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『クロ。』
名前を呼ばれると、嬉しいって心が踊り出す

『クロ、良い子だ。』
そう言って頭を撫でてくれると、とても誇らしい気持ちになる
飛び跳ね、体全体で<好き>って伝えたい

クロにとっては、最愛の人の声、少しゴツイ手、怒るとちょっぴり恐い顔、自分を見つめる優しい瞳
…それが全てだった
嬉しさも悲しさも、全てその人と共にあった

最期まで自分の名を呼び続けてくれた人の傍に、どうしても辿り着かなきゃと思う

例え、この足が動かなくても
例え、この声を聞かせることができなくても
例え、尻尾を振ることができなくても…




どっぐきゅ〜ぴっと


3章 危険な香り




6月25日(火)
 悟は、この日も憩いの森公園前で夜まで見張っていて、疲れきって帰宅した。
 今日も何も情報は得られなかった。
 廊下を歩いていくと、キッチンから母親の満子がひょこっと顔を出した。
「悟、ご飯食べるんだろ?」
「あ、うん。」
「まったく!こんなに遅くまで何やってんだかねー。片付きゃしないわ。」
「ごめん。」
 悟は素直に謝った。

「なんてね。面倒臭いからお弁当に詰めちゃってんのよ、夕食。父さんの分もそうしちゃった。」
 満子はニコッと笑ってテーブルの上にお弁当箱を置いた。

「父さんと姉さんもまだ帰ってないの?」
「うん。父さんは残業。美穂は外食。友達と買い物してくるみたい。」
 美穂とは、悟の姉の名前だ。現在新人OL。
 悟の母親、満子は明るい楽天家で放任主義だ。スタイルも良くて、とても美人だったりする。
 ただ、少々(?)言葉使いが乱暴で、行動が大雑把。…悟と美穂も、外見と性格、両方とも満子の血を色濃く受け継いでいるようだ。
 満子はめったなことでは子供達の行動に口出ししない。
 父親もそうなのだが、普段は口出ししない代わりに、いったん悟や美穂が何かしでかした時には烈火のごとく怒る時もある。
 でも、まあ、悟も美穂も、信頼されているとわかっているから、それを裏切るようなことだけは出来ないと肝に銘じている。

「お茶入れるからとっとと食べちゃって。」
「うん。」
 悟は食卓に着いた。
 クロも大人しく悟の足元で伏せのポーズになる。
 と、その時、玄関から明るい声が聞こえた。

「ただいまーー♪」
 美穂の声だ。

「どうやらご機嫌なようだねぇ。」
 満子が呆れながらもため息混じりに微笑んだ。

「おー!可愛い弟よ!」
 少し酔っているようで、陽気な笑顔を振り撒きながら食卓に現れた。
 その瞬間、悟とクロに異変が起きた…。
 クロが飛び起き、興奮気味に唸った。
 そして悟は金縛りに遭ったように動けなくなる。

<香り…。
嗅覚を刺激する、爽やかな香りと少しだけ甘い香りがする…>

『クロ…クロ…。』
<…え?>
 悟の頭に、直接語りかけてくる、声。
 かなり年配の、男性の声のようだ。
 切なくて弱々しい声。
 クロのことを呼ぶ声なのに、悟の心は激しく高揚し、焦り、切なさで胸が締め付けられる。
 胸を押さえ、ゆっくりと足元のクロへと視線を落とす。
 だが、クロの姿はなかった。
 でも、クロは確かに悟の傍にいる。
 いつもより、ずっと傍に…。

<俺の中にいるのか…?>
 そう想いが至った時、悟の体を激しい痛みが襲う。


<何だよ!これ!!>
 悟を襲った奇妙な感覚。
 自分の体、自分の五感のはずなのに、誰かに乗っ取られてしまったような感覚に捕らわれる。
 心さえも支配された感覚。
 苦しくて、ギュッと目を瞑る。
 まるで全裸で外に放り出されたように、自分の肌を湿った空気が包み込んでいくような気がした。

『クロぉ……クロ…大丈夫か…?…ここへ来てくれ…。』

 また俺を呼ぶ声がする…。
 立たなきゃ。
 行かなきゃ。
 自分を呼んでいる、大好きな人の声に応えなきゃ。
 必死になって目を開けると、濡れたアスファルトが間近に見えた。
 雨の匂いがした。

<俺、道路の上に寝転んでいるのか…?>
 漠然とそう理解する。
 他に見えたのは、車のライトと夜の闇。
 そして、視界は全て白黒だった。

『クロ…。』

 ああそうだ…。
 行かなきゃ。
 傍に行かなきゃ。
 心配させちゃいけない。
 悲しい思いをさせちゃいけない。
 元気に尻尾を振って、頭を撫でてもらうんだ。

 でも、体が痛くて立ち上がれない。
 必死で足を動かそうとするけれど、その度に激痛が走る。
 行きたいのに!
 傍に行きたいのに!
 いつものようにすぐに駆け寄って応えたいのに!
 尻尾すら少ししか動かせない自分に苛立ち、口惜しくて泣きたくなる。
 顔を持上げることも出来ず、声の方に視線を向けることも出来ない。
 ご主人様の姿すら、見ることが出来ない。

