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 女性はおずおずと尚也の傍らに座り、洗面器を床に置いた。
「サナちゃん。大人しくしてようね。」
 女性の後を小さな足をちょこまか動かしながら付いてきた犬の名前はサナ。
 メスのトイ・プードルだ。
 女性の声を聞くと、大人しく従い尚也の枕元にちょこんと座った。

<ああ、あの足音ってこいつが歩く音だったのか…>

 尚也の顔をキョトンとしたまあるい瞳で見つめているサナ。
 珍客を歓迎しているのか警戒しているのかわかないが、尚也は嫌われてはいないようだった。興味津々な眼差しを向けられている。

 尚也は心もち苦笑いしてサナから視線を移動させ、女性に目をやった。

「…体拭いてあげようと思って…。」
 尚也と目が合い、女性は俯いた。 
 ボソボソと話す小さな声や、どこか戸惑いがちな動作が彼女の陰気さを際立たせていた。

 尚也は自分の体を拭いてもらうことよりも、今の自分の置かれた現状を知ることの方が大切だった。

「あんた…誰?」
 熱のせいなのか、ずっと眠り続けていたせいなのか…声に力が入らない。

「この家の主よ。」
 尚也の問いに対し、女性は俯いたまま答えた。

「そういうことが聞きたいんじゃなくて…俺のこと看病してくれていたのか?」
「ええ。」
「お礼を言いたいところだけど、おかしな点が多すぎるんだ…。何故俺は病院に運ばれなかった?」
「……。」

 女性が何も答えなかったので<事故のこと、知らないのだろうか?>と思い、言い方を変えて尋ねてみる。

「俺の怪我が車に撥ねられたものだって知っているのか?」
「…ええ。」

<知っているってことは、今の状況がこの上なく変だってことも理解してるってことだよな>
 尚也はこの女性が一体何者なのかわからず、警戒しながら話を続ける。

「あんたが事故を起こした車を運転していたのか?」
「いいえ。」
「じゃあ事故を見ていたのか?」
 女性はゆっくりと首を横に振った。

「私は事故現場にはいなかったもの…。」
「なら何で俺の看病なんかしているんだ?何故病院に連絡しなかったんだ?」

 尚也に問い詰められ、女性は辛そうに目を瞑った。

<この女…事故を起こした奴を知ってる!!>
 尚也はそう確信した。

「誰なんだ?誰が俺を撥ねたんだ。知っているんだろ?そいつとあんたの関係はいったい何なんだ?」
 撥ねられる直前、尚也には車を運転している人物を見る余裕などなかった。
 男なのかも女なのかもわからず、見ていたのは鍋島の顔とクロの姿。
 そして、助ける為に伸ばした手が届かなかったこと……。

「ごめんなさい。言えないの…。」
 女性はポツリと呟くように言った。
<人を撥ねといて…何が『言えないの』だよ!>
 女性の落ち着かない様子から<この女は全て知っている>と感じた。
 尚也は怒りを抑え、言葉を続ける。
 一番重要なことだ。

「…どういう経緯で俺がここにいるのかわからないけれど、じーさんと犬はどうしたんだ?」
「……。」
「黙ってないで答えてくれよ。俺と一緒に車に撥ねられた年配の男と黒い犬…あんた知っているだろ?」
「…知ってるわ。」
「だったら教えてくれ!どうして鍋島のじーさんとクロはここにいないんだ?」
「…あの人、鍋島さんって言うのね…。あのワンちゃんはクロちゃんって名前だったのね。」

 女性は小さく深呼吸をした後、重い口を開いた。

「鍋島さんって方もクロちゃんも、亡くなったわ…。」

 女性の言葉に、尚也は愕然とした。
<死んだ…?>

「ここに来た時には、鍋島さんもクロちゃんももう息絶えていた。」
「…そんな…。」
「助けられたのはあなただけだった。…川田尚也君。」
「何で俺の名前を…。」
「あなたを寝巻きに着替えさせる時、制服の胸ポケットから定期券が出てきたから。」

 それを言われ、初めて自分が寝巻き姿だということに気が付いた。
 目の前の女性に自分の裸を見られたことにカっと顔が熱くなるのを感じたが、そんなことに構ってはいられなかった。

「あんたさっき、ここにきた時は鍋島のじーさんがもう息絶えてたって言っていたよな。」
「ええ。」
「もう一度聞くけど、何で俺や鍋島のじーさんが運ばれたのは病院じゃないんだ?何故あんたが
看病なんかしているんだ?」
「それは…。」
 女性に言葉を言わせる時間を与えず、尚也は声のトーンを下げて核心を突いた。

「あの事故、警察に連絡が行ってないってことだよな?」

 女性は膝に置いていた手をギュッと握り、尚也の目を見て頷いた。

「そうよ。あの事故は表沙汰になったら困るの。」
「…人が死んでいるんだぞ?」
「それでも、ダメなの…ごめんなさい…。」

<謝ってすむ問題じゃないだろ!!>
 怒りで自然と体に力を込めてしまったが、たったそれだけで痛みが走り体中が悲鳴を上げた。

「…俺のことはどうする気なんだ?」

 尚也は痛みをやり過ごした後、挑むような視線を向ける。
 事故を隠したいのなら尚也の存在はとても邪魔で危険なもののはずだ。
 それなのにこの女性は尚也の看病をしている。
 とても矛盾した行動だ。

