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「中山。どうしたんだ?」 春香の涙を見て、悟はビックリして目をまるくした。 <笑い過ぎて泣いているわけじゃないよな?> そんなことも考えたが、どうやら違うようだ。 少し俯いて、涙をポロポロと落し続ける春香。
クロは春香の膝に前足を乗せ、尻尾をブンブン振って、必死に<泣かないで>ポーズをとっている。
「ご…ごめんなさい。泣くつもりなんて…なかったのに。」 涙を止めようとしているのか、春香自身も困っているようで泣き笑い状態だ。
「…笹山君と話していると、どうしてこんなに気持ちが溢れてくるんだろう…。」 泣いているので言葉を詰まらせていたが、それでも何故か悲しそうには見えなかった。 言われていることの真意を掴みかねて、悟は首を傾げていた。 そんな悟の顔を見て、春香が微笑む。ようやく涙も止まったきたようだ。
クロも春香が微笑んだことでようやくホッとして、悟の足元へチョコンと座る。
「笹山君って、自分の気持ちを、とても自然に素直に言葉にするから。何だか時々私も釣られてそういう風に振舞えてる。」 「それが自由ってことなのか?」 悟にとっては、それのどこが『自由』なのかわからない。
春香は悟の質問には答えずに、柔らかな笑みを浮かべたまま、軽く深呼吸する。
<大丈夫。笹山君になら話せる…。恐くない…>
頭で何度も繰り返し唱え、気持ちを落ち着かせる。
そして、心の鍵を開ける…。
「私ね、小さな頃から自分の気持ちなんて言ったことなかった。言ったって誰も聞いてくれなかったから。」 「どういうこと?」
春香はゆっくり目を閉じ、自分の気持ちに耳を澄ませながらポツリポツリと言葉を紡ぐ。
小さな頃。 父親や母親に振り向いて欲しかった。 優しく抱き締め、笑顔を向けて欲しかった。 でもどんなに泣いても、一度も手に入らない。
父親の笑顔も、母親の温かな眼差しも、全て兄のものだった。
仕事でいつも家を空けている父の広志は、たまに家にいる時は決まって趣味の読書に没頭するか、秀一にかまうかのどちらかだった。 いつも家にいる母親の英子は広志以上に秀一のことしか目に入らない。 春香が英子から向けられたのは、感情のこもらない、冷たい言葉だけだった。
『大人しくしていなさい。お兄ちゃんの邪魔になるでしょう!』
いつもいつもこんな言葉を投げかけられた。 これは春香にとって、気持ちを押し込め、存在を消すようにという魔法の呪文のようだった。
それでも春香は、英子や広志から褒めてもらおうとお手伝いをしたり、勉強も頑張ったりしていた。 でも、ある日を境にそんな気持ちも凍りついた。 春香が小学2年生になりたての頃、バイクに撥ねられ軽い怪我を負った。 秀一と春香が連れ立って学校へ行こうと家を出た直後に起こった事故。 お見送りしていた母親の目の前で春香は道路に投げ飛ばされた。 秀一はバイクと接触はせず無傷だった。 驚いて自分に駆け寄る母親の姿を見て、傷の痛さなんか吹っ飛ぶほど嬉しかった。
でも…。 運ばれた病院でたった一人で治療を受けさせられた。 いくら軽い怪我とはいえ、とても不安だったのに英子は付き添ってはくれなかった。 それでも泣かずに我慢して、手当てを済ませ英子の待つ待合室に戻ると…信じられない言葉が耳に入ってきた。
その時の、英子の言葉が今でも耳に残る。
英子は公衆電話で、広志に連絡を入れているらしかった。
「…ええ。大丈夫。軽い怪我だし、春香の方だから。驚いたけど、秀一じゃなくて本当に良かったわ。」
<私が怪我して良かったの?> 幼いながら、母親の気持ちを感じとり、愕然とし立ち尽くした。 地面が揺れ、心が切り刻まれ…この日から、春香は両親に何も求めない子供になっていった。
春香の、そんな寂しい心を、唯一母方の祖母だけが優しく包み込んでくれた。
「春香は優しくて良い子だってこと、お祖母ちゃんはちゃんと知ってるから。」 いつも優しく笑いかけてくれていた。
