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6月23日(日) 雨がしとしと降っている。
「あー…疲れたぁ…。」 悟は事故現場と思われる横断歩道の傍で傘をさして立っていた。 クロにとっては恐い場所なので、後ろに庇い宥めながら、この日曜日朝9時から現在午後7時までずっとこの場所に立っている。 途中公園内のトイレで用を足したりだとか、近くの食堂に行ってご飯を食べたりもしたが、後は根気良くひたすら同じ場所に立ち続けている。
何故かと言うと、犯人を見つけるためだ 今わかっているのは、この横断歩道で事故があったらしい、ということだけ。 クロは、当たり前だが人間語が話せないので、それ以上のことは自力で調べるしかない。
でも、調べようにも何の手立てもない。そう思った時、一つだけ方法が閃いたのだ。 クロならば轢逃げ犯を見分けられるのではないかと思った。 悟が犯人へと辿り着けるための手がかりは、この横断歩道とクロだけだ。 犯人が事故現場に戻ってくる可能性にかけている。 そしてクロがその人物を教えてくれると信じているのだ。
だから、昨日思いついて即実行に移し、土曜日も午後から夜9時頃まで立っていた。 でも、昨日と今日、何の収穫も得られていない。 クロはといえば、通る車に怯えたり、時々通る散歩中の犬に興味を示したりで、他には何の反応もない。
<怪しげな奴も来なかったし、やっぱり深夜も来た方がいいのかな> 轢逃げ犯が、何か気になることがあって現場に戻るとしたら、人目の少ない深夜の方が確立が高いとは思ったが…。 しかし、放任主義な悟の親も、さすがに毎日深夜外出することには顔を顰めるだろう。 ましてや、もうじき期末テストなのだ。
<夏休みに入ればもうちょっと動きやすくなるかな> 根気良く待つしか手はない。 悟はこの日、午後9時過ぎまで立ち続け、観念して帰ることにした。 最後に鍋島宅の様子を見に行き、変化がないことを確認し帰路に着いた。
雨の中をずっと外にいたので少し身体が冷えていた。 家に帰り熱いお風呂に入った後、ベッドに潜り込む。 クロも悟の隣でリラックスして横たわり、既に安らかな寝息を立てていた。 時折鼻をヒクヒクさせたり、足をピクンと動かしている。 悟は目の前にあるクロの寝顔を見つめクスッと笑う。
「ホントに緊張感がない幽霊だよなぁ。」 そしてゆっくり目を閉じる。
<中山の奴、風邪平気かなぁ> 土曜日も学校を休んだ春香のことが気になっていた。
<明日も休みだったら、連絡先きいて電話してみよう…> そんなことを考えながら眠りについた。
6月24日(月)
「ごちそうさま…。あの…今日は学校行けるから…。」
春香は朝食後、小さな声で食卓を囲む家族に声をかけた。
父 広志、母 英子、 兄 秀一、そして春香の4人家族で暮らしている。 春香の言葉に唯一反応した母親、英子が顔を向ける。
「あんなにびしょ濡れで帰ってきて、風邪なんかひいて。もし秀一にうつったりでもしたらどうするの。」
その言葉は春香への優しさなど欠片も感じられない、冷たいものだった。
「ごめんなさい。」 「気をつけなさい。秀一は大事な体なんだから。」 そう言って再び食事を続ける。
父の広志も、兄の秀一も、春香の言葉…いや存在すら気に留めるわけでもなく、モクモクと自分の食事を続けている。
広志は自分の父親が院長として経営している病院に勤める医者。いずれ継ぐことになるだろう。息子の秀一も親の希望と自分の希望とで医者を目指していた。 今秀一は高校3年生。受験生だ。 秀一は子供の頃から頭も良く、親の期待通りの結果を出してきた。 広志も英子も秀一にかける期待は大きく、跡取り息子として愛情の全てを注いできた。 毎日忙しく、あまり家にいない広志。そして英子は日常の全てを秀一中心に考え行動してきた。 春香は父親からも母親からも優しく笑いかけてもらった記憶がない。 いつも怒られないように、迷惑をかけないように気を遣い、身を縮めて生活してきた。 そんな春香を唯一可愛がってくれていた近所に住んでいた母方の祖母も、春香が小学生の頃に他界した。
春香が何を見て、何を感じ、何に感情を動かされようと、家族は誰も関心を示さない。 春香がどんな気持ちを抱えていようが、家族にとってはどうでもいいことのように振舞われ、そんな中で生活をしてきた。 そのことが春香の内にこもりがちな性格を形作っていった。 いつも一人でいることの多い子供になっていた。 それでも昔は一緒にいたいと思い、信じていた友達もいた。 でも…。
『私本当はね。ずーと春香が一番嫌いだったの。』
その友達が笑いながら言った言葉が今でも心に突き刺さっている。 春香にとってその友達は宝物のような存在だった。 そんな春香の気持ちを知っていながら一番残酷な方法で突きつけられた裏切り。
そのことがあってから春香は心に鍵をかけた。
春香の心を孤独にさせた。
「行ってきます。」 誰も応えてくれないことを知っているが声をかけて家を後にする。
