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正義の味方B



行久は大学2年の春、一人の女性と知り合った。

一人暮らしをしていた行久、仕送りもしてもらっていたがバイトして生活費の足しにしていた。

住んでいたアパートの側にあった気の良い中年夫婦がやっている小さな食堂でのアルバイト。
洗い場から給仕、簡単な調理の手伝いなどをしていた。



「おばちゃーん今日の定食なぁに?」
元気な女性の声。週に3回はこの食堂で夕食を食べていく。
名前は窪田浅子24歳。OL。小柄で小動物を連想させるような可愛らしさ。
いつもコロコロと笑い、食堂の夫婦とも親しくおしゃべりをしている。
浅子もこの食堂の近くで一人暮らしをしていた。

「川野君!今日も元気に働いてるね!!」
バイトを始めたばかりの行久にも浅子は気軽に話し掛けてきた。

「今日はいつもより遅いですね」
氷の入った麦茶を浅子の前に置きながら言った。
行久は元気に笑い楽しげに話す浅子がお店に来ると嬉しかった。

「残業でね〜・・・やんなっちゃう!」
ふぅっ・・・・と大きなため息をつき「ああ、お腹すいたぁ〜」と力なく言った。
「大変ですね・・・」
「お姉さんのこと労わってくれる?川野君」
ニコっと笑う浅子・・・・その笑顔がとても可愛くて・・・行久はドキっとした・・・。




バイトして半年が経つ頃、恋愛感情というものに、とことん鈍かった行久も自分の気持ちに気が付いた。

『浅子さんのことが好きなんだ・・・』・・・と
自覚はしたものの・・・その後・・気持ちを伝えるなんて行久にとっては超難関。
いつもたわいがない世間話しかしていなかったから、浅子に恋人がいるのかどうかも
知らなかった。
食堂の夫婦にさりげなく聞いてはみたものの・・・やっぱりわからなかった。
「でも浅ちゃん可愛いから男がほっとかないだろうねぇ!」
笑いながら食堂のおばさんは言った。
行久もそう思っていた。
浅子は休日に食堂に来ることはなかった。
『好きな人と会ってるんだろうなぁ・・・』
と行久は思っていた。

ある日浅子がいつものように夕食を食べにきた時言った。
「川野君。今度の日曜暇?暇だったら一緒に映画行こう〜」

びっくりした行久。もちろん即答。
「はい!」




それからというもの浅子は時々休日も食堂に現れるようになった。

それは行久にとって、とても嬉しい事態で・・・・ただ気になったのが
その頃から浅子がたまに落ち込んでいるように見えることがあった。


2人で遊びに出かけることも多くなっていった。
映画に行ったり遊園地へ行ったり、ただ公園でぼんやりしていたり・・・
特別なことは何もなかった。ただ色んな話をして・・・行久にとって
とても幸せな時間だった。

その日浅子が「ペンギンが見たい!」・・・と言うので動物園に来ていた。

ペンギンのぺたぺた歩く姿や可愛い仕草を見て浅子は微笑んだ。
「ペンギン好きなんですか?」
行久は浅子があんまりにも愛しそうに見ているのでそう言った。
「うん。・・なんか・・・一生懸命って気がしない?歩いてる姿とか・・・仕草も・・・
不器用だけど一生懸命です!!・・・て体全体で言っているような気がして・・・」
「そう言われてみれば・・・・そうかもしれませんね」
行久はまじまじとペンギンを見つめた。


「ねえ・・・川野君・・・信じてくれている人を裏切るのって・・・・心、痛いよね・・・」
浅子が小さな声で言った。
言われている言葉の奥に何があるのかこの時の行久にはわからず
「痛いと思います・・・」としか言えなかった。

浅子は軽く伸びをして「ああもう!人間って不器用で面倒くさい!!」
・・と、言って浅子はペンギン達に背を向け歩き出した。







そんな2人の状態がしばらく続き・・・行久は決心した。

『気持ちを伝えよう・・・』そう決めた。









家がわりと近所なので浅子が遅くに食堂にきた時など行久がバイトを終えるまで
待っていてくれて一緒に帰ったりもした。
行久は、ほんの短い距離だけれどいつもの浅子のアパートの前まで送っていた。

