| 「野口さん、野口さん、どうしたんですか?」 肩を叩かれて、野口はハッとする。 後輩の男性社員がキョトンとして自分を見つめていた。 「会議が始まりますよ。そろそろ行かないと…。」 「あ、悪い。ちょっとボーっとしていた。」 「結婚が決まって幸せだからって、しっかりして下さいね。」 後輩がクスクス笑う。 「ああ。」 野口は苦笑いする。 席を立ち、後輩と共に会議室へ向うが…その途中、不意に不安が過ぎる。 事故現場から逃げた時の風景。 <誰もいないことを確認した> <そうだ。ちゃんと確認した。誰もいなかった>…そう頭の中で繰り返したが、いったん気にしてしまうと不安がどんどん膨らんでいく。 夜の闇に包まれた視界。 空気に雨のカーテンがかかっていた。 冷静さを欠いた自分。 事故直後の状況や自分のことを思い出せば思い出すほど記憶が目隠しされる。 <大丈夫だ。ニュースや新聞をちゃんとチェックしている。事故のことはバレていない> <事故現場の血だって雨に流されたはずだ>…何度も頭の中で言い聞かす。 <でも…血痕が消える前にあの横断歩道に通りかかった人間がいたとしたら…?> ドクンと心臓が焦りで痛む。 <もしそうだとしても、犬でも轢かれたんだろって思ってくれるさ!事実あれは犬の血だ> 不安の種を自分で撒き、必死で取り除く。 野口は混乱していた。 会議内容は、野口の耳を素通りして行った…。 6月27日(木) 午前中、野口は客先回りの途中、寄り道をして事故現場へと向った。 昨夜一晩中、気になって眠れなかったのだ。 誰にも見られていなかったという確証と安心感が欲しかった。 事故現場へ再び足を運ぶのは危険かとも思ったが、気持ちを抑えられなかった。 タクシーで憩いの森公園まで乗りつけ、例の横断歩道より少し手前で降ろしてもらう。 鞄を右手に持ち、横断歩道の前に立ってみた。 事故の痕跡など何もない。 事故のことを尋ねる張り紙などもなく、ひとまず野口を安心させる。 事故を起こした車は、傷は付いていたが欠けた部分などはなかった。 その傷を修理する為、わざと電柱に軽くぶつけヘコませて修理もしたし、事故を示す痕跡はどこにも存在しない。 <だいたい、死体は瑞希の家の床下だ。発見されるわけがない> 様々な不安を解消する為、一つ一つ確認するように思い起こす。 <やっぱり…心配のし過ぎだな> ホッと安堵のため息をつき、微笑む。 その時、横断歩道の対面側から、腰の曲がったお婆ちゃんがのろのろと渡って来る。 足元に、体の小さな小型犬、チワワを纏わり付かせている。 と、車が近づいて来るのが見え、気分の良くなっていた野口は、親切心から横断歩道に足を踏み入れ、お婆ちゃんの許へと駆け出す。 傍に寄り添い、車に向って手を上げ、人がいることを教える。 車は静かに停まった。 「おや、ありがとうね。」 お婆ちゃんが野口にお礼を言う。微笑んだので細い目がシワの中へ隠れてしまう。 「いえ。あ、チワワですか?可愛いですね。」 野口は視線をチワワに向け、話題を提供する。 それから、他愛のない会話をしながら、お婆ちゃんに手を貸し横断歩道を渡りきる。 歩道まで辿りつき、お婆ちゃんはもう一度お礼を言って頭を下げた。 「お世話になったねぇ。」 「いえ。じゃあ私はこれで。」 そう言って立ち去ろうとした時、気の大きくなっていた野口は不意に言葉が出てしまう。 これは野口にとって余計な一言だったのかもしれない。 「…あの、あなたはこの道を良く通るんですが? 「そうだねぇ。日に3回は通るかねえ。」 「ちょっとお尋ねしたいことがあるんですが…。」 「何だい?」 「最近、この横断歩道で交通事故があったって話…聞いたことありませんか?」 すぐに否定の言葉が返ってくると信じ込んでいた。 そして、実際返事はその通りだった。 「そんな話は聞かないねぇ。」 