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尚也が初めて鍋島とクロに会ったのは、2年前の夏。 当時高校1年の夏休み。場所は憩いの森公園。 好く晴れた日だった。 公園内にある芝生で、木陰を見つけて寝転んでいた尚也の許に犬が駆け寄ってきた。 全身黒い毛で覆われた一目で雑種とわかる中型犬。 ずるずるとリードを引きずって、尻尾を振って尚也の傍らに座る。
<何だ?この犬…> 首輪もしているし、リードをぶら下げているということは、近くに飼い主がいて誤って手を放してしまったのだろうと思う。 じき迎えが来るだろうと、犬の熱い視線を無視して青空を見ていた。 …が、いつまで経っても誰も迎えに来る気配がない。
「お前の飼い主・・・どうしたんだ?」 身を起こして、尚也は犬に声をかけてしまった。 すると、待ってましたというように、犬は一生懸命尻尾を振りながら何かを訴える。 「くぅ〜ん!くぅ〜ん!!」 右前足で尚也の膝の辺りを軽く引っ掻いてみたりだとか、切なげな声で何かを訴えるパフォーマンスをする。
「何だよ。俺はお前にあげられるもの、何も持ってないぞ。」 お腹でも減らしているのかと思ったが、そうでもなさそうだ。 しきりに視線を尚也の顔から、公園内の方へと交互に動かす。
<俺をどっかに連れて行きたいのか?> 尚也は試しに立ち上がってみた。 すると犬は瞳を輝かせて歩き出す仕草を見せる。
「俺を何処へ連れてく気だ?」
尚也は苦笑いしながらも犬が何を訴えているのか興味が湧いて走り出す。 それに合わせ犬も勢い良く駆け出した。 犬の後を付いて行き、しばらく走っていると、丸い花壇が中央にある広場に出た。 その花壇の傍で人が座り込んでいるのが見えた。 初老の、少し小太りな男性だ。 「わんっ!」 犬はその男性に駆け寄った。
<あれが飼い主か…>
「クロ。お前何処行ってたんだ!俺を置いてくなんて薄情な奴だな!」 男性は犬に苦情を言うが、その言葉には棘も悪意も感じられなかった。 駆け寄ってきた犬の頭を撫でる目は優しげだった。
「どうしたんですか?」
尚也は駆け足から歩きに変えて近づき、話し掛けた。 どうやら犬はこの男性の許へ尚也を連れてきたかったようだ。
犬は尚也の足元へと纏わりつき、そして男性の顔に視線を向ける。 男性は尚也の顔を訝しげに見上げ、顔を顰める。
「どうもしない。クロ!行くぞ!」
そう言って、クロのリードを掴み、立ち上がろうとするが顔を歪めペタンと尻餅をつく。 「ちっ!」 舌打ちし、忌々しそうに自分の左足を見ている。 足を挫いているようだった。
「歩けないなら手を貸すけど…。」
尚也は男性にそう提案するが男性はプイッと顔を背ける。
<随分無愛想な男だな>
男性は、その性格を表す様に、警戒心を露にし口はへの字にして仏頂面を貼り付けている。 でも、先ほど飼い犬に見せた表情はとても柔らかなものだった。 男性は懲りずに立ち上がろうと奮戦するが足の痛みが酷いらしく失敗する。 犬はご主人様の身を案じ周りをウロウロとしている。
<強情なじーさんだな>と、思うが、尚也はこういう人間が結構好きだったりする。 自分を鏡で見ている様で、居心地の悪さも感じるが放っておけなくなる。
「無理するなよ。」 「な、何するんだ!!」 尚也はジタバタする男性を力で軽くいなし、肩を貸して立たせる。 男性は尚也より頭一つ分背が低く、抗議する様に顔を見上げていた。
「こら!離さんか!!」 「嫌だね。俺はその犬に頼まれたんだ。面倒見させてもらう。あんたも飼い犬の顔を立ててやれよ。」 尚也はニヤッと笑う。 すると男性は足元で心配そうな視線を向けている犬を見て、コホンと咳払いをする。
