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 6月26日(水)
「クロちゃんに体を乗っ取られた?」
 昨晩の出来事を聞いた春香は、目をまるくして驚いた。
「うん。もうビックリだよ。」
 悟はお弁当のエビフライを口に運びながら言った。
 クロは呑気に芝生の上でゴロンと寝転んでいる。
 今日は好く晴れていて、ポカポカした日向がクロには心地いい…らしい。
 
 ここは『秘密の場所』だ。
 お昼休み、悟は春香とここで一緒にご飯を食べることにした。
 『轢逃げ犯捕獲作戦』の報告と今後の対策を随時練るためだ。

「これで事故が実際にあった事実であることは間違いない。その事故でクロが死に、鍋島さんが巻き込まれたことも確実だ。…それに、もう一人、轢逃げ犯とは別の誰かがその場にいたことも確かだ。そいつの匂いを感じた時、好意しか湧いてこなかった。だからきっとクロの大好きな奴だよ。」
「その匂い…。川田先輩なのかな。」
「俺はそう思う。」

 断言する悟。春香は青い顔をして手にしていたお弁当箱を膝に置いた。
「無事なのかな…。」
「きっと無事だよ。鍋島さんの声は聞こえ続けていた。だから川田先輩だってきっと無事だよ。」
 もちろん、悟がいくら楽天的だといっても、自分の言っている『無事』って言葉に何の根拠もないことはわかっている。
 でも、無事を信じて先に突き進まなきゃ何も始まらないと思っていた。

 悟は少し張り詰めた雰囲気になってしまった場を何とか活気付かせようと話を続ける。


「それでさ、さっきも話した通り、犯人の顔はわからなくても匂いで見つけることが出来ると思う。」
「そっか、そうよね!クロちゃんワンちゃんだものね。匂いに強いわけだものね。」
「あとはあの場所に犯人さえ現れてくれれば大収穫なのに!」
「今日も見張るの?」
「当然。」
「あの…私も行っちゃダメ?」
「ダメ。」

 悟の言葉に、春香は不服そうに心もち頬を膨らます。
 その顔が、なんとも言えず可愛くて、悟は思わず見惚れた後、慌てて口を開いた。
 そう、今春香はその表情で抗議をしているのだ。

「…怒った?」
「怒ってない。でも少しくらい手伝いたい。」
「だって、ただずーーーっと、ひたすら待っているだけだぜ?それに、轢逃げ犯が事故現場のことが気になって現れる可能性あるんだし、絶対ダメ。」
 犯人が、何か事故の痕跡を残してないかと疑心暗鬼になって再び現場に戻ってくる、その、あるかないかの可能性を願って見張っているわけだ。ほんの少しでも春香を危険な目に遭わせたくはなかった。
「……。」
 春香にだってわかっていた。
 クロを見ることのできない自分が、何も出来ないことを知っていた。
 それでも何か手伝いがしたかった。
<…あ>
 春香が何かを思いついたように顔を上げた。

「笹山君。テスト勉強どうしているの?」

 ぎくん!
 悟は苦笑いしながら頭をかいた。
「一応見張りながら教科書広げてる。」
 そうなのだ。来週から期末テストが始まる。
 悟も見張りをしながら、勉強をしていたが、やはり思うようには進まない。

「じゃあ、私、見やすいようにノートにまとめてあげる。」
「え?」
「それくらいやらせて!」
 身を乗り出して言う春香。
 春香の申し出は悟にとってもありがたいものだった。