「そうですか。」 <はは。やっぱり心配のし過ぎだ!近所に住んでる人間が言ってるんだから間違いないだろ> 野口の心が先ほどよりもっと軽くなる。 …が、お婆ちゃんの次の言葉が野口の気持ちを一瞬で凍らせる。 「でも、偶然だねぇ。お兄さんも悟くんも同じことを聞くなんて。」 「…え?」 「いやね、お兄さんの他にもこの横断歩道で最近事故がなかったかって聞いてきた子がいるんだよ。」 野口の心臓が縮み上がる。 <…何だって?> 「そ、その子もここで事故があったかどうかと聞いてきたんですか?」 「うん。何でもいいから知っていたら教えてくれって。他の人にも聞いているみたいだったよ。」 野口は地面が揺れたような感覚に陥るくらい、激しいショックを受ける。 「その子はどんな子なんですか?」 動揺する気持ちを必死で隠し、平静を装って尋ねる。 「綺麗な顔した少年だよ。高校生だって言ってたねぇ。名前は笹山悟君って言ったよ。とても人懐こい子だ。」 「いつその子と会ったんですか?」 「ここ5日間毎日だよ。ほれ、あそこの花壇で夕方から夜までずっと座ってるんだ。きっと今日も来るよ。」 野口は、お婆ちゃんが指差した方へと視線を向ける。 横断歩道から少し離れた場所だ。 ここを見張るのにはちょうどいい位置…。 「…その子は他に何か言っていませんでしたか?」 お婆ちゃんはちょっと考え込むようにして、ハッとしたように目を見開いた。 「人を探してるって言ってたよ。」 「…人?」 「3人の人を探してるって。事故と人探し、いったい何の関連があるのかわからんがね。」 <3人?> 野口は懸命に想像力を働かせる。 <3人…あの爺さんと、少年と…あと1人って> 自分の心音が聞こえて来そうなほどの緊迫感で身体が硬くなる。 <あと1人って、俺のことか?> 野口はゾクッと背筋が寒くなる。 「その少年は笹山悟君って言うんですね?」 「そうだよ。このポコの友達なんだよ。」 お婆ちゃんが足元のチワワを見ながら嬉しそうに言った。 その後、何かに気が付いたように顔を上げ、野口に詰め寄る。 「お兄さん、もしかして事故のこと何か知っているのかい?」 「え?…あの…。」 野口が言葉を詰まらせているうちに、お婆ちゃんはどんどん話を進めていく。 「何か知っているなら悟君に教えてあげて。どんな些細なことでも知りたいと言っていたからね。」 そう言ってポケットの中から小さな紙切れを取り出し野口に差し出した。 紙には電話番号が書かれていた。 野口は紙を受け取り、書かれた数字に釘付けになる。 「これはその子の家の電話番号ですか?」 「そうだよ。」 「…わかりました。」 野口は内ポケットから手帳を取り出し素早く番号を書き記す。 そしてメモを返し、微笑む。 「必ず電話します。」 そう言った後、おばあちゃんに背を向け歩き出す。 早足でその場から逃げ出すように遠ざかる。 <見られたんだ!!> 野口の頭の中では、もう悟は事故の目撃者だと決め付けられていた。 <間違いない!その悟という少年は、あの日事故を何処からか見ていたんだ!!> 野口は、公園が見えなくなるくらいの距離をいつの間にか歩いていた。 <でも、待て。落ち着いて考えろ…。だったら何でそいつは警察に届けないんだ?> 事故は表沙汰にはなっていない、それは確かだった。 足を止め、冷静に考える。 <何が目的なんだ…?> 野口は必死に考える。 少年は人を探していると言った。 <被害者の知り合いなのか?> でも、それならなお更、何故警察に届け出ないのかが不思議でならなかった。 <…言っても信じてもらえなかったのか?> それも不自然だった。事故現場にいたならば、車のナンバーを確認することだって出来たし、警察を呼ぶことだって可能だったはずだ。 しかし、いくら考えても少年の真意などわかるはずもない。 