その日も2人で夜道をゆっくり歩き・・・
「じゃあね!川野君!」
微笑んで手を軽く上げアパートの階段を上がろうとする浅子を行久は呼び止めた。

「浅子さん」
「あぁに?」
キョトンとして振り返る浅子。
行久は勇気を総動員して言った。
「浅子さんは・・・付き合っている人・・・いるんですか?」

行久の言葉に浅子は一瞬動揺したように「えっ・・・」と言い・・・
ゆっくりと目を閉じた。うつむきながら小さな声で言った。
「・・・いないわ・・・」

様子が明らかにおかしかった。
とても苦しげにうつむいている。
行久は自分自身が緊張していたため、そんな浅子の様子に気がつかなかった。

「俺・・・浅子さんのことが好きなんです」

浅子はゆっくりと目を開き・・・行久を見つめた。
行久はうつむいて返事を待っていた。


「・・・返事は・・・少し待ってくれる・・・・?」

行久は小さく頷いた。










それから1週間浅子は食堂に現れなかった。
その状態が2週間目に入った時
心配になった行久は浅子のアパートに行ってみたりもしたが
いつも留守だった。

『どうしたんだろう・・・』・・・・気持ちを伝えた直後のことなので行久はとても不安になっていた。



夜中ぼんやりテレビを見て・・・でも内容なんて全然頭に入ってなくて・・・。
考えていることは『浅子さん、どうしたんだろう・・・何かあったんだろうか・・・』と、そんなことばかり。
以前浅子からもらっていた会社の名刺を手にとって見つめる。

会社に電話なんてしたら迷惑だよなぁ・・・そう思いため息を付いた。





それでもやっぱり気になって・・・次の日の夕方、行久は浅子の会社の前に立っていた。
『まだ4時半か・・・』腕時計を見て終業時間まで間があると思い
あたりを見回すとちょうど会社の真向かいに小さな喫茶店あることを発見した。

行久はそこで待つことにした。
喫茶店の窓からは会社の正面玄関が良く見える。

『俺・・・いったい何やってんだろ・・・・』考え過ぎてどんどん思考が暗い方へ突っ走っていく。
バイトは『風邪引いた』と嘘付いて休んでしまった・・・優しいおじさん達に申し訳なく思った。
それに・・・・もし避けられているならこんな風に待ち伏せみたいなことしたらもっと迷惑かけてしまう。
帰ろうか・・・と何度も思ったが・・・・・・結局待ち続けた。

PM5:30過ぎ・・・会社から出てくる人が多くなる。どうやら終業時刻らしい・・・。
浅子の姿を探す。



その時
「・・・あの総務の窪田さんの噂・・・知ってる?」
・・・そう言いながら店に入ってきた女性がいた。
女性2人・・・話に夢中になりながら行久の後ろの席に着いた。

行久は『窪田』という名字にドキッとしていた。
『確か浅子さん・・・総務部だったよな・・・・』名刺をみて確認する。


「窪田って・・窪田浅子さんのことよね・・・・もうじき結婚するんじゃなかったっけ?」
「うん。あと式まで3ヶ月・・・だったかな・・」



『結婚?』・・・行久はその言葉に愕然とした。


「で?どんな噂なの?」
「結婚式延ばして欲しいって高橋さんに言ったらしい。廊下で少し言い合いになってたんだって」
「え〜??どうして〜?」
「知らない。高橋さんとケンカでもしたんじゃない?」
行久は今すぐにでもこの場から逃げ出したかったが足が動かず・・・耳も彼女たちの
会話の言葉を拾ってしまう。


「でも最近窪田さん元気ないよね。いつも元気一杯の人だったのに・・・そのケンカのせいかな・・・」
「そうなんじゃない?」



行久はやっとの思いで立ち上がり店を出た。
そのまま目的もなく街をさまよった。


浅子には『高橋』という婚約者がいた。
行久は頭の中で『嘘だろ?』『何で?』『何で言ってくれなかったんだ?』そんな言葉が
グルグルまわっていた。

『でも最近窪田さん元気ないよね。いつも元気一杯の人だったのに・・・』
さっきの女性の言葉が頭に響く。



「・・・俺のせい・・・?」行久は小さな声でつぶやき・・・立ちつくしていた・・・・。

浅子の笑顔が脳裏を過ぎった・・・。







浅子は実家に帰っていた。もちろん会社にはちゃんと行っていた。
会社から実家は割と近い。一人暮らしは早く自立したくて始めたことだった。


浅子は・・・・迷っていたのだ。
行久に好きだと言われ・・・迷ってしまったのだ・・・・・・・。
すぐにでも『婚約者がいる』と言わなければいけなかったのに・・・言えなかった。