「そうだな。クロがせっかく気を使ってくれたんだ。本当はお前なんぞに手を借りなくても大丈夫なんだがそれじゃクロの立場がないもんな。」
もっともらしい理由をこじつけ、男性は尚也の手を借りることを納得したようだ。
「家がいいか?それとも病院へ行くか?」 「家でいい。」 「じゃ、道案内よろしく。」 2人は男性の家へ向けて少しずつ歩き出す。 犬も2人に纏わりつきながら付いてくる。
「その犬、クロって言うのか。」 「そうだ。頭の良い犬だ。俺が石を踏んで足を挫いたら心配してお前さんを連れてきてくれた。」
その後は2人ともモクモクと歩き続け、ようやっと男性の家に辿り着いた。 ドアの脇にあった表札を見て、男性の名字を知る。
「鍋島さんって言うのか。鍵は?」 「今開ける。お前さんの名は?」 「川田尚也。」
鍋島は手に持っていた手提げ袋から鍵を取り出し、ドアを開けた。 玄関に入り、尚也は廊下に男性を腰かけさせた。 かなり痛いようで、顔を歪めた。
「医者に見てもらわなくて大丈夫か?これから病院に行くなら付き合うが…。」 「…医者くらい自分で行ける。もう大丈夫だ。帰ってくれ。」
男性は俯いたまま相変わらず憎まれ口を叩く。 尚也はこれ以上踏み込むのはかえって迷惑だと感じ、肩をすくめた。
「わかった。じゃあ、お大事に。」
そう言って家を後にしようとすると、鍋島の傍にいたクロが縋りつくように尚也に駆け寄る。
「くぅーんくぅーん。」 その様子は<まだ行かないで行かないで>と言っている様だった。
尚也はちょっと意地悪い笑みを浮かべ振り返る。
「クロはまだ俺のこと必要だって言ってるけど?」
すると、鍋島は一瞬口惜しそうな…それでいてホッとしたような表情を浮かべるが、再び仏頂面になる。
「クロがそう言うなら仕方ない。ここまで送ってもらった礼もすべきだしな。茶くらい出してやろう。」 「いや、その前に近くに病院はないのか?その足診てもらった方がいいぜ。」 「…うむ。」
結局…。 クロを留守番させ、鍋島が知っている近所の診療所へ尚也が背負って行った。 その時の鍋島のコメントが、またまた憎たらしい。
「なんだ。肩を貸してくれるよりこの方が早いじゃないか。初めからこうしてくれればもっと楽だったのに。」 …だった。 尚也は思わず笑ってしまった。
診察後同じように背負って帰り、鍋島家でお礼代わりのお茶を尚也が入れてご馳走になり、ついでにもう日も暮れてきたので夕食も食べていけと言われ、やっぱり尚也が作って一緒に食べた。 クロは座敷で飼われていて、お客様の存在に少し興奮気味だった。 興奮…と言っても嬉しくてはしゃいでいるようだ。 尚也は<もうちょっと警戒心がないと番犬には不向きだな>と思った。
食後尚也は庭に面した縁側に座り、鍋島はその傍に尚也が敷いた布団の上でぽつりぽつりと話しをした。 もう時刻は午後9時を回っていた。
「おい。小僧。いい加減に帰れ。親御さんに怒鳴り込まれでもしたら俺が迷惑する。」 鍋島は相変わらずの無愛想な顔で、でもちょっぴり心配そうに尚也を見つめた。 尚也の呼び方が『小僧』に変化していた。 …小僧と呼ぶには尚也は育ち過ぎているが…。 でもまあ、鍋島から見たら半人前の小僧っ子なのだろう。
「大丈夫。俺が帰らなくたって誰も心配しないから。」 「何でだ?」 「家族にとっても…誰にとっても俺は不要な人間だから。」 鍋島の仏頂面が崩れ、思わず<おいそりゃどういう意味だ?何だったら相談に乗るぞ>っていう素の表情が現れる。 鍋島はコホンと咳払いして、ポツリと言葉を漏らした。 「いいか。世の中不要な人間なぞおらんぞ。」 「じゃあいったい俺は誰に必要とされてんだろうな。まだ出会ってないぜ。そんな奴に…。」 尚也は縁側からから竹林のざわめく音に耳を澄ませ、何の気なしに答えた。 すると鍋島の小さな声が尚也の耳に入る込む。