だから春香は笑うことを忘れないでいられた。 泣くことも忘れないでいられた。 その祖母も、春香が9歳の時にこの世を去り、春香の心に耳を傾ける人間はいなくなってしまった。
こんな環境で育った春香は、極端に内気でめったに感情を表に出さない子になっていた。 学校でも、目立たず無口な春香には、友達も少なかった。
クラスメートに時々仲間外れにされたり、からかわれたりしたが、酷い苛めなどはされたことはなかった。 だから春香もこの頃は、心の中ではいつももっとクラスメートと仲良くしたい、友達が欲しいと願っていた。
<どうやったら上手くお話しできるんだろう。どうやったらみんなに好かれるんだろう> 楽しそうに笑いあうクラスメートを見ていると羨ましくて仕方がなかった。
小学5年生の6月に、春香のクラスに一人の転校生がやってきた。 教壇に上がり、先生の隣で物怖じせず立つ少女。
「国井里美です。よろしくお願いします。」
とても可愛い少女で、何より、彼女の性格を映し出したような強さを感じる大きな瞳が印象的だった。 春香の隣の席がたまたま空いていて、里美が座ることになった。
席に着く前に里美は春香に目をやり、少しの間見つめていた。
<私、何か変なトコがあるのかな…何か気に入らないのかな> ビクビクしながら春香は里美の方へ視線を向ける。
すると、里美の表情がパァっと明るくなり、笑顔になる。
「色々と学校のこと教えてね。えっと、あなたのお名前は…。」 春香は、自分に向けられる笑顔を見て、ホッとして安心し…嬉しさが込み上げた。
「私…中山春香。よ、よろしく。」
緊張で上手く言葉が出てこなくて、それでも一生懸命里美と言葉を交わした。
里美は、あっという間にクラスに溶け込んでしまい、それも春香を驚かせた。 少々強引で、我が強いところがある里美だったが、彼女の持つ相手を巻き込む積極的な行動は、クラスメートたちにとって、とても魅力的だった。 もちろん春香にとっても、里美は憧れの対象で、いつも気が付くと目で追っていた。 <私もあんな風になりたいなぁ> いつもそんなことを思うようになっていた。 そして、何より嬉しかったのが、里美は春香と一番仲良くしてくれたことだった。 誰とでも堂々と渡り合える里美が、春香を『親友』と呼んでくれたのだ。
「私、春香しか信用できない。」 里美は春香と2人きりで遊んだ時など、そんなことをよく口にした。 春香にとって、誰とでも仲の良い里美が何故そんなことを言うのか、良くわからなかった。 でも自分は里美にとって特別な存在なんだ、親友なんだって思い、とても嬉しいと感じていた。 ただ、精神的に2人の立場が対等であったかどうかは首を傾げてしまう。 春香にとって里美は憧れで、大好きな友達だった。 でも、苦手な部分も多々あり、いつも里美には押され気味で、彼女に振り回されていた。
春香が里美の行動で、一番苦手だったのは、2人でいる時、誰かの悪口を言わせられることだ。
「私、絵美ちゃんって嫌い。面白くない話しばかり聞かせようとするんだもん。春香はどう思う?」 「え?」
「誰か嫌いな子はいないの?」 里美は春香の答えを強要する。
「私…嫌いな子なんて…いない。」 「嘘!春香良い子ぶってる!」 ちょっと怒った目を向けてくる里美にビクッとする。
正直言って春香は人付き合いそのものが苦手だったので、嫌いな子など考えている余裕などなかった。 まあ、苦手な子はたくさんいたわけで…。 それに本当は悪口なんか言いたくはなかった。 でも…。 <話をあわせなきゃ…> 何となく、そんな強迫観念に捕らわれ、嫌々ながら口を開く。
「わ、私、嫌いじゃないけど、絵美ちゃん苦手。和江ちゃんも苦手…かな。」 「ふーん。」 そんな会話をした後は、里美はいつも少し無口になる。 笑顔も消え、何となく険しい表情になる。
里美は、あまり前の学校のことを語らなかったが、2人きりの時、一度だけ以前の友人のことを口にしたことがあった。 それも、こんな会話の後だった。