嬉しかったのだ・・・・。

その気持ちに愕然とした。

もっと前から気がついていた・・・ただ認めるのが恐かった。

行久といると楽しかったのだ。
幸せだと思ったのだ。


でも婚約者・・・高橋への気持ちも大切だった。
高橋は会社の先輩で浅子が入社してしばらくしてから付き合いだした。
好きになって・・・3年間付き合って・・・結婚しようと決めた相手。

浅子はどうして良いのかわからなかった。
自分の気持ちがどこにあるのか・・・わからなくなっていた。

だからしばらくの間2人になるべく会わずに考えたかった。

実家の母や姉にも相談したかった・・・だから帰ってきた・・・。
でも結局相談できぬまま時間は流れていった。




結婚まで3ヶ月・・・答えを出すには短いと感じた。
思わず高橋に延期してくれと口走ってしまった。
『どうして?理由を話してくれなければわからないよ!』高橋からの当然の言葉。
・・・答えられなかった・・・・。






行久が会社へ行った日浅子は久しぶりに自分のアパートの方に帰ってきた。
部屋に入り着替えの入った旅行用の鞄を置く。
電話が目に入り留守電のランプが点滅していることに気が付く。

留守電が1件。何となく・・・聞くのが恐かった・・・。
少しためらってからボタンを押した。

『・・あの・・・川野です・・・』
浅子はドキッとした。何も言わずにしばらく姿をくらましていたから心配させてしまったんだろうと
初めは単純に思っていた。
でも・・・
『・・・・この前の返事はくれなくていいです・・・俺が言ったこと忘れて下さい。
あの・・・知らなかったから・・・すごく迷惑なこと言っちゃって・・・すみませんでした』
浅子は・・・初めのうちは行久が何を言っているのか理解出来なかった。

忘れて下さいって・・・どうして?

わけがわからず混乱した。
でも行久の最後の言葉で・・・わかってしまった。


『幸せになって下さい』





『川野君・・・知っているんだ・・・』浅子はそう確信した。
何故知っているのかはわからない・・・でも知ってしまったんだ。
私が結婚することを・・・・。

浅子はしばらく電話の前から動けなかった。
どれくらの時間が経ってからだろう。ぼんやりと・・・『私・・・最低だ・・・』
そんな想いが胸を締め付けた。

高橋にも行久にも本当のことを言わず・・・行久には嘘までついた。

気持ちをハッキリさせてから返事をしようと思ったからだ。
2人にいい加減な気持ちでは向き合えないと思ったからだ・・・。
『でもそんなの・・・言い訳だ・・・・』
浅子は自分の身勝手さを感じ・・・泣いた。








次の日、浅子は会社を定時で上がり食堂へ行った。
とにかく行久に会って謝りたかったからだ。
緊張しながら店に入る・・・・と、そこには行久の姿はなかった。

「おお!浅ちゃん久しぶりだねぇ!元気だったかい?」
店のおじさんの明るい出迎えの言葉。でも、そんなことよりも・・・・
「あの・・・川野君は?」

その言葉に渋い顔をして答えた。
「それがさぁ・・・昨日風邪で休まれて・・今日電話があって『辞めさせて欲しい』って言われちゃってさあ」
「辞めさせて欲しい・・?」
「うん。働き者だし・・・何ていうか・・・気持ちのいい子だったから辞めて欲しくなかったんだけどね・・・
何でも勉強が忙しくなるらしくて・・・仕方がないね新しいバイト探すしかないよな・・・・・・あれ?
浅ちゃん?」
そのことを聞いて浅子はすぐに店を飛び出した。
頭の中は行久のことで一杯だった。
『ごめんなさい!ごめんなさい!!』
心の中でそう叫びながら必死で走った。


1度だけ行久のアパートの前までは行ったことがある。
行久のアパートまで走って行き部屋の前で息を整える。
『とにかく会わなきゃ・・・』そう思いドアのチャイムを鳴らす。

でも・・・行久はいなかった。

それから何日か浅子は行久のアパートへ通った。
でもいつも留守で・・・・いや、もしかしたら部屋にいたのかもしれない・・・避けられてる
・・・そんな考えが浅子の脳裏を過ぎる。


