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 黒い犬が悟に取り憑いた…。

<犬の幽霊なんて、勘弁してくれよー>
 図太い神経の持ち主で、少々のことでは動じない悟だが、さすがに驚いた。でも、人懐こい仕草と
縋るような瞳を向ける犬に対し恐怖は感じられない。

 それからずっと、犬は悟の傍から離れない。
 性別はオス。雑種だ。首輪などはしておらず、まあ、幽霊なのでそれだけの理由で生前野良だったのか
どうか判断はできない。身体つき、毛並みなどをみると誰かに飼われていたと思われるからだ。
 犬は何も悪さをする気配も見せず、悟以外の人間の眼には映らないようで家族も周りの人間も気が
付かず日常生活にさして支障はなかった。

 ……ただ、つぶらな瞳で悟を見つめ、ずっと何かを訴えているのだ。

 初めは幽霊のクセに緊張していた犬だったが、少しずつ慣れてきて悟の部屋でくつろぐようになってきた。

 悟は床にちょこんと座る犬の許へ行き、呟く。

「お前、俺に何を望んでいるんだよ。」
 しゃがんで目線を合わせ、そう言うと…切なそうに前足を悟の膝に乗せて尻尾を振る。

 悟はこの犬に、名前をつけた。真っ黒い毛に包まれているからクロ。適当につけた名前だが、呼ぶと嬉し
そうに反応した。
<…生前飼い主にクロって呼ばれてたのかな>

 クロはとても臆病な犬だったらしく、悟が間違って本を床に落とした音や隣に住む夫婦の喧嘩の声が聞こえ
たりしたら、部屋の隅の方へ駆け込み身を縮ませてブルブル震えている。雷が鳴ろうものなら、息遣いも荒く
なり、腰を抜かしているほどだ。

「お前、幽霊なんだから怖いもんなんかないだろ?もう少しシャキっとしろよ!」
 悟はクロの触れられない頭を撫でた。

 ちょっとバツが悪そうな瞳をチラッと向けるクロであった…。

 6月19日。
 クロが悟に取り憑いて、一週間が過ぎた。
 その日の夕方。校舎を夕日が赤く染め上げていた。

「ちくしょう。こんな時間まで居残りさせやがって。」
 悟はぶつぶつ言いながら一階の廊下を歩いていた。その少し後ろをクロが遠慮がちに付いて行く。3日連続
遅刻をしてしまい、職員室で担任にしこたま怒られていたのだ。

「今度遅刻したら反省文書かせて校内放送で読ませるからな!」
 などと言われてしまった。

「寝ても寝ても寝たりないんだから仕方ないじゃんか。」
 そんなことを呟いて、鞄を取りに自分の教室へ戻る途中だった。
<…あれ?>
 悟の耳に微かに、少女の悲鳴が聞こえた気がした。クロに目をやると、耳をピンっと立てて、廊下の先を
凝視している。

「お前も聞こえたのか?」
 悟の声に反応し、クロは一瞬顔を向けるが、すぐに視線を廊下に戻し、いきなり走り出した。

「おい!」
 悟もクロを追って走り出す。クロは廊下の突き当りまで行き足を止め、悟の到着を待った。

「いきなり走るなよな。」
 ようやく駆けつけた悟は、全力で走ってきたので軽く息を弾ませていた。クロは突き当たりにあった
校舎裏へ続くドアを右前足でカリカリと引っかいていた。


<そこ開けろってのか?>
 悟はドアを開け、数段あった階段を下りた。クロもそれに続く。

「クロ、どっちだ?」
 クロはそう言われると同時に裏庭へと走り出す。校舎裏にはちょっとした林みたいな場所があり、クロは
そこへと走って行った。

「おーい!何処まで行くつもりだよ。」
 そう言いながら、何の躊躇も警戒心もなく付いて行った悟だったが、茂みを抜けたところで…。
<あ…>
 目に入ってきた状況に、一瞬言葉を失った。

 1人の女子生徒と、3人の男子生徒の姿があった。
 木の根元で縮こまって座り込んでいる少女に、男達は手加減はしているものの、まるで猫が獲物を
弄ぶかのようにケラケラ笑いながら叩いたり、蹴ったりと、暴力を振るっていた。そして、少女の胸もとや
スカートに手を伸ばそうとした時、予期せぬ訪問者の登場に気がつき、4人の視線は一斉に悟の方へ
向かう。


<これは、もしかして…>
 少女を手篭めにしようとしている悪者達?…と、理解した。

 悟は、3人の男達に見覚えがあった。学校中知らない奴はいないほどの有名な悪ガキ達だ。今度何か
やったら間違いなく退学だと言われているが、明るみに出ている彼らのやった悪行はほんの氷山の一角
だろう。そんな奴らが鋭い眼光を放ち悟を睨みつけている。