「ありがとう。じゃあ、頼む。」
「うん。さっそく明日までに初日の教科から順に作ってくるね。」
 そう言ってニッコリと微笑む春香。

<か…可愛い>
 悟は、今すぐ持って帰りたくなるような笑顔を見せられ、体が固まってしまった…。

 寝転んでいたクロが、ヒョコッと頭だけ上げて、悟に目を向けた。
<なぁに?何か嬉しいことでもあるの?僕も混ぜてくれるの?>というような瞳で見ていた。

 放課後。
 悟はやる気満々で事故現場へと足を運ぶ。
 クロはバスに乗るのは相変わらず嫌がったが、段々慣れてきた様で酔いも軽くなってきた。
 憩いの森公園は公園内を囲うように花壇になっている部分が多い。
 幅が20cmくらい、高さは膝丈くらいの囲い部分はレンガで出来ている、立派な花壇だ。
 横断歩道付近の公園の囲いも花壇だった。
 悟は現場から10メートルほど離れた所の花壇に座り、教科書を広げている。
 クロにとっての恐い場所。前より怯えなくなってきたものの、事故の恐怖は忘れられない。
 悟は気を使って少し離れた場所を選んでいるし、気を紛らわす為に話しかけてもいた。
 まあ、テスト勉強がてら、クロに英語の単語を聞かせたりとか、そんな感じだ。

 見張りを続けて5日目。
 悟はだんだん、この憩いの森公園での『アイドル』になりつつあった。
 アイドルと言っても、もっぱら犬を通してのアイドルだ。
 憩いの森公園で愛犬を散歩させる飼い主は多い。大きな公園なので緑は多いしのびのびと出来て気持ちがいい。
 散歩中の犬たちが公園に入る前に悟のいる場所へ通りかかり、嬉しそうに寄って行き懐く。
 愛犬が悟からなかなか離れないので、飼い主も悟に話しかけ、すぐに仲良くなるのだ。

<そりゃ時には嫉妬されて睨まれる時もあるのだけどね>
 言葉使いは少々乱暴だけど、明るく人懐こい悟は、特に年配の女性に人気があった。

「さ・と・るくん、こんにちは。」
 言葉を区切りながら、のんびりと悟の名を呼ぶ人物。
 背中の曲がったお婆ちゃんが、細い目を更に細くして話しかけて来た。
 足元にはチワワが纏わりつきながらお婆ちゃんのゆっくりとした歩調に合わせて歩いている。
 チワワの名前はポコ。
 悟の姿を見た途端、ポコは駆け寄って来る。
 悟は花壇から降りて、しゃがむ。
「よう!ポコ。元気か?トヨ婆ちゃん、これから買い物?足の具合どう?」
 ポコを撫でまくりながらお婆ちゃんにもご挨拶。
 クロも一生懸命ポコとトヨお婆ちゃんに尻尾を振るが、当然気が付いてもらえない。

「今日は足、あまり痛くないよ。」
「このまま調子良いといいね。」
「ありがとね。」
 その後、お婆ちゃんは少しだけ目を見開いた。
「そうだそうだ、悟君が一昨日言ってた話。あの場所で車の事故があったかどうかご近所さんに聞いてみたけどねぇ。誰も知らなかったよ。」
 トヨお婆ちゃんは横断歩道をチラッと見てから言った。
「そっか。ありがとう。」
 悟は、ここで仲良くなった犬の飼い主さんに、さりげなく事故のことを聞いていた。
 もしかしたら、目撃者とまではいかなくても、何か手がかりになるようなことに気が付いた人がいるかもしれないと思ったからだ。

「どんな些細なことでもいいからさ、何か気が付いたら電話してね。」
「はいはい。」
 悟は特に仲良くなった飼い主さんには自宅の電話番号を教えていた。

「でも、悟くん。いったい何を調べてるんだい?」
「ちょっとね。人を探しているんだ。」
「人?」
「うん。3人ほどね…。」
 お婆ちゃんは意味がわからず、しきりに首を傾げていた。
 一人は鍋島、もう一人は尚也…そして最後の一人は、轢逃げ犯。

<轢逃げ犯の野郎。どこにいやがるんだ?>
 …悟が追っている轢逃げ犯は今、オフィス街の中にいた。

 A商事(株)の本社ビル。
 その2階に、営業部がある。

「野口さん、独身生活満喫できるのもあとわずかですね。」
 女子社員が麦茶の入ったグラスをデスクに置き、微笑んだ。
「ああ。結婚式、11月に決まったんだ。」
 野口はイスに座り、余裕の笑みを浮かべた。
 手に取ったグラスの中の氷がカランと音を立てた。

2002.7.7 

いよいよ轢き逃げ犯登場!