ましてや、その少年が被害者の飼っていた犬の幽霊から事故のことを知ったなど、想像できないのも無理はない。 実際、悟は事故現場にはいなかったので、目撃者として不自然な点がいくつもあって仕方がないわけで…。 「いずれにせよ、その悟って奴を放っておくわけにはいかない…。」 野口は、自分でも聞き取れないくらいの小さな声で、うわ言のように呟いた…。 この時悟は、こんなことになっているとは露知らず、クラスメートと呑気に過ごしていた。 クロも悟の足元でくつろいでいる。 「なあ、笹山。お前さ、最近隣のクラスの中山と仲良いよな。」 授業の合間の休憩時間に、悟が席でぼんやりしていると、クラスの友人、加賀直人が興味津々って笑顔を貼り付けて尋ねた。 直人は気の良い奴だが、少々噂好きでおしゃべりだった。 「何で知ってるんだ?」 悟はキョトンとした。 「だってこの前中山と帰っていくの見たぞ!白状しろよ!」 「友達だよ。中山にとってはね。」 「意味深な言い方だな。」 「だって俺は、あいつのこと友達としてじゃない意味で好きだもん。」 悟があまりにもあっさり白状するんで、直人も気が抜けてしまった。 「…もう少し聞き出すまでに粘られた方が尋問のしがいがあるんだけど。つまんねー奴だな。」 「そんなの知るかよ。」 我侭な友人を悟は軽く睨んだ。 直人は肩を竦めた後、気を取り直したように笑顔になる。 「笹山の方から誰かを好きになるなんて、俺が知る限り初めてだな。」 「そういえばそうかな。」 「俺さ、今少しホッとしてる。」 「え?」 「お前ってさ。羨ましいくらい女にモテるじゃん。告白された時フリーなら即付き合って、で、すぐ振られて。」 <悪かったな。振られ大王で> 心の中で文句をタレる。 「でもさ、相手の女も本気に見えなかったけど、お前もはしゃいではいるものの、なんか本気には見えなかったんだ。」 「それって相手の女にも俺にも失礼な言い方だな。」 そう言いながら、苦笑いする。 実際、図星を突かれたからだ。 春香に出会うまではわからなかった。 確かにいつも悟なりに真剣だと思っていた。 でも、『愛しい』という気持ちより、女の子という存在に対し、好奇心とHへの興味の方が強かったように思う。 そのことに気が付いてしまったのだ。 でも、まあ、悟の恋愛は、いつも何の進展もないまま振られていたので、キスすら未経験だったりする。 直人は悟の肩にポンッと手を乗せる。 「お前が片思いしてるなんてなぁ。俺、応援するよ。」 <なーんか引っかかる言い方だな> とは思ったものの、応援してくれるってんなら素直にその気持ちを受け取ろうと思う。 「ありがとう。せいぜい応援してくれよな。」 「ああ。で、さっそくなんだけど…。」 「何だよ。」 「一つ気になることがあるんだ。」 直人の表情が曇る。 「中山さんって、あまり良い噂聞かないんだよね。性格が悪いとか、陰であの川田尚也と付き合ってるとか言われてる。」 悟は即座に『不愉快』って表情を作る。 それを察し、直人は慌てて言葉を付け足す。 「俺はあの子のこと良く知らないし、噂なんかで先入観持つつもりはないぜ!俺が言いたいのは、その噂の出所なんだ。」 「国井里美、って奴だろ?」 「…何だよ。知ってたのか。」 「ああ。」 「その国井里美がさ、昨日お前と中山さんがお昼休みが終わる時、廊下を連れ立って歩いているのを凄い形相で睨んでたぜ。」 「何だって?」 「俺、偶然見ちゃったんだけど、凄く恐かった。」 悟はため息をついた。 <腹の立つ奴だな> 里美が、どうして春香に対し、そこまで執拗に敵意を向けるのか、悟にはまったく理解できなかった。 クロは、悟の不機嫌な顔に気が付き、少しだけ顔を上げ、首を傾げていた…。 |
2002.7.13 ⇒
| さて、これは、悟にとってのピンチなのか、野口にとってのピンチなのか…。 |