<笹山君、もしかして心配してるかな…> 駅に向って歩き出し、脳裏に悟のことが過ぎる。 風邪の原因は雨に濡れてしまったからで、きっと悟もそう思っているはずだ。 心配しているかもしれない、そう思うと早く元気な姿を見せなきゃと思う。 心配をかけたくない人がいる。 そんな存在が自分にもいる…そう思えることが春香の気持ちを元気にさせた。
自分のことを好きだと言ってくれた悟。 その言葉で、初めて自分が尚也に恋をしていることに気が付いた。
悟と尚也。 この2人の少年が、今まで頑ななまでに感情を表に出さなかった春香を少しずつ変え始めている。
「中山!風邪治ったのか!」 校門前で春香の姿を見るなり悟は手を振って話しかけた。 傍にいたクロも耳と尻尾をピョコンと立てて、元気に瞳を輝かせる。 まあ、春香にはクロの姿は見えないわけだが、悟の表情は、クロのそれとダブっていた。 本当に<嬉しい>って笑顔で駆け寄ってくる。
「お、おはよう。笹山君。」 春香は、そんな悟に圧倒されて、どんな反応をしていいのかわからず、ちょっと戸惑いがちに微笑んだ。
「やっぱ雨の所為で風邪ひいちゃったのか?」 「うん。でももう大丈夫。」 「良かったー。」
2人で並んで校舎に向うが、悟がちょっと落ち着かない様子を見せた。 春香は少し首を傾げて<どうしたの?>という視線を送る。 悟は苦笑いした。
「いや、中山は俺といるのあまり人に見られたくないのかなって思って。」 「え?」 「前に教室に行った時、ちょっと怒ってただろう?」 それに悟は先週、春香の教室に行った時の女子生徒が見せた反応も気になっていた。 だから迷惑をかけたくなくて、悟なりに気を使って校門の前で待っていたのだ。
悟の気持ちは春香にも伝わってきた。
「一番初めに教室来た時のことだよね?…ごめんね、嫌な態度とって…。でもそれは笹山君の所為じゃないの。」 「ホントか?」 「うん。」
悟はホッとしたように笑った。 でも、俯いて少し沈んでいる春香の表情が気になった。
<やっぱりあのクラスで何かあるのかな…> そう思いながら話を切り出した。
「あのさ例の交通事故のことで思いついたことがあるんだ。その話をしたいから、今日時間とれないか?」 「思いついたこと?」 「うん。轢逃げ犯を見つける唯一の方法だと思うんだ。」
悟は足元のクロに目をやる。 クロは<なあに?僕に御用?>という目をして悟を見上げる。
この日のお昼休み、悟と春香は『秘密の場所』でベンチに座ってお弁当を広げていた。
「じゃあ笹山君、これから毎日あの横断歩道を見張るの?」 春香は悟から『轢逃げ犯捕獲作戦』を聞いて目をまるくした。
「うん。根気のいるとこだとは思うけどそれしか手はないだろ?」 春香はコクンと頷いた。 「私も一緒に待つ。」
「ダメって言っても?」 「行く。行きたい。」 「そう言うと思った。」 悟は苦笑いした。 大人しいのに頑固な春香だから、どんな返答をするかは予想できていた。 ただ、今回は引くわけにはいかない。
「でも、ダメ。これは俺一人でやるから。」 「何で?」 春香は顔を上げて、目で強く抗議している。
「轢逃げ犯と接触するかもしれないし、危ないから。」 実にシンプルな答え。
「そんなの理由になってない!」 「それに夜遅くまで外出したら家の人が心配するだろ?」 「それは笹山君だって一緒でしょ?」 なかなか譲らない春香。 悟は神妙な面持ちで春香を見つめる。 その、えらく真剣な眼差しに春香は思わず息を呑んだ。
「…実はもう一つ、重要な理由があるんだ。」 「な、なあに?」 「俺、やっぱ男としてカッコつけたい。」
真面目な顔して言った台詞だったが…春香の予想から激しく外れていた。 悟はニコッと笑った後立ち上がり、目の前の風景を眺める。
「中山を危ない目に遭わせたくないって思うし、これは俺の役目だと思ってるから。悪いけど、意地を通させて欲しい。ちゃんと毎日経過報告するから安心しろ。」 「笹山君…。」 「あ、それにちょこっと下心もあったりするな。」 「下心?」 春香は悟を見上げて首を傾げる。
「中山が少しでも俺のこと見直してくれて好きになってくれたらラッキーだなとか思ってる。」
春香の方に顔を向け、悪戯っぽく笑う。 その、あまりに正直な悟の言葉に、春香は思わず照れる前に噴き出してしまった。
お腹を抱えて苦しそうにクックッと笑う春香の様子に、悟はキョトンとして、再びベンチに座る。
「今のそんなに笑うトコか?」 「だ…だって…笹山君…。」 「何だよ。」
春香は息を整え、ゆっくりと顔を上げた。 確かに可笑しそうに笑っていた春香。悟に向けた顔も微笑んでいたが、その瞳は涙で潤んでいた。 そして、ポロっと涙が零れ落ちる。
「中山…?」 「笹山君ってどうしてそんなに自由でいられるの…?」
2人がベンチに座る距離は、前回とは雲泥の差で、クロが入り込めるスペースがないくらい近かった。
クロは仕方がないので悟と春香の足元に寝そべっていたが、春香の涙に気がつき慌てて身を起こした。
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