「…正直言って私もどうしたらいいかわからないの…。あなたは絶対事故のこと警察に言うわよね。」
「当然だろう。」
「…だから、ここから出してあげること出来ない。本当は病院へ連れて行ってあげたいけれど、それも出来ないの。右足が酷く腫れてる…。骨は折れてはいないと思うけれど、ヒビは入っているかもしれない…。それに外見からはわからない怪我だってしていると思う。でも…ごめんね…。」

<監禁状態ってわけだ…>

 尚也はため息をついた。

「あんたが起こした事故じゃないのに、何のためにこんなことしているんだ?」
「……。」
「事故を起こした奴を庇っているのか?」

 女性はその質問には答えずにゆっくりと立ち上がった。

「今野菜スープを持ってくるわね。柔らかくなるまで煮込んだからきっと尚也君でも食べられると思うわ。あ、大声出したりしないでね…。って言っても…今の状態じゃ無理だろうけれど…ね。」
「…出したらどうするんだ?」
「殺すわ…。」

 女性はとても静かな声で尚也を脅した。
 …いや、脅しなどではなく、本気なのだろう。
 その言葉を言った時の女性の瞳はぞっとするほど真剣だった。

「お願いだから大人しくしていてね…。」
 そう言い残し、女性は部屋を出て行った。コトっと言う音がして、僅かに襖が揺れた。
 一応中から開けられないようにつっかい棒をしているらしい。
 ギシギシと廊下を歩く足音が遠のいて行く。
 階段を降りるような音は聞こえてこないのでこの部屋は多分1階にあるのだろうと想像できた。


<大声なんか出せやしないよ>
 正直言って、普通に話すだけでも酷く疲れた。

 サナは女性の後には付いていかず、尚也の顔を見続けていた。
 時折頭や足をピクンと動かし、愛らしい眼差しを向けている。
 …サナの様子からは、先ほどの女性からとても可愛がられて、愛されている犬だということが伺える。

「お前のご主人様はいったい何を考えているんだろうな…。」
 尚也はサナを相手にポツリと呟いた。

 一方、女性の方は台所で野菜スープを温めながら少しホッとしていた。
 尚也がちゃんと意識を取り戻し、話しが出来るくらいまで回復してくれたからだ。
 でも、まだ安心はできない。

<このままずっと放っておいたら命に関わるような内蔵の傷だってあるのかもしれない>
 女性は医者でもなければ看護婦でもない。
 尚也の看病をしながら、このまま死んでしまったらどうしようかと何度も恐怖に襲われ体を震わせた。
 それでも必死で尚也のことを助けようとした。
 尚也はスタイルが良く背が高い。スタイルが良いと言っても痩せているというわけではなく、その筋肉で引き締まった身体は女性が動かすにはかなりの労力だったはずだ。
 女性は助かって欲しいと願いを込めて一生懸命看病したのだ…。

 そんな彼女の気持ちは、尚也の心にも少なからず伝わっていた。

 尚也はサナの息遣いを感じながら自分を捕らえている女性のことを考えていた。
 事故を起こした犯人に対しては燃えるような憎悪を抱えていた。
 鍋島とクロを死に追いやった犯人を到底許せるはずもなかった。
 …ただ、先ほどの女性に対しては少し複雑な気持ちを抱いていた。

 確かに、事故を知っていながら警察にも病院にも連絡しないことに対しては怒りを感じている。
 でも、とても気になるのだ。
 あんなに弱々しげで優しい目をしているのに『殺す』と本気で語る女性。
 犯罪に加担するようなことをしてまで、一体何を守ろうとしているのかが無性に気になるのだ。

<こんな体じゃ逃げることもできやしない…>
 それならば、とにかく今は女性に従って力を蓄えるしかないと思った。

 その後…女性が持ってきた野菜スープを何とか食べ、再び一人になった部屋で睡魔を感じながらぼんやりと天井を見つめていた。

<俺が姿を消したって、誰も気にも留めないだろう>
 自嘲気味に薄く笑う。
 自分のことを信じ心配してくれる者などいないだろうと思っていた。

<自業自得だよな>
 そのことも嫌になるほど自分でわかっていた。
 日頃の生活態度を考えれば容易に想像がつく。
 特に家族に対しては<俺がいなくなった方がみんな清々するだろう>…と、感じていた。

<俺のことを探すことはしそうにないな…>
 そして、それは悲しいほど事実であった。

 ふと、尚也の脳裏に一人の少女の顔が浮かんだ。

『中山春香です…。』
 初めて会話をした時、俯きながら小さな声で自分の名を言う少女。

<あいつ、あの場所で一人で昼飯食ってんのかな…>
 春香のことを考えているうちに、ウトウトと目がまどろんできた。
 尚也は逆らうことなく睡魔に身を任せ夢の中へと落ちて行った。

 尚也と春香は、学校では毎日のように『秘密の場所』で顔を合わせてはいたものの、あまりちゃんとした会話は交わしたことがない。

 だから、尚也は考えもしなかった。
 大人しくて無口な少女が必死になって自分を探していることなど、思いつきもしなかった。

 そして、後から新たに加わる春香の味方…犬に必要以上に好かれてしまうおかしな特技を持った少年がクロの幽霊を引き連れて自分を探すことになるなんてことは、この時点では思いつけという方が無理というものだった…。

2002.6.7 

しばらく尚也に主役交代って感じ…。悟ますます影薄い?
これ読んで下さっている方で、トイ・プードル飼っていらっしゃる方が
いらっしゃったら是非お話を伺いたいので連絡くださると嬉しい…(汗)