浅子は避けられていることを徹底的に思い知らされた。

そして・・・こうなってようやく行久のことがどうしようもなく好きなんだ・・・ということも思い知らされた。








行久は浅子を避けている・・・というより忘れようとしていた。
新しいバイトを見つけ働いていた。
夕方からはコンビニで夜間は道路工事のバイト。
とにかく疲れたかった。何も考えられないくらい疲れて眠りたかった。
おかげで大学の授業では爆睡していた・・・。
『気持ちなんて打ち明けなければ良かった・・・』と後悔し自分を責めていた。

また浅子にあの笑顔が戻ってくれることを願っていた。







そんな状況が1ヶ月くらい続き、浅子は精神的に追い詰められていた。
眠れない夜が続き食欲もまったくなくなり・・・・ついに体が悲鳴を上げた。
会社で倒れたのだ。
病院に運ばれ、高橋はずっと付き添っていた。
病室のベッドで目覚めた浅子の目に入ってきたのは高橋の心配そうな顔。

「浅子・・・」
目覚めたことに安堵し微笑む高橋。

高橋友一。26歳。背はさほど高くはないが体つきはたくましい。年齢より落ち着いて見える外見。
明るく前向きな青年だ。浅子のことをとても大切に想っている・・・そのことが行動や表情で
よくわかる。





高橋の顔を見るなり浅子は泣きながら訴えた。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・婚約解消して下さい」
取り乱して泣きながら話す浅子。
高橋はそんな浅子を焦りながらも落ち着かせようとした。
・・・・・何も言わずに浅子の言葉を受け止めた。


「私・・・好きな人が出来たの・・・あなた以外に好きな人が出来たの・・・・でも・・・ひどいこと
しちゃったの・・・・」

浅子は全てを打ち明けた。行久のことも自分の気持も・・・どうしようもないこの状態も・・・。
会ってくれない行久。
ひどいことをした自分。
そんな自分に優しくする高橋に対する気持ち。


全てを吐き出していた・・・・・・・。













夜間のバイトを終えアパートに戻る行久。
ドアの前に見知らぬ男が立っていた。

『誰だろう・・・』そう思いながら近づく。
男の方も行久の姿が目に入り声をかけてきた。

「・・・君・・川野さん?川野行久さんですか?」
「・・・はい」
少し警戒しながら答える。
「俺は高橋友一です。窪田浅子の婚約者です」
行久は驚き・・・高橋を見つめた。




高橋を部屋にあげてお茶の用意をしようとする。
「すぐ帰るからそんなことしなくていいよ・・・それよりこっちへ来てくれないか?」
座りもせず玄関のすぐ横で立ったままの高橋が言った。


行久は言われるまま数歩歩き高橋と向かい合うような形で立った。

高橋は小さなため息をつき静かに言った。
「・・・浅子・・・入院したよ」
「・・・え・・?」
「君と俺とのことで悩んで・・・追い詰められていたんだ」
行久はショックで何も言葉が出なかった。
入院って・・・いつから?大丈夫なのか?
聞きたいことは山ほどあるのに何一つ言葉にならなかった。
そんな行久の気持ちが伝わったらしく高橋はすぐに状況を説明してくれた。
「3日前会社で倒れたんだが体の方は大丈夫。すぐに退院出来るよ・・・」
「体の方は・・・?」
高橋の言い方が気になった。
「・・・心は・・・疲れきってるよ・・・彼女」
そう言いもう一度ため息を付いた。
「ここに来たこと浅子は知らない・・・。浅子はありのまま全て話してくれて・・・君のことも話してくれた。
ここの住所は君がバイトしていた食堂の人に聞いた・・・。彼女はこんなこと望んでいないと思うから
・・・・・これは君のせいじゃない。それはよくわかってる。けど・・・ごめん。やっぱり許せない」

高橋が言葉を言い終わった瞬間行久は左の頬に衝撃と痛みが走りバランスを崩し床に倒れてしまった。

殴られたんだ・・行久はそのことがわかるまで少し時間がかかった。
口の中が切れたらしく鉄の味がした。
殴った側の高橋も右手が痛かったらしく軽く撫でていた。
のろのろと上半身だけ身を起こし行久は高橋を見つめた。
ぼんやりと殴られても仕方がないよな・・・俺が気持ちを伝えたせいでこんな状態に
なってしまったんだから・・・と考えていた。

