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次に尚也が目を覚ましたのは、女性が彼の寝巻きを着替えさせようとしている時だった。
「…やめろよ。」
まだ寝ぼけているので言葉に覇気がない。
「…でも汗かいたし…着替えないと風邪ひいちゃう…。」 「放っておいてくれ…。」 「恥ずかしがらなくても、襲ったりしないから安心して。」 尚也が柄にもなく真っ赤になってそっぽを向いたので、女性がクスッと笑った。 思わず目を向けると…尚也の目に柔らかな微笑が飛び込んできた。 初めて見る女性の笑顔だった。
「…へえ。笑うと雰囲気が変わるんだな…。」 尚也は少し驚いて思わずそうコメントした。 彼女が持っていた陰気さが笑顔で一気に消え去り、イメージが変わったのだ。 女性は目をまるくし、尚也から目を逸らし俯いた。 「私…とても暗いでしょ。…見てて鬱陶しい思いをさせてしまってるかしら…?」 体を小さくして、まるで自分の存在を消したいと願っているような女性の態度。
<監禁している相手にする質問じゃないよな> 尚也は状況と激しく合わない女性の言葉が何故かとても可笑しくて、笑い出しそうになるのを堪えた。 女性はとても真剣で、尚也の答えを怯えるように待っていたからだ。
「別に鬱陶しくはないけれど、もっと堂々としてろよって思うけど?」 「え?」 「考えてもみろよ。俺の命、あんたの手の中にあるんだぜ?」
「…?」 女性は『命』って言葉にピンと来なかったらしい。 「俺のこと、騒いだら殺すんだろう?そうでなくても今監禁してるだろ。」 「ご…ごめんなさい!」 女性は自分が言ったことを思い出したらしく本当に申し訳なさそうに頭を下げた。
「謝るくらいなら解放して欲しいね。」 「ごめんなさい!それはできないの…。ごめんなさい。」
<間の抜けた会話だな> 尚也はクスッと笑った。
「くぅーん…。」 女性の傍らにいたサナが、主人がシュンとしているので慰めるように鳴く。
「俺がお前のご主人様を苛めているわけじゃないぞ。どっちかって言うと俺の方が苛められてるんだからな。」 尚也は冗談っぽく言い、サナに笑いかける。 言葉だけ取ってみれば女性に対しての嫌味が含まれているようだが、言い方が柔らかく責めている感じがまるでなかった。 女性は、尚也の柔らかな態度を見て、とても不思議そうな顔をしていた。
実際尚也自身にもよくわからなかったが、自分を監禁している相手なのにどうしてだか怒りをぶつける気になれないでいた。 それどころか、どこか和んでしまっている。
「…とにかく寝巻き替えさせて。」
女性に再びそう言われ、尚也は観念して大きなため息をついた…。
<考えてみれば、今さら恥ずかしがってもって感じだよな…> 体を拭いてもらい着替えをする。 体の方は幾分か楽になってきていたので、下着だけは必死になって自力で替えた。
この作業で自分が今どれくらい動けるかがわかった。 相変わらず体中痛みを訴えたが、一番酷いのは右足だった。 動かす時、痛みで気持ちが悪くなるほどだった。 その足を庇いながらの作業はとても時間がかかったが、女性はもくもくと尚也の世話を焼いていた。
人心地付いた後で、再び布団に横になった尚也は女性に尋ねた。
「あんたの名前、教えてくれないか?」 「え?」 「どうせ俺はここから出してもらえないんだ。名前くらい教えてくれたって事態はさほど変わらないと思うけど?」 「……上村瑞希…。」 「ふーん。上村瑞希さん…か。」 「…お腹空いたでしょ。今日は鳥粥を作ったの。今持ってくるわね。」
瑞希はサナを抱き抱えて立ち上がり、部屋を出て行こうとする。
「なあ。今日は何日なんだ?今は昼なのか?夜なのか?」 「…6月16日。朝8時過ぎよ。」 「ここ、時計くらい置いてくれないか。せめて昼なのか夜なのか知りたいんだ。」 「わかったわ。持ってくる。」
部屋は締め切られていたが、暑い時などは部屋にあるエアコンで調節してくれていた。
それでも空気が淀んでいるような気がしていた。
日の光はなく、あるのは蛍光灯の灯りだけ…その所為もあるのだろう。
瑞希とサナが部屋から出て行き、残された尚也は天井を見つめながら小さなため息をついた。
<この足で立てるようになるまで逃げるのは無理だな> 歩けさえすれば、相手は女性だ。これくらいの傷なら力では負けないと思うし、瑞希にも怪我させずにここから逃げ出す自信がある。
しばらくすると、瑞希とサナが戻ってきた。 お盆を手にしていて、一人用の土鍋とお茶碗、それと時計が乗っていた。 日にちと時間が刻まれるデジタル式の目覚まし時計を尚也の枕元に置いた。 押入れから大きなクッションを持って来て、尚也の背中の下に敷くように入れ込んだ。 上半身が少し高く上がり、食べやすくなる。
お粥をお茶碗によそい、口に運んでくれようとする瑞希に尚也はワザと不機嫌な顔を向けた。 あまり人から世話を焼かれたことのない尚也には、『はい。食べてさせてあげる♪あーんして♪』などということはたまらなく居心地の悪いものだった。
