが、どうしたのかと思い悟の顔を見上げる。 「まさか、その男が、轢き逃げ犯本人ってことは…。」 否定しきれないものを感じながら、先ほどまでの高揚感に新たに緊張感が加わった。 日も暮れかかり、夕日が立ち並ぶビルを赤く染める。 「お先に失礼します。」 野口は終業時間を迎えると、早々に事務所を後にした。 退社後、急いで自宅へと帰る。 帰宅し、すぐに身支度にかかった。 いつもは着ないような派手な色彩と柄の入った長袖のシャツを着て、Gパンを履く。ラフな格好だ。 かなり蒸し暑かったが、長袖を選んだのには理由がある。 <もみ合った時、引っ掻かれたりしたら相手の爪に証拠が残っちまうからな> 血や皮膚が相手の爪に残るのを恐れた。 黒ぶちの伊達メガネをかけ、セットしていた髪を崩し野球帽を被り準備万端。 これだけでずいぶんと印象が変わる。 鞄から、購入したナイフ取り出し、皮の手袋と共にハンドポーチへと入れる。 野口は、事故の目撃者、『笹山悟』を消すつもりでいた。 そうしなければ、自分の未来はないと思い、切迫していた。 予想外のトラブルが生じ、めっぽう気が弱くなり、平常心を失ってしまっている。 <とにかく笹山悟を消すんだ。でなきゃ俺は身の破滅だ> 野口は頭の中でこの言葉を何度も呪文のように唱えた。 ベッドに腰かけ、気持ちを落ち着かせようとタバコを吸う。 タバコを持つ手が小刻みに震えていた。 夜になるのを待ち、夜8時過ぎにマンションを出る。 笹山悟は夜まで横断歩道を見張っていると聞いていたが、具体的には何時頃までいるかはわからなかった。 でも、明るいうちは公園付近は人も多く通るだろう。夜になるのを待つしかなかった。 少々迷ったが、自分の車で、憩いの森公園へ向う。 <悟って子は俺に気が付くだろうか…> 顔を見られていることを前提に行動しようと決めている。 <とにかく、殺すか気絶させるかして瑞希の家に連れて行こう。瑞希への連絡は後からでいい> 色んなことを計算する余裕はなく、とにかく悟を捕らえることを最優先に考えていた。 何も知らずに見張りを続ける悟。 香水やタバコの匂いという、目印はあるものの、悟では、かなり傍に寄らないとわからないだろう。 クロの人の匂いを嗅ぎわける嗅覚だけが頼りだった。 夜9時を過ぎた。 悟の座っているすぐ脇に電灯が立っている。 その明かりの下でテスト勉強をしながらも、トヨお婆ちゃんが言った男のことを考えていた。 先ほど、気になって自宅に電話をしたが、それらしき男性からの連絡は入っていなかった。 <もし、轢き逃げ犯だとしたら、事故のことを嗅ぎまわってる俺の存在を知った時、どんな行動に出るだろうか> クロは悟の脇で大人しく伏せの体勢でいる。 昼間は賑わう公園だが、この時間になると立ち入る者は極端に減る。 それでも時折犬を連れている人やマラソンをしている者などが通る。 野口は、悟の許に着々と近付いていた。 車のハンドルを握り、憩いの森公園が近付くにつれ、事故当日のことを思い出す。 <見えてきた> 忌まわしい場所が現れた。 野口は車でいったん、憩いの森公園前を通り過ぎた。 その時、昼間老人が言っていた付近の花壇に、少年が座っていることが確認できた。 通り過ぎる瞬間、悟の顔を目に焼き付ける。人違いじゃすまされないからだ。 <本当にいやがる> 野口が忌々しそうに舌打ちする。 そのまま公園内にある駐車場へと車を停めた。 「…クロ。どうした?」 悟はクロに声をかけた。 大人しく伏せていたクロが顔を上げ、ピクンと何かに反応したからだ。 クロはしばらく道路を眺めていたが、<気のせい?>とでも言いたげに首を傾げた後、再び伏せの体勢に戻る。 <何でもないのか> 悟は肩を竦めて、その後、腕時計を見る。 「もう9時半か。」 いつもより遅い時刻になるが、何かが起こるような気がして、もう少し粘ってみようという気持ちを抑えられなかった。 と、クロが再び顔を上げ、むくりと立ち上がる。 宙を嗅ぎ回るように頭を上に向け、鼻をヒクヒクさせる。 「クロ?」 クロは悟の声に反応し、視線を向けるが、再び忙しなく鼻先を動かしている。 ピョンと花壇から飛び降り、小走りに走り出す。 <もしかして…> 悟も素早く花壇から降りてクロの後を追う。 クロは途中で立ち止まり、公園内へと視線を向けていた。 そこはちょうど公園への入り口がある場所だった。 クロはちゃんと悟が追ってきていることを確認し、タタっと駆け出し公園内へと入り込んでしまう。 悟も慌ててクロを追い、公園へ足を踏み入れる。 クロは既に10メートルほど先にいて、しきりに辺りの匂いを嗅いでいる。 夜風が強く吹き、木々をざわめかせる。 「轢き逃げ犯がここにいるのか?」 小さな声で考えを言葉にしてみる。 すると悟の中で真実味が増してきた。 公園内はほとんど人気がなく、家路を急ぐサラリーマンが2人見えただけだった。 電灯はあるものの、夜の暗闇と木や茂みの深い緑が余計に緊張感を与える。 悟は期待と不安を抱え、クロの許へ駆け寄る。 「クロ。お前に任せるから、俺をそいつの許に案内してくれ。」 自分を見上げるクロにそっと囁く。 すると、まるで「了解!」とでも言いたげに「わんっ!」と鳴いて、再び匂いを嗅ぎながら辺りを動き回り少しずつ歩く。 悟はクロの後を付いて行きながら、注意深く人の気配を探す。 <もしあの香水を付けてれば、近くに寄った時俺にでもわかる> 「どこにいるんだ?」 悟は小さな声で呟いた。 |
2002.7.24 ⇒