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涙のわけ

「朝から気分が悪い。この話はもう終わりだ!席に戻りたまえ!」

 企画部長が忌々しげに吐き捨て、女子社員から顔を背ける。
 女子社員は肩を震わせ、クルリと向きを変え、こちら側に振り向いた。
 あ、企画課の楠木先輩だ。涙で目が潤んで真っ赤だ…。
 楠木先輩は確か入社5〜6年目だったよな。
 無口で地味な人だけど、忙しい時何か頼まれてもいつも嫌な顔一つせずに働いている、とても感じの好い人だ。
 その先輩が部長を怒らせるなんて…どうしたんだろう。
 楠木先輩は手の甲で涙を拭い、席には戻らずに足早にフロアを突っ切り、廊下に出て行ってしまった。

「部長…。私は楠木君の言い分も一理あるような気がしますが…。」
 企画課長が、遠慮がちに部長に意見する。
「煩い!あんな生意気な女子社員見たことない!」
 部長はまったく取り合う気配も見せず、課長はため息をついて、薄くなり始めた頭を撫でながら席に戻る。

 何があったんだろう…。
 企画部の面々は事情を知っているようで、泣き出す女子社員もいれば、苦笑いしている男性社員もいる。
 ふと、香苗の顔が目に入り、視線釘づけになる。
 挑むように一点を睨んでいた。視線の先には企画部長がいる。
 怒ってんのか?

「香苗?」
 おもわず小さな声で名前を呼んでしまった。
 今の香苗は誰が見ても怖いぞ。呼んだのはそのことを教えるためでもあったのだが。
 すると、香苗はハッとし顔を上げ、俺の方を見た。
 一瞬表情が緩み、何故だか悲しげな顔に見えた。けれどそれは一瞬のことで、すぐに猫かぶりの顔に変化する。

「あ、おはよう。椎名君。企画部、何があったのかしらね。」
 可愛らしく小首を傾げ言った後、給湯室へ向う。
 香苗の奴、知らないふりをしてるな。
 俺は自分の席に座り、企画部の様子を見続けた。
 しばらくして、みんなのお茶を入れ終えた香苗がお盆を持って現れる。
 各机を回って湯飲みを置いていく。
 俺の席にも優雅な手つきで湯飲みを置いてくれた。
 と、いつの間にか企画部長が香苗の傍に来ていて、にこやかに話しかける。

「宮内君。いつも笑顔が爽やかだね。」
 さっきとは打って変わってご機嫌なニコニコ顔。
 太ってポンッと出たお腹を前に出し笑っている。
「ありがとうございます。」
 香苗も愛想良く答える。先ほど射すような視線を部長に向けていたとは思えないにこやかな対応。

「うちの企画部にも君みたいな子が欲しいよ。」

 ため息混じりに呟き、自分の席に戻っていく。
 …これは楠木先輩と香苗を比較して、みんなにわざと聞こえるように言ったのだろう。
 どんなわけがあるのか知らないけど、何だか嫌味な人だな。
 企画部長は仕事はデキるけど、女子社員に対して露骨に区別したがる。
 うちの会社は総合職と一般職には分かれていない。雇用条件は男女同等だ。ただ、実際は女子社員は事務処理や補助的な仕事に回されることが多い。男性と肩を並べて働きたい、出世したいと願っている女性にとってはまだまだ生き難い会社だろう。
 特に企画部長は女子社員が一線でバリバリ働くことを嫌う。
 大人しく従っている女子には優しいが、求められた仕事以上をやろうとすると途端に不機嫌になる。
 今回の場合もそのことに絡んでいるように思えるけれど、でも、何で楠木先輩が?

 俺は真正面に座る香苗に小声で話しかける。

「あの、宮内先輩。企画部で何があったのかご存知ですよね?」
 ちゃんと猫被り用の口調で尋ねる。
 書類に目を通し始めていた香苗は、顔を上げて苦笑いする。

「…昨年のうちの会社のヒット商品、知ってる?」
「え?あ、はい。」
 確か、インスタントのうどんで、サッパリした味とかカップの小ささ、パッケージの可愛さで女性に人気があったとか。
 就職活動の時、試しに食べてみたんだよな。

「あの商品を企画したチームに楠木先輩もいたの。まあ、与えられたのは議事録や書類を作る補佐的な仕事だったけどね。」
「そうなんですか…。」
「…多分、午後あたり業務連絡で回覧が回ると思うけど、今日昇格があるらしいの。」
「昇格?」
 確かうちの会社って4月と10月に大々的に昇格や人事異動をしているはずだよな。
 まあ、月1でちょこちょこと発令されてもいるけど…。
 S食品ではまずヒラ社員は等級で分けられて、それによって給料も変わる。
 3等級が一番下で、2等級、1等級と上がっていく。次に待っているのは主任から始まる役職だ。
 ちなみに俺は今3等級。在職年数や仕事で秀でたりするとどんどん昇格していく仕組み。
 で、その昇格がどうしたんだ?

「その企画に関わった彼女以外のメンバーは全員昇格するらしいのよね。」
「…え?」
 会社に利益をもたらした企画だ。昇格しても当然だろうが…一人だけ外されるってどういうことだ?

「もし楠木先輩が本当に補佐的な仕事しかしてなかったら、彼女も納得するとは思う。けどね…。」
 香苗の目の色が険しくなる。
「その企画、煮詰まった会議中に、ポツリと楠木先輩がアイデアを言ってみたものを検討して出来上がったものらしいの。」

 …何だって?

「ちなにみ、このチーム、彼女以外は全員男。楠木先輩、今朝部長から口頭で昇格の内示を受けていたメンバーを見てて、自分が外されたことを知って即座に抗議したの。それがさっきの騒ぎ。」
「…楠木先輩のアイデアだったんですよね?」
 だったら抗議して当然だ。
「そうよ。でもね、部長の言い分では、そのアイデアを使い物になるように完成させたのは彼女以外の男性社員だって言ってるわけ。」

 なるほどね。企画部長の考えそうなことだな。
 
「楠木先輩、一生懸命企画に参加してた。女子社員が残業するのを嫌がる部長だから家で企画書作ってきたりして。でも、何もかも報われない。あの部長の下で働く限り、楠木先輩は報われないわけよ。ったく、ふざけんなよな、あの狸オヤジ!」

 か、香苗…口調が…猫がパラパラと逃げ出し、地が出てるぞー。
 でも、俺も何だか狸オヤジと叫びたい気分だ。
 そんな思いを込めて部長を睨むと、椅子に座っていた部長は丸いお腹をポンッと叩いていた。

 このことがなければ、多分香苗の婚約指輪が朝の話題をかっさらっていただろう…。
 周囲の面々が指輪のことに気がついたのは、この後数時間後だった。

2002.12.1