「自分で食べる。」 「…わかったわ。」 瑞希はお粥の入ったお茶碗を尚也に渡す。 スプーンを使い食べようとするが、腕も打撲しているし、指も所々擦り剥いていたりするので動かすたび痛みが走る。 顔を顰めながら必死に自力で食べる尚也を瑞希は心配そうに見つめる。
「無理しなくても私がやってあげるのに。」 「別に無理なんかしてない。」 「尚也君は強情なのね。」 瑞希はクスッと笑う。 サナもそれにあわせる様に首を傾げる。 瑞希の態度は、まるで年の離れた弟の世話を焼く姉のような感じを受けた。 尚也は、お粥を食べる手を止めた。
「…もう食べないの?」 「いや。…なあ、教えてくれないか?」 「何?」 「俺にはあんた…瑞希さんがこんなこと進んでやってるとはどうしても思えないんだ。」 「……。」 「あんたは悪人じゃない。」 …これは説得するつもりで言った言葉ではあるが、本心でもあった。
瑞希は辛そうに目を伏せる。…そして、スクッと立ち上がり尚也に背を向ける。
<動揺してる!> そう思い、説得の言葉を続けるなら今だと思う。
部屋を出て行こうとする瑞希を必死で止める。 「待ってくれ!…っ!」 反射的に体を動かした所為で酷い痛みが尚也の右足を襲う。 身を縮めて苦痛に絶える。
<クソっ!>
肝心な時に思うように動かせない自分の体に苛立ちを感じる。
…でも…。 「大丈夫?!」 出て行ってしまうかと思っていた瑞希が慌てて尚也に駆け寄り、傍らに座り込む。 サナも一緒になって尚也の周りを忙しなく駆け回る。
「……やっぱり、瑞希さん、悪い人じゃない。」
尚也は痛みの所為で上手く笑顔が作れなかったが、それでも微笑を浮かべる。
「尚也君…。」
「あんたが一体何のためにこんなことやっているのか知らない。何を守ろうとしているのかもわからない。けれど聞いてくれ!俺は、事故を起こして逃げようとしている奴が許せない!鍋島さんとクロを殺して逃げている奴が許せないんだ!」 その言葉を言い終えた時の尚也からは微笑みは消え去っていた。 あるのは激しい怒り。 尚也の怒りは瑞希には向いていない。 けれど、瑞希が目を見張ってしまうほどの強い想いを感じる。
「鍋島さんもクロも俺にとっては大事な…。」 「嫌!聞きたくない!!」 瑞希は耳を塞ぎ、勢い良く立ち上がる。
「私は…私は尚也君が思ってくれているような人間じゃないわ…。」
声が震えている。 「私は自分の欲望のためにこんなに酷いことができる人間なんですもの…。」
そして尚也を振り切るように部屋を出て行った。
「ちくしょう!!」 尚也はシーツを握り締めやり場のない怒りを必死で抑える。
サナは部屋の隅で体を震わせて怯えていた。 尚也の怒りと、瑞希の苦しみを小さな体で受け止めていたからだ。
瑞希は部屋を飛び出し、廊下を数歩、ふらふらと歩き力なく座り込む。 あれ以上尚也の言葉を聞いてしまったら、堪えきれなくなってしまいそうだったから。 あれ以上事故で失われた命に関してのことを聞いたら…今まで繋いでいた糸を断ち切ってしまいそうになるから。
ふと、電話が鳴った。
瑞希はのろのろと立ち上がり、廊下に置かれた電話台へと近づいた。 震える手で受話器を握る。
<お願い…野口さん…> 瑞希は、電話の主が最愛の男であることを願った。
『瑞希…俺だ。』 その声を聞いた時、瑞希の瞳から涙が溢れ、零れ落ちた。
「野口さん…野口さん…。」
尚也に聞こえないように気をつけながら、小さな声で縋るように名を繰り返す。 しかし、返ってきたのはとても事務的な声。
『あの少年の始末はつけたのか?』
瑞希は受話器を握る手に力を込めた。 「ええ…。あのおじさんと犬の死体と一緒に埋めたから安心して…。」 『言っておくが、これでお前も共犯だ。変な気起こすなよ。』 「わかっているわ。」 『まあ、安心しろ。あの事故のことは誰も知らない。死体が見つからない限り、事件になることはないさ。その死体は絶対に見つからないところにあるしな…。』 「ねえ、そんなことより…愛してるって言って…。」 『瑞希…?』 「お願い…。」 『…愛してるよ。』 声音は優しかったが、瑞希にはわかっていた。 …その言葉に心がないことを。 それでも、そんな言葉でも今の瑞希にとっては宝物のように欲していたものだった…。
一方、部屋に残された尚也は、ようやく気持ちを落ち付かせた。 「サナ…ごめんな。」 怯えるサナに声をかけた。 すると、サナは<もう怒ってないの?>って言っているような瞳を向けた。
「驚かせて悪かったな。…おいで。」 尚也の優しい声を聞いたサナは、尻尾を振りながら軽い足取りでトテトテと駆け寄った。 サナの澄んだ瞳が尚也に向けられる。
「クロも同じような目をしていたな。」
尚也は鍋島とクロとの出会いを思い出していた…。
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