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あなたがもし困った時、必要として欲しい

私のことを思い出して欲しい

そう願っても、あなたにとってこんな想いは何の価値もないのかしら…?

…あなたのためなら、私は何だってする

あなたの心を繋ぎとめておけるなら…なんだって出来ると思っていた…







そんな想いに囚われている、一人の女性がいた…




どっぐ きゅ〜ぴっと



2章  虜(とりこ)





 彼は10畳ほどの畳の部屋に寝かされていた。

 部屋の壁は所々茶色く薄汚れていて、天井の木目にも黒いシミが目立っていた。
 かなり年季の入った家らしいことが想像できる。
 古いが、部屋の中は綺麗に掃除され、整頓されていた。
 余計な家具は一切なく、本棚と鏡台が部屋の隅に置かれているくらいだ。
 その部屋の中央に敷かれている布団に彼は寝かされている。
 頭に包帯を巻かれ、顔も傷を手当てした部分がガーゼで覆われていた。
 酷く汗をかいている。どうやら熱があるようだ。

<くそっ!身体がちっとも動かない…>
 朦朧とした意識の中、どれくらいの時間が経過したのか、何日くらいこんな状況に
置かれていたのかもわからないでいた。
 たった今、ようやくそのことについて考えることが出来るくらいに意識がハッキリとしてきたわけだ。

 一つ一つ思い出していく。
 
 見慣れた夜の風景。
 雨の音。
 迫ってくる車のライト。
 見知った男の恐怖に怯えた顔。
 そして、飼い主を庇うように車の前に飛び出した犬。
 耳を切り裂くようなブレーキ音…。
 その直後襲ってきた衝撃と痛み…そして暗闇に落とされた。


<そうだ。俺は車に撥ねられた…>

 ようやくその事実に辿り着いたようだ。

 …少しだけ時間を遡らせて『彼』の置かれた状況を説明しなければならない。


 彼の名前は川田尚也。
 少年と呼ぶより、もう青年と呼んだ方が相応しい印象を受ける。
 目が鋭く、ガラが悪そうに見えるが、同時に落ちついた頼りになる男も感じさせる。

<ここは…どこだ…?>
 木の天井を見ながら疑問に思う。
 痛む体を庇いながら何とか首を横にして部屋の様子を伺う。
 尚也の他には誰もいない部屋。
 病院じゃない部屋…。
 それを見て、じわじわと不安に駆られる。

<俺が車に撥ねられたのは、確か…6月11日…>

 尚也は6月11日の夜、街をぶらぶらした後、自宅に帰るが母親に文句を言われ続けウンザリして
再び外へと飛び出した。
 制服を着替える間もなく、雨の降る中傘も持たずに…。

 尚也を産んだ母親は彼が3歳の時に病死した。
 その2年後、尚也の父親、和仁と現在の母親、薫とが再婚をした。
 お互い1人ずつ子供を連れての再婚。
 薫の子供は尚也より2歳年下の高志と言う名の男の子だった。

 新たな家族を加え始まった生活。
 幸せを願ってのスタートだったが…尚也と薫は、どこまでも馬が合わなかった。

 あの夜も薫から重箱の隅を突付く様な小言を言われ、鬱陶しくなり行く当てもなくフラリと外へと
脱出したのだ。

 パラパラと降って来る雨の中を歩いて行き、こんな時はいつも時間を潰していた公園に足を向けた。
自宅からは結構な距離を歩くのだが、尚也にとってこの『憩いの森公園』が子供の頃からの、家より
安らげる場所だった。

 11日の夜9時頃家を出て、雨を凌げそうな木の下にあるベンチで時間を潰し…二時間くらい
経ってから帰るため席を立った。

 公園を出てすぐに、見知った人物と犬が目に入った。

 尚也の数少ない友達だ。
 えらく年の離れた無愛想な『鍋島のじーさん』と、気が弱くて人懐こい犬の『クロ』。

 その1人と1匹が雨の中、散歩している姿が尚也の目に映る。
 対面側の歩道をクロと鍋島は歩調を合わせて仲良く歩いていた。

<こんなに夜遅く散歩か>
 尚也はクスっと笑って、声をかけようと早足で歩き出す。
 対面側の歩道に渡る為、横断歩道に辿り着いたのは鍋島たちの方が早かった。
 鍋島はまだ尚也のことに気が付いてはいなかったが、クロの方はその気配に気が付き
心もち早足になる。
 そして、鍋島たちが横断歩道を渡り初めた時、スピードを落とす気配のない車が走ってきた。
 車の運転手が彼らの存在を見落としていることは明らかだった。
 そのことにいち早く気が付いた尚也は、彼らを助けようと横断歩道に飛び出したが…
間に合わなかった。
 助けるどころか自分も轢かれてしまった。


<鍋島のじーさんと、クロはどうしたんだ?>
 一緒に車に撥ねられたはずの1人と1匹の姿が部屋にないことがとても気になった。
 自分が病院に運ばれていないということは、事故として処理されていないのではないかと
感じ始めていたからだ。

<まさか、じーさん…。死んだわけじゃないだろうな!>
 不吉な想いがこみ上げてくる。

<事故からどれくらいの時間が経っているんだ?>
 今日が何日で、何時なのか尚也には知りようがなかった。

 尚也がちゃんと意識を取り戻した今日、日付は6月15日。
 この部屋の窓は雨戸もカーテンもキッチリ閉じられていた。
 そのため夜なのかも昼なのかも尚也自身にはわからなかった。

 時刻は、彼が5日前事故にあった頃と同じ夜11時をちょっと過ぎたくらいだ。

 
 要するに、尚也の意識は時間にして丸4日分朦朧としていたわけだ。

 その間のことを思い出そうとする。

<時々誰か人のいる気配がしていた…。あと、布団の周りを駆け回る小さな足音も聞こえて
いたよな…>

 半分眠っているような状態だった自分の口に、飲み物やお粥を運んでくれていた人間の存在を
感じていた。そして、時折自分の頬を触れる柔らかな小さな存在も…。

 カタン。
 静かな部屋に襖の開く音がした。

 尚也は痛む体を庇いながら何とかそちらに顔を向け、目を見開いた。

 尚也の瞳に、女性が映る。
 そしてその女性の足元には白いふわふわした毛に包まれたトイ・プードルが纏わり付いていた。
 トイ・プードルは小さな体の小型犬だ。

「良かった…。目が覚めたのね…。」
 女性は洗面器とタオルを持っていた。
 尚也の知らない女だった。
 年齢は30歳前後だろうか…。長くて少しクセのある髪を一つに束ねていた。
 地味な顔立ちで、美人だとは言い難い容姿だった。
 肌は潤いがなく、少々痩せ過ぎな体からも酷く疲れた印象を受ける。

 …そして、とても優しげな目をしていた。

2002.6.3