 息をする度、血の匂いがする。
 その中に混じって、人の匂いがした。
 一つは最愛のご主人様の匂い。
 そして…もう一つの匂いは…大好きな友達の匂いだ。

 バタン!
 …車のドアが開き、閉められた音がした…。
 それに、足音がする。
 俺のすぐ近くで、ウロウロと歩き回る音。

『…な…何で俺が…ちくしょう!!こいつらが悪いんだ!俺の所為じゃない!』
 知らない男の声が頭上から聞こえた。
 とてもうろたえた、小さな声。
 男の姿は見えなかったけれど、嗅覚が色んなことを教えてくれた。
 確かに感じ取れる。知らない人の匂い。
 タバコの匂い。
 石鹸の匂い。
 それに…ハーブのような香りと、少し甘い匂い…何の匂いだ?


『クロ…。』
 俺を呼ぶ声に、せめて鳴き声で答えようと必死に声帯を鳴らそうと空気を出す。
『くぅ〜ん…。』
『うるさいんだよ!クソ犬が!』
 男の低い、苛立った声。

 もっと声を出そうとするが、息を吸い込むことも出来なくて。
 もう、声も出せない。
 息もできない…。

 段々視界が霞み、暗闇に落ちて行くのがわかる…。

『クロ…。』
 ああ、待ってて、今傍に行くから…。

 俺は最後まで愛しい人の声を追い求めていた…。



「…とる!!」

<…誰かが呼んでる…でも俺はクロ…『とる』じゃねーよ>

「悟!!」
 ペシッ!!
 悟の頬に衝撃があり、次にヒリヒリと痛み出す。
<ああ…頬を叩かれたんだ>
 そう思い、ハタと気が付く。
<そうだ。俺の名前はクロじゃない!悟だよ>
 唐突に、その当たり前なことに気が付くと、視界が暗闇からいきなり見慣れた食卓へと変わる。
 体の痛みも嘘のように消えていた。
 そして目の前にあったのは美穂の血相を変えた顔。
 まるでキスでもしそうなほどの至近距離だった。

「うわ!!何だよ!ねーちゃん!!気色悪いな!」
 咄嗟に言ってしまった言葉。
 美穂のこめかみ付近がピクリと反応し、青筋を立てる。

<あ、ヤバっ!>
 と、思った時には時既に遅し。思い切りデコピンを食らわされた。

「痛ってーなー!」
「あんたが悪い!!人が心配してやってんのに!!」
「心配?」
 キョトンとする。
<何を心配してんだ?>って感じで首を傾げる。
「…あんた自覚ないの?」
 美穂は驚いたように悟を見つめた。
 満子も心配そうな視線を向けていた。

「悟…。あんた美穂が現れるなり、いきなり固まったように動かなくなって、目は焦点定まらずに虚ろになるし、いくら話しかけても反応しないし…挙句の果てに滝のように涙零すし…。大丈夫かい?」
 満子の言葉を聞いて、悟は目許に手を持って行って確認。
<あ、本当だ>
 視界がぼやけているのと、頬が思い切り濡れていたのとで、かなり派手に泣いていたのがわかる。
 でもその涙、自分自身の感情が流した涙じゃないと思った。
 まるで短い夢の中で誰か違う人物になっていたような気がした。

<…クロ…そうだ!クロって呼ばれていた!!>
 ハッとそのことを思い出し、足元に視線を落とす。
 と、今度はちゃんとクロの姿があった。
 クロも何だか朦朧としていた。
 でも、鼻をしきりにヒクヒクさせ、美穂の方を見て、何かを気にしている。
 匂いが気になるらしい。
 警戒心を露にしている。

<…俺、さっきクロに体を乗っ取られていたんだ>
 そのことを理解し、先ほど悟が体験したことは、全てクロの記憶なのだと気が付いた。
 ガタンっ!
 悟は席を立ち、傍で立っていた美穂に詰め寄る。

「な、何よ!」
 美穂が驚いて目をまるくするが、悟は構わずに美穂の体に鼻を近付け、クンクンと匂いを嗅ぐ。
 すると、美穂の左手からほのかに香る、匂い。
<香水だ!>
 悟は美穂の手を取り、思い切り匂いを嗅ぐ。
 先ほど感じた匂いと同じだ。ハーブのような葉っぱの香りと、少しだけ甘い匂い。

「ちょっと!何なのよ、気持ち悪いわね!!」
 美穂は後退るが、悟は肩をガシっと掴み、興奮気味に尋ねる。

「姉ちゃん!この、この香水、何?」
「え?ああ、明日、宮路さんにプレゼントしてあげようと思って。」
 悟の迫力に押され気味の美穂。
「宮路さん、香水一つも持ってないって言ってたからプレゼントするの。買う前に、試しに付けてみたの。」
 宮路さんとは、美穂と同じ会社に勤める同期の男性で、現在良いお付き合いをしている真っ最中だそうだ。
 美穂曰く、カッコイイのに服や髪型、振る舞いが無頓着でボーっとしているので、これからどんどん美穂好みに改造し、自分色に染めていくそうだ。
 この香水もその『改造計画』の一環なのだろう。
 宮路は自分から香水など付けるような男じゃない。