「春香って詩織にソックリなんだ。」 「詩織って…誰?」 「前の学校での…親友。」
話はそれきりで、春香はこれ以上『詩織』に関してのことを聞くことはできなかった。 何故って、その話をした時の、里美の瞳が酷く冷たかったから…。
その瞳は里美の心を映していた。 春香は後日それを思い知ることになる。
里美が転校してきて4ヶ月が過ぎた頃から、クラスメートたちが春香を避けだした。 それだけでなく、嫌がらせもされるようになっていった。
<どうして?> 春香は、破られた自分の教科書や、落書きされた上履きを見つめ、悲しくなった。 誰がこんなことをしているのかわからないまま、日増しに嫌がらせは酷くなり、だんだん追い詰められ…それでも親には相談できなかった。 …相談したって聞いてくれるわけがないと諦めていた。 ただ一人、心の支えになってくれたのは里美で…春香はいつも里美に相談に乗ってもらっていた。
「大丈夫だよ、そのうちみんなもこんなこと飽きてやらなくなるよ。」 里美は笑いながら春香を励ました。 その言葉で元気をもらっていた。
「でもさー。酷いことするよね。」 里美がチラッと春香を見ながら言った。
「うん。でも…きっと何か理由があるんだよ。」 今まで虐めなんてしたことがないクラスメートたちだったから、信じたかった。
<気が付かないうちに、私、何か失敗して誰かを怒らせちゃったのかな…> そんな風に、春香は原因を自分の中から探そうともしていたくらいだ。
それからしばらくして、春香は担任の先生に呼び出された。
春香の担任は年配の女性で、わけ隔てなく公平で時には優しく、時に厳しく躾をする、と父兄からの受けも良く、信頼された先生だった。 放課後、職員用会議室で待っていた先生の顔は険しかった。
<何で先生は怒ってるの?> 春香はそんな疑問を抱えながら用意された椅子に座った。
机を挟んで真正面に座る先生の存在が春香の心を圧迫した。 それほど怒気を含んだ空気が先生を包み込んでいた。
「春香ちゃん。先生に何で呼ばれたか、わかってるよね?」 声は努めて穏やかにしようとしているようだった。 春香は困惑と怯えで上手く言葉が出せない。それでも必死で意思表示する。 小さく首を横に振り、<わからない>と伝える。 先生はため息を付き、言葉を続ける。
「最近、クラスの数名から、春香ちゃんから嫌がらせされてるって助けを求められているの。」
<…え?> 春香は耳を疑った。 嫌がらせをされているのは、他の誰でもない春香自身だ。 なのに、先生はまったく逆のことを言っていた。
「私も最初は春香ちゃんがそんなことするはずないって思っていた。でも、一人だけじゃないのよ。後から後から何人も訴えてきて、汚された体操着や落書きされた教科書を持ってきた子もいたの。」
<私だってそれと同じ嫌がらせをされてる!犯人は私じゃない!>
心の中で叫んだ。
「わ…私じゃ…。」 否定の言葉を口にしようした時…。
「どうしてそんなことをしたの?」
先生の言葉が春香の心に突き刺さる。 春香がやったかどうかの質問ではなく、春香が犯人だと決めつけ、理由を聞き出そうとする一方的な言葉だった。 その言葉が春香の口を凍らせ、思考を停止させた。
この後は、先生に何を聞かれても答えることが出来ず、ずっと俯いていた。
先生もほとほと困り果てた時、会議室のドアが開いた。
春香が背後の音にビクッとして振り返ると、英子が立っていた。 先生が事情を話し呼び出したのだ。
「あ、中山さん。お待ちしており…。」 先生の言葉の途中で、会議室に渇いた音が響いた。 英子が春香の許へ行くなり、頬を叩いたのだ。
春香は目の前が真っ白になり、ただ頬の痛みだけを感じていた。 英子は春香の言葉を何も聞くことなく、今度は先生に向って何度も何度も頭を下げる。
「ウチの春香がご迷惑をおかけして申し訳ありません。私からきつく叱っておきます。」 「いえ…中山さん、落ち着いて下さい。春香ちゃんの気持ちも聞いてあげないと…。」 「いえ、どんな理由があろうと人に迷惑をかけたんです。すみませんでした。」
