戻る

 この日の夕方。
 尚也の傍で、サナが忙しなく動き回り何かを訴えていた。
 どうやら散歩に行きたいようだ。
 お腹がきゅるきゅる鳴っている。
<お腹壊してんのか?>
 尚也は焦ったが、瑞希は部屋にいない。
 夕食の準備で部屋から出て行ったきり、気配がしないことに気がついた。
 尚也は何度か呼んでみたが、返事はない。
 サナの方もだんだん切羽詰ってきているようで、尚也に切なげな瞳を向ける。

「待ってろ。今ご主人様呼んでくるから。」
 尚也は布団から這い出て、右足を庇いながらテーブルに手を付き、何とか立ち上がる。
 痛みに顔を顰め、よろけて身近な壁へ手を付く。
 壁伝いに何とか出口まで辿り着き、襖を開け、廊下に出ると、瑞希がいるはずの台所へと向う。
 時間がかかったが、台所へと無事到着した。
 サナもやっと外へ出られるんだと、飛び跳ねながら尚也に纏わり付く。
 …が。サナのピンチはまだ続くようだ。
 何故ならば。

「…お前のご主人様、熟睡しているぞ。」
 尚也の目に映ったのは、台所にあるテーブルで突っ伏したように寝ている瑞希の姿だった。
 安らかな寝息をたてている。

<気持ち良さそうに寝ているけど…>
「悪いけど起こすぞ。」
 そう呟いて壁伝いに傍へ行こうとした時、唐突に気が付いた。

 尚也は今、自分だけで移動ができた。
 台所の窓が目に映る。
 外からの光が射し込む…。

<そうだ…>
 今なら、逃げられる。
 今なら電話を探して警察へ連絡することも出来るのだ。

「くぅ〜ん…くぅ〜ん…。」

 サナの切なげな声も耳に入らず、凍りついたように固まっていた。

<迷うことなんかないのに>
 何故か、その場から動けなかった。
 何を迷っているのか、この時ははっきりとわからなかったが…。

 瑞希の寝顔が目に留まる。
 ふと、彼女の手の中に、白い便箋が見えた。

 尚也は突き動かされるように瑞希の傍へと必死で進んだ。
 普通に歩ければ、ほんの数秒で辿り着けるが、今の尚也ではとても難儀な道のりだった。

 やっとの思いで到着し、瑞希を起こさないように、彼女の手からそっと便箋を抜いた。
 3つ折にされたそれを広げ、書かれた文字を見て愕然とした。

    
鍋島さんを殺したのは私です。
私は車を運転中、不注意から人を撥ね、死なせてしまいました。
鍋島さんと言う方と、川田尚也君を撥ね、2人を病院にも連れて行かず車に乗せて、その場から逃げました。
鍋島さんの命を奪い、尚也君に怪我をさせたのは私です。
私がこの事故の犯人です。
その証拠に、鍋島さんの死体の場所を教えます。
私が彼の死体を埋めました。
家の1階、廊下を進んで突き当たりの部屋。その部屋の床板を外し、地面を掘ってその中に埋めました。
私のしたことは、決して許されないことだとわかっています。
けれど、恐くて恐くて、逃げてしまった。
助かったとはいえ、怪我で苦しむ川田尚也君を病院へも連れて行かず、監禁しました。
逃げることばかりを考えていたんです。恐かったんです。でも、もう疲れました。
だから、この罪を私の命で償います。
こんなことで償えるとは思っていません。
でも、これしか思いつきませんでした。
鍋島さん。ごめんなさい。
鍋島さんのご家族の方々、ごめんさい。
川田尚也君、ごめんなさい。

上村瑞希


 これは、明らかに瑞希の遺書だった。

<身代わりだ…>
 尚也は、一瞬で瑞希の意図を悟った。こんなことに騙されない。瑞希は轢逃げ犯じゃない。
<轢逃げ犯の身代わりになるつもりなんだ>
 瑞希は、尚也の足の怪我が治って、隙を見て逃げ出そうとしていても、留める気などなかったのだ。
 尚也のために、わざと逃げやすい状況だって作っていたかもしれない。
 当然、殺す気などなかったわけだ。
 代わりに、自ら命を絶つつもりでいた。
 尚也は犯人を見ていない。
 瑞希がいなくなれば、例え尚也が「轢逃げ犯は別にいる。」と訴え、それが警察で受け入れられても、犯人への道のりは遠くなるだろう。
 身をもって轢逃げ犯を庇おうとしている瑞希。

<あんた、馬鹿だ!>
 尚也は心の中で悲痛な叫びを上げ、遣る瀬ない眼差しで瑞希を見つめた。

 この手紙の内容が警察でそのまま通用するかどうかはわからない。

<瑞希さん、免許持ってんだな>
 でなければ、こんな手紙は信じてもらえないだろう。
 でも、尚也には『私は事故現場にはいなかった』と言っていた。
 肝心の、事故を起こした車の所在も手紙では一切触れられていない。
 瑞希が車を持っていたとしても、それは事故を起こした車じゃないのだろう。
 だから迂闊にそのことに関しては触れられないわけだ。
<それを訴えれば、即瑞希さんが犯人にされることはないとは思うけど…>