でも高橋が殴った理由は少し違っていた。
「君が浅子と向きあってさえいれば彼女はあそこまで苦しまなかった。
ボロボロの状態にならなかった・・・君が浅子から逃げさえしなければ・・・」
「・・・逃げる・・・?」
「そうだろう?君は逃げた。浅子の気持ちを知ろうともせず勝手にあきらめて逃げ出したんだ」

行久は高橋に心を見透かされたような気がした・・・。

彼女の幸せを願って離れていった。浅子の苦しむ顔を見たくないから離れていった。
・・・・・・本当にそうなのか?
本当は・・・自分が傷つきたくなかったからじゃないのか?
恐かったんじゃないのか?
結果を出すことも辛そうな彼女を見ることも恐かったんだ。

・・・・・・勝手に諦める方が・・・・・楽だったんだ・・・・・・・。

「俺は浅子を必ず幸せにするよ。必ず結婚する。あの明るい笑顔を取り戻してみせる・・・。君には渡さない。
だからもう彼女に近づかないでくれ。・・・・もし諦めないというのであれば戦うよ・・・俺は最後まで諦めない。
君には絶対負けない」

言い終わると高橋は靴をはきドアのノブに手をかけた。
ドアを開け・・・出て行きかけて・・もう一度行久の方へ振り返り言った。

「浅子は君を選ぼうとしていた」

高橋は一瞬辛そうに目を瞑り足早に去っていった。

閉まるドア。

行久にとって信じられない言葉だった。

『浅子は君を選ぼうとしていた』
・・・そんなこと考えもしなかった。

もし・・・自分の気持から逃げ出さず彼女と向きあってさえいれば・・・
諦めさえしなければ・・・彼女をここまで傷付けることはなかったのか?

行久はしばらく動けずにいた。







今からだって浅子との未来を変えられる可能性はあった。
もし行久が、自分のせいで笑顔をなくしてしまった彼女から逃げずに向かい合い、
周りの人達の心を傷つけてでも、それでも自分の気持を伝え貫き通すことが出来たなら
きっと未来は変わっていた。

でも行久は動こうとしなかった。



『結局・・・自分のことしか考えていなかったんだ・・・』

行久はゆっくりと床に寝転び天井を見ながらクスッと笑った。
こうしている瞬間にも逃げている・・・・行久はそんな自分を捨ててしまいたかった。

「最低だ・・・・・俺って」








最後の最後まで逃げたままだったのだ。

浅子の気持ちからも行久自身の気持ちからも・・・。






















佳代は何も言わず静かに行久の話を聞いていた。
行久も佳代から何か言葉を言って欲しかったわけではなく
ただ自分の中の気持ちを言葉にして吐き出したかっただけなのだ。


話が終わり、しばらく2人とも黙っていた。


店を出る前に佳代は一言だけ言った。
「・・・もう、いい加減自分を許してあげたら?」

行久はため息をつき力なく微笑んだ。













「佳代!佳代ったら聞いてるの?」
明日香の声に佳代は現実の世界へ引き戻させた。

ああ・・そっか、今明日香と飲んでたんだっけ・・・と佳代はのろのろと考える。
「大声出さなくたって聞こえてるわよ・・・」
佳代は面倒くさそうに答えた。

行久を明後日の飲み会にどうやって引っぱり出すかの作戦。
明日香はどうやら何か思いついたらしい。


「私、川野課長に頼もうと思うの!」
川野課長・・・琴子のことだ。
「頼むって・・・何を?」
佳代は呆れたように明日香を見る。
明日香はニコっと笑って言った。

「旦那様にもたまには羽を伸ばさせてあげたらどうですかって、言うの」
「羽?」
「川野君が断るのって子供がいるからだと思うのよね・・・だったら
奥様に羽を伸ばせる時間を作ってもらえばいいでしょう!」
自身満々に話す明日香。佳代は呆れながらもこの作戦は案外上手くいくかもしれないな・・・
と思っていた。





川野課長。美人だし仕事も出来る。見ているだけで自信と強さが伝わってくる・・・。
佳代は琴子のことを思い浮べた。







『課長は・・・川野君のあの話・・・・・知っているのかな・・・・・』
佳代は・・・・今、自分が醜い気持ちになっていることを自覚していた。


















その頃行久は里奈を寝かしつけるために絵本を読んで・・・
睡魔に誘われ里奈の横で一緒に平和な夢を見ていた・・・・・。
2001.7.2

(ちょこっと後書き)・・・う〜ん(汗)難しい。この話が核になるので慎重に書いたんですが(大汗)