<俺、もしかして、ピンチ?>
 悟は苦笑いしながら自分の状況を把握した。

 男達は悟より1学年上の3年生。みんな体格もよく、人相もめちゃ怖い。小柄な悟など、まるで歯が立たない
だろう。

「っんだよ、こいつ。邪魔すんなよ。」
 一人が悟を忌々しげに睨んだ。が、隣にいた男がいきなり噴き出して笑った。

「おい、こいつ。俺知ってる。」
「あん?誰だ?」
「前に付き合ってた女から聞いたことがあんだよ。遅刻の数と、女にフラれた数校内ナンバーワンの
笹山悟!」

<なんだと?>
 悟はカチンときた。
 言われたことは確かに事実だった。入学してからというもの、悟の外見に惹かれた女達から何度も
告白され、付き合い、そして振られてきた。自覚しているものの、やっぱり人から言われたら腹が立つ。

<好きで振られたんじゃねえ!ちきしょー!!>
 頭にきていた。その場の自分の置かれた不利な立場も頭からすっ飛んでいた。

「笑ってんじゃねーよ!馬鹿野郎!」
 気が付いたら怒鳴っていた。

「お?そんな汚い言葉使っちゃ綺麗な顔が台無しだぜ?」
「そこいらの女より、可愛いんじゃねーか?」
 完全に悟をなめきっていて、大笑いしながらからかうような言葉を投げつける。

 悟は咄嗟にしゃがんで、地面の土を手に握り締め、思い切り男達に投げつけた。

「うわっ!」
 3人とも油断していたので、モロに目や口に入った。

「へん!ざまーみろ!」
 悟はニヤッと笑って、その後、蹲って震えていた少女の許へ駆け寄った。

「おい!今のうちに逃げるぞ!」

 そう言って少女の肩を掴んだが…パシッという音がした。

「嫌ぁ!」
 少女が叫びながら悟の手を振り払ったのだ。

「え?ちょっと…。」
 まさか自分まで怖がられるとは思っておらず、面食らってしまった。

「おい!早く逃げないと…!」
 そう言った時、悟は背後からゴツイ手で両肩をガシっと掴まれた。恐る恐る顔を後ろに向けると、男達が
既に復活していて、怒りで顔を引きつらせてい立っていた。

「よくもやってくれたなぁ!!」
 肩を掴んでいた男が、今度は悟の胸倉を掴み、右手を振り上げた。

<うあー。今度こそ、ピンチだぁー!>
 殴られる!っと思ってギュッと目を瞑る。

 その時…。

「ぐるるるるるぅ〜。」
 …という、獣の鳴き声が聞こえた。

 悟も男達も一瞬動きを止め、その声の方へと顔を向けた。
 すると、木の陰から犬が…大きなシベリアン・ハスキーがのそのそと出てきた。首輪をつけていて、
散歩用のリードをずるずると引きずっていた。

「ガルルル…。」
 犬は明らかに男達を威嚇していた。その迫力は尋常じゃなかった。

「おい…。何なんだよ…この犬。」
「知らねぇよ。」

 男達はたじろいだが、悟は全然恐怖を感じていなかった。
 犬の怒りは自分に向いていない…そう確信していた。
 悟は、生まれてこのかた、出会った犬には100%懐かれる。怖がられたり怒らせたことは1度もない
からだ。


 犬はじりじりと男達に詰め寄り、牙を剥いた。

「おい!変だぜ、この犬!」
「い…行こうぜ。」

 男達は悟から手を離し、慌てたように逃げ出した。怒りを露にした大型犬はさすがに怖かったらしい。

 男達の姿が消えた瞬間、犬の怒りは消え、柔らかな空気が包み込む。

 悟はホッとして肩の力を抜く。そして、自分に擦り寄ってくるふさふさした毛を纏った優しい恩人の頭を
撫でる。

「ありがとな。」
 犬は悟を覗き込むように見上げ、澄んだ目を向けた。尻尾を振って、悟にひたすら擦り寄る。本来はとても
大人しい犬のようだ。

「サユリちゃーん。」
 学校の裏門から声がして、年配の女性が名前を呼ぶ。犬は耳をピクンと動かし、女性の方へと駆け寄って
行った。どうやらその女性が飼い主らしい。女性はリードを拾い上げ、外へと向かう。

「もう。サユリちゃんったら、いきなり走り出すなんて、いつもはこんなことないじゃない。」
 女性は安堵したのか、優しげな声で犬を叱りながら去っていった。

<サユリって名前は似合わないような気がすんなぁ…>
 悟はクスっと笑った。

 そして、少女の方へと視線を向ける。今度は近づかず、声をかける。

「大丈夫か?」

 少女は、相変わらずしゃがんで蹲ったままだったが、身体の震えは止まっていて、悟の声に、コクンと
頷いた。少女は、犬と悟とのやり取りをずっと見ていた。不思議な光景に目を奪われ、いつの間にか体の
震えも止まっていた。

<そういや、クロは…>
 悟はクロの姿を探し、辺りを見回すと、少し離れた茂みの中から、お尻と尻尾が見えた。…どうやら怖くて
隠れていたようだ…。

 悟が呆れて見ていると、クロの方も騒ぎが収まったのがわかったようで、向きを変えて頭を出した。
 そして、悟の許へと駆け寄ってくる。

「お前、意気地なさ過ぎ…。」
 その言葉に、クロは耳を後ろに倒してしまい、元気なさげに尻尾を振った。

2002.5.4