 いずれにせよ、他に目撃者がいなければ、轢逃げ犯まで辿り着けるかどうかはわからない。
 事故からかなりの日数が経っている。仮に車に事故を示す手がかりがあってもとっくに証拠は消されているだろう。
 でも、今、尚也に重く圧し掛かる一番の問題は、自分が逃げ出したり、警察に連絡したら、確実に瑞希は命を絶つだろう…ということだ。
 今の尚也には、瑞希が自殺をしようとしたら、止める力がない。
<いや、今なら、瑞希さんが目覚める前に警察が来てくれれば…>
 でも、もし途中で目覚めてしまったら?
 そう思うと迂闊に動けない。
 完全に怪我が治れば止められるかも知れないが、その場で瑞希の命を救えても、彼女の心は救われない。
 今の瑞希は、命がけで轢逃げ犯を庇っている。

 それが友達なのか、恋人なのかはわからないが、瑞希が交通事故の現場にいなかったということは、轢逃げ犯の方が瑞希に助けを求めてきたのだろう。
 どちらが、この事故を隠蔽しようと言い出したのかはわからない。
 けれど、どうであれ、轢逃げ犯が瑞希を盾にして、罪から逃れようとしていることに変わりはない。
<虜だ…>
 瑞希の心は、誰かに、何かに心を奪われ、虜になっている。
 何で最近、瑞希が自分に対し気負っていないのかが、尚也は今、理解できた。
 瑞希は、尚也を助け、なおかつ轢逃げ犯を守る方法を考え出し、決心したのだ。
 だから、心が軽くなったのだろう。
 自分の中では、全てを完結させるためのシナリオが出来上がり、安堵したのだろう。
 この遺書を残しても、瑞希が思っているように上手くはいかないかもしれない。
 それでも、瑞希は、自ら轢逃げ犯の名を言うことより、こんな方法を選んだ。

<こうまでして、一体誰を、何のために庇ってんだよ!一体あんたは何を手に入れようとしてんだよ!!>
 尚也は激しい胸の痛みを感じた。
 地味で、大人しくて、優しい人…瑞希に対する尚也が持つイメージ。
 今まで傍にいて、瑞希の温かな心に触れてきた。
 そんな瑞希が、死体を埋め、尚也を監禁し、自分の命まで消そうとしている。
 その、誰かへ向けられた愛情のために。

<間違ってるよあんた!!>
 そんな言葉を心の中で吐き捨てる。

<あんたをそこまで動かしてんのは、誰なんだよ!>
 激しい憤りを感じ、唐突に、尚也は自分の気持ちに気が付いた。

<嘘だろ…?>
 一生懸命否定しようとする。
 でも、誤魔化せなかった。
<俺…惹かれてる…>
 瑞希に、惹かれていた。
 自分の気持ちを目の当たりにして、救いようのないほど、暗い気持ちになる。
 瑞希の、誰かを強く想うその姿に心を奪われてしまった。
 尚也は自分自身のこんな気持ちが信じられなかったけれど…。
 心の中から湧き上がる、瑞希を愛しいと想う気持ちを止められなかった。

 出会った時から尚也は感じていた。
 瑞希の暗い表情から感じられる、孤独。
 尚也が抱えるものと通じるところもあるのだろう。
 でも、決定的に違うところがある。
 尚也は相手に何の期待もしない。
 全てを拒絶し、諦めていた。
 人の愛情。人の信頼。そんなものは、自分には手に入らないものだと、初めから諦めていた。
 でも、瑞希は、諦めていない。
 命をかけても、手に入れたいと思っている何かがある。
 相手の幸せなのか、自分自身の幸せなのか…。
 それとも、誰かの愛情なのか…。

<俺が諦めてしまったものを、瑞希さんはどんなことをしても手に入れようとしている>
 尚也は、俯いて下唇を噛んだ。
 そして、何かを決意したように、顔を上げ、手に持っていた便箋を元の通りにたたんだ。
 その便箋を、気付かれないように、そっと瑞希の手の中に戻す。

「俺は、あんたを振り向かせることが出来るだろうか?」
 尚也は、瑞希の寝顔を見ながら、自分にも聞こえないくらいの小さな声で呟いた。

<今まで、ずっと諦めてきたけれど…>
 瑞希の気持ちを、轢逃げ犯から解き放つことが出来るかどうか、尚也にはわからなかったけれど…。

<今度は、諦めない>
 
 今度こそ、最後まで諦めない。
 そう繰り返し思う。

「鍋島のじーさん、クロ…ごめんな。もう少しだけ、俺に時間をくれ。」
<俺がこんな風に思えるようになったのは、あんたたちのおかげなんだ>
 自分を必要としていてくれた存在。
 尚也の生き方を少しずつ変えてくれた存在。
 誰かを思い切り愛し、信じたいと思う。
 もう一度、そんな気持ちに気付かせてくれたのは無愛想な男と、気弱で優しい1匹の犬。
<俺はあんたたちが大好きだった>
 早く冷たい土の中から出してやりたかった。
 けれど…瑞希を自由にしてあげたいと願ってしまった。
 尚也は、そんな想いを込めて瑞希を見つめていた。
 
 足元で尚也を見上げていたサナは<お腹痛いのー!>と、必死に訴えていた。

2002.6.29 

…尚也が主役??悟〜。3章まで待ってておくれ〜。