英子が誠心誠意謝り、今後は二度とこんなことをさせないと約束し、この話は終止符が打たれた。 …春香の心以外は。
家に帰り、散々英子に叱られた。 でもその内容と言えば、同じ学校に通っている秀一のことばかり気にかけているものだった。 「あなたみたいな妹を持って、秀一が学校で肩身の狭い思いをしたらどうするのよ!」
もう、この時の春香には反論する気力も、信じてもらおうと訴える気も湧いてこなかった。 ただ呆然と英子の怒りが収まるのを待っていた…。
その日の夜。 春香に里美から電話がかかってきた。
春香にとって、それは救いの電話だった。 誰も信じてくれない中で、里美だけは信じてくれると思っていた。 でも、電話の向こうの里美から感じられたのは、とても冷たい気持ちだった。
『みんなから聞いた。春香、最低だね。』 「違うの!私じゃないの!里美ちゃんだって、私が同じように嫌がさせされてたの、知ってるでしょ?」 『私のこと騙すために自分でやったんでしょ?』
里美のその言葉は、他の誰の言葉よりも春香を痛めつけた。
「違う!お願い、信じて。」
『…フフンっ。』
聞こえてきたのは、必死に気持ちを訴えようとしている春香のことをバカにするように鼻で笑う声。
「里美ちゃん…?」 『ねえ、春香。この際だから私告白しちゃうけどさ…。』 里美の、とても冷やかな声。
『私本当はね。ずーと春香が一番嫌いだったの。』 「…え?」
<…嫌い?>
何で?親友って言ってくれた!信用できるのは私だけって言ってくれた!…そんな言葉がグルグルと頭を回り続ける。 そして、不意に思い出す。 以前里美が、彼女の前の学校での友人…詩織という子に春香がソックリだと言った時のことが脳裏を過ぎった。 あの時の里美の冷たい瞳。
<里美ちゃんはずっと私が嫌いだった…> そう理解した時、不意にある想いが脳裏を過ぎり、春香は考える前に言葉を口にしていた。 「…私に嫌がらせしていたのは…里美ちゃん…?」 直感だった。 何の証拠もないし、信じたくもなかった。 でも、そんな気がしたのだ。 電話の向こう側からはそのことに関しては何の返答もなく、代わりに突きつけられたのは…。
『もう私、春香と遊ばないから。私のこと友達だ何て思わないでね。迷惑だから。』 一方的な台詞を残し、電話は切れた。
ツーツーという機械音が春香の耳に流れ込んでくる。
この日から、里美の態度は今までとガラリと変わり、春香の心を弄ぶようにクラスのみんなを使って苛めだした。春香の小学校では、5年から6年に上がる時にクラス替えはなく、当然ずっと同じ状況だった。
ひょっとしたら、春香が濡れ衣を着せられた出来事は、みんな里美が仕組んだことだったのかもしれない。そう思ったりもした。
でも、もう春香には、そんなことも、どうでもよかった。 信じていた友達に裏切られ、誰からも信じてもらえず、誰も自分のことを見ようとしない。 もう限界だった。 胸の痛みも、心を締め上げる孤独感も、感じたくなかった。 だから、心に鍵をかけた。
誰のことも信じず、誰のことも見ず、誰にも期待せず…初めから一人でいればもうここまで苦しむことはないと思った…。
春香は人の気持ちが恐くて…。
自分に向けられる、あらゆる感情に怯えた。 それから逃れるためにも、心の目を閉じ、耳を塞ぎ、口を閉ざした…。
小学校のメンバーが、かなりの人数同じ中学に上がり、里美と春香も同じ学校に入学した。
中学では3年間里美とは違うクラスだったがとても影響力のある存在だったので、小学校の時のことを噂に流されたりして、状況はあまり変わらなかった。
春香は殻に閉じこもり、自分の身に降りかかる嫌がらせや苛めを、どこか遠くで起こっていることのように感じようとしていた。
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