「それって男物の香水?見せて!見せて!」
「ダメよ!プレゼントなんだから。」
「頼むよ!」
「仕方ないわね…。」
 美穂はブツブツ言いながらも鞄の中から小さな箱を取り出した。
 そして、慎重に包装を解き、箱の中から小瓶を取り出す。
 綺麗なブルーの小瓶だった。

 悟は手に取り、蓋を開け、スプレーで香りを試す。
 宙に舞う新鮮な香水の香り。

「間違いない。この匂いだ…。」
 悟が呟く様に言うと、美穂がいきなり悪戯っぽい笑み浮かべる。

「わかった!悟ってば、それ付けて好きな子の気を引こうと思ってんでしょ?これ、今人気の香水だからね。」
「へ?」
「やあねー。まずは中身で勝負しなさいよね。」
 そう言って美穂は悟の手から小瓶を奪い、鼻歌を歌いながら2階の自分の部屋へと消えて行った。

「違うっつーの!」
<俺に言ってることと、彼氏にやってることが全然違うじゃねーかよ>
 悟はムッとしていると、今度は満子がニヤリと笑い、悟の肩をポンッと叩く。

「なーんだ。色気付いてただけなのね。でも泣くなんて情けないねぇ。片想いくらい何でもないだろ?香水なんてもんに頼らずとっとと告白しちゃいなさい。振られるのには慣れてんだろ?恐いもんないじゃないか。」
 そう言い残し、居間へと姿を消した。

「だから違うってば…。」
 悟はヘナヘナと力なくしゃがみ、ペタンとお尻を付けて床に座った。
 すると、クロがタタタ、っと駆け寄って来る。

「クロ。」
「くぅーん…。」
 悟は、先ほど五感で感じ、見たものは、クロが体験した事故直後の光景だと確信した。
 雨で湿ったアスファルト。
 体中を襲う、激痛。
 クロの名を呼ぶ男性の声。
 その声を聞いた時、心が愛しさにかき乱された。
 そして、匂い。
<鍋島さんの匂いの他に、誰かそこにいた。轢逃げ犯とは別の誰かの…クロの大好きな誰かの匂いなんだ>
 それはきっと尚也だと思った。

 これではっきりとしたことは、クロの飼い主が事故に巻き込まれているということ。
 尚也らしき人物も、同じ事故に遭っているということ。
 …そして、轢逃げ犯が男性だということ。
 クロを通して悟の聴覚、嗅覚に焼き付いた、轢逃げ犯の声と匂い。
 犯人はあの香水を使ってる男。
 人気の商品だ。愛用者も多勢いるだろうが…。
<顔は見ていないけど、クロは確実に轢逃げ犯を嗅ぎ分けることが出来る>
 そう思った。香水以外の匂いも総合して、クロならきっと見つけてくれるはずだと思う。
<とりあえず、ねーちゃんの彼氏は違うな>
 クスッと笑う。

「クロ、お前、俺に乗り移ったな?」
 事故当時嗅いだ匂いに触れ、触発され、興奮して思わず悟の心に入り込んできたのだろう。
 乗っ取られていた最中はやたら嗅覚が発達していたような気がした。

「くぅーん。」
 クロはどうやら無意識に体を乗っ取ってしまたようで、申し訳なさそうに鳴く。
 悟は優しい眼差しでクロを見つめ、そっと囁く。

「お前、鍋島さんのことが大好きだったんだな…。」
<だから、死んだ後も何とか事故のことを伝えようと、さ迷ってたんだ>
 自分の姿に反応してくれる人間を探していた。
 そして悟の許へと行き着いた…悟はそう理解した。
 クロは何も言わず、尻尾を軽く振った。

 悟はニコッと笑い、その後、俯いて笑顔を消す。

「鍋島さん、きっと無事だよ…。川田先輩だってきっと無事だ。」
 クロが息絶える最期の瞬間まで、クロを呼ぶ鍋島の声は途切れることがなかった。
 だから、生きていると信じたかった。
<出来るだけ早く犯人に辿り着かないと…>
 悟は逸る気持ちを抱え、唇を噛んだ。
 無事ならば、一刻も早く鍋島と尚也のことを助けなければと思うからだ。
 今日も鍋島は家には帰っていなかった。
 帰りたくても帰れない状況に彼らは陥っている…そのことだけは確かだ。

「いいか、クロ。もし犯人がわかったら、俺に教えろよ!」
「わふん!!」

 …すでに鍋島がこの世の人ではないことを知らない悟とクロは可能性にかけていた。

2002.7.4 

3章スタート!!どうなることやら〜!!頑張るー。