「少なくとも今日……。」 「え?」 聞こえ難くて、尚也は鍋島の顔を見て聞き返した。 鍋島は決して尚也と目をあわさず、ご主人様より良い場所を陣取って布団に寝転んでるクロの腹を撫でていた。 ただ、その頬が赤かった。
「今日、クロは小僧にあえて助かったはずだ。クロの飼い主である俺からも礼を言う。…ありがとう。」
偏屈な鍋島の精一杯のお礼だった。 尚也もそれは感じた。
「なあ、その足じゃしばらくクロの散歩、無理だろう。」 「まあ、庭で用を足してもらうさ。」 「足が治るまで時々俺が来てやるよ。」
そして、尚也は鍋島の足が治った後もこの1人と1匹に会いに何度も足を運ぶようになる。 会う場所は公園でだったり、鍋島の家だったり…。 尚也は鍋島のことを『鍋島のじーさん』と呼び、鍋島は尚也を『小僧』とか『若造』と呼んで、年の離れた奇妙な関係が芽生えていた。
「俺は人間は信用できん。」 鍋島の口癖だった。
鍋島はあまり自分のことは語らないが、時折漏らす言葉から、過去に信じていた人間に何度も裏切られたことがあると知った。 それが人間不信の原因のようだった。 妻にもかなり前に先立たれて子供もなく天涯孤独の身。 随分と長い間一人で暮らしていたらしい。 クロは数年前庭先に捨てられた子犬だったそうだ。 とても気が弱くて大人しい犬だったが、いつも満たされているその瞳からは鍋島がどれくらい愛情を注いでいるかが伺えた。 あと、鍋島は新聞をとっていない。『テレビのニュースで充分だからさ。』と言っていたが、どうやら新聞の勧誘屋さんと大喧嘩して新聞嫌いになったらしい。 尚也が鍋島に関して知っていることといえばこれくらいだ
尚也以外誰一人として訪ねてくる者もいない。
「おい小僧。お前さん。何が楽しくて俺のトコに来るんだ?」 「鍋島のじーさんこそ、何でいつも俺が来ると嬉しそうなんだ?」 尚也がニヤニヤして言い返すと決まって顔を真っ赤にして怒り出す。
「別に嬉しがってなんかないわい!この若造が!!」
こんなやり取りが、尚也にとってとても気持ちがよく、安らげた。 尚也は小さい頃、人から愛されるということを自ら拒絶し、諦めた。 そうやって生きてきた。 でも、同じように、どこか人との関わりを拒絶している人間を見ると放っておけなくなる。 <人の気持ちなんかわからないけど自分の気持ちはわかるもんな> 尚也は鍋島をどこかで自分と重ね合わせ、構わずにはおれない。 傍にいることで自分が癒されていることを…ちゃんと知っていた。 <でも、これって鍋島のじーさんにとっちゃ迷惑なのかな> …そう思ったりもした。それでも2人の関係は続いていた。
尚也は、事故に遭う前日の夜、鍋島の家へ顔を出しに行った。 お土産にたこ焼きを持って。 そのたこ焼きを2人で食べている時、鍋島がポツリと言った。
「小僧の所為で…厄介なものを思い出しちまった。」 「あん?」 「…寂しいという感情を思い出しちまったじゃないか。どうしてくれるんだ。」
尚也はその言葉を聞いて、口に運ぼうと楊枝に刺していたたこ焼きをポロっと落としてしまった。 <もしかして、俺のこといつも待っていてくれているのか?>
その時初めて感じた。
鍋島は決して尚也の心に自分から踏み込んではこなかった。 でもいつでも尚也の気持ちを受け止める心の扉を開いてくれていた。
鍋島は尚也を知ろうとしてくれた…。
尚也は自分にも友達がいたことを知った。
次に会った時、もっと素直に自分の気持ちを曝け出せるかもしれない。 そう思っていた…。
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