企画課の課長が笑いながらフロアに入って行くのを見届けて、俺は再び香苗を問い詰める。
「なあ、誰に結婚申し込まれたんだよ!」 「だからぁ。何であんたにわざわざ言わなきゃなんないわけ?」
香苗はプイッとそっぽを向いてしまう。 確かに香苗の言うとおりだ。 …そうだよな。香苗が誰と付き合おうが、誰と婚約しようが、誰と結婚しようが、俺には口を挟む権利なんかない。
それを悟りちょっとショボンとしていると、何故か急に香苗が俺の腕を引いて非常階段の方へ向う。
香苗は勢い良くドアを開け、俺を引きずりこむ。
ドアを閉めた香苗は小さなため息をつく。
俺はどうリアクションをとっていいかわからず立ち尽くしていた。 香苗はゆっくりと俺の方に身体の向きを変え、ドアに背中を預けて腕組をし俺をちょっときつい目で睨む。
「噂くらい聞いたことない?」 「噂?」 「私と総務部の園田課長の噂。」 「…やっぱ相手は園田課長なのか?」 「そうよ。」 香苗の即答ぶりに、俺は覚悟はしていたもののかなりの衝撃を受ける。
「半年くらい前から付き合ってるの。で、昨日の夜、食事に誘われて、指輪渡されて、プロポーズされたってわけ。」 「返事は…。」 「OKに決まってんでしょ?でなきゃ指輪なんかしてないっての!」
香苗は左手を軽く上げて、ダイヤが光る指輪を見つめて微笑む。 …何だろう。今の香苗は愛する男と結婚することを夢見てうっとりしているって顔じゃない…ような気がする。 誇らしくは見えるものの…どこか暗い情熱のようなもんを感じてしまうのは何でだ? 昨日飲み会で聞いた噂が俺の脳裏を過ぎる。 あの噂を気にしているから、どこか歪んだ目で見てしまうのかな。
「…香苗。一つ聞いてもいいか?」 「何?」 「お前…本気で園田課長のことが好きなのか?」
『当たり前じゃない!!何言ってんのよ!』って言って俺を殴って欲しかった。 噂通りの女じゃないと信じたかったから。 なのに、俺の中で矛盾するもう一つの願いがある。 言葉を詰まらせ、押し黙る香苗を祈るように期待する。 香苗は本気じゃないと思いたかった。
香苗は俺の前では猫を被らないし嘘もつけない…そう思っている。 だからこそ、香苗の反応で本心を知ろうとした。 でも、香苗の答えは俺の想像の範囲を超えていた。
「…何でそんなことを聞くの?」 「え?」 「どうせ私を玉の輿狙いの女だって言ってる連中の噂話聞いたんでしょう?」
はい。その通りです。
「聞いたけど、俺は噂なんか信じてないよ。」 「別に信じようが信じまいがどっちでもいいわよ。尻尾捕まれるようなヘマはしてないし、園田さんもそんな噂話信じちゃいないから。」
…ちょっと待て。 今の言い方からすると、噂が事実ってことか?
「洋介。私に何を期待していたの?」 「何って…。」 「噂はかなり尾ひれが付いて大袈裟になってるけど、私が玉の輿を狙ってんのは本当。」 「嘘だろ…?」 「何ショック受けてんのよ。愛だけじゃ生活してけないでしょう?誰だって優雅な生活夢見るでしょう?」 「でも、それだけじゃなくて…園田課長を好きだって気持ちもあるんだろ?」 「……。」 香苗は俯いて押し黙る。 が、しばらくすると大きなため息をつき、忌々しげに俺を睨む。
「何で洋介なんかに再会しちゃったんだろう。」 今さら何言ってんだ。 そんなこと言っても仕方ないだろ。それより質問に答えろ!
「嘘なんか平気でつけるのに何で洋介相手だとそれが出来ないのよ!今だって何も馬鹿正直に本心語ることないのに…。」
香苗はうろうろと踊り場を歩き回り、自問自答し始める。 おい?香苗?どうした?なんだか壊れてるぞ?
「こんな単純馬鹿、騙して穏便にことを運ぶことができんのに、何でこんなにイライラすんのよ!!」
もしもーし。こんな単純馬鹿って俺のことっすか? と、香苗がいきなり俺の胸倉を掴み、声のトーンを下げて言う。
「いい?今後私に仕事以外で話しかけないで。」 「何でだよ。」 「あんたと話してると全ての調子が狂うのよ!」 「調子が狂うって……そんなことないだろう?みんながいる時はちゃんと猫被れてんじゃんか。」 迫力に押されながらも反論する。 「違うのよ!そんなことじゃなくて…。」
何だろう。香苗は酷く辛そうだ。 こんな香苗初めて見た…。
香苗の手の力がフッと抜け、胸倉を解放される。
「…とにかく、私は園田さんとの結婚に人生かけてんだから。」
そう言いドアノブに手をかける。 俺は咄嗟に聞いた。
「それは玉の輿ってだけじゃなく、本気で園田課長を好きだってことか?」 「……そうよ。」
香苗は答えた後逃げるように去って行った。 残された俺はしばし考え込んでいた。
香苗は結婚に対しては本気でも、園田課長に対し恋愛感情はない…と思ってしまう。 半分は俺の願望からくるものだったが、みょうに確信もしていた。
香苗に対する噂が真実なんだと本人に肯定されショックを受けているくせに、香苗は園田課長を愛しちゃいないと希望を持ってしまう自分が情けない。
「俺は…何で香苗のこと好きになっちゃったんだ?」 そもそもあいつは俺の天敵だったはずなのに。 それなのに今じゃ香苗のことが気になって仕方がない。
いや…子供の頃の俺も、香苗に反発しながらも彼女のことが気になって仕方なかったのかな。
小学校4年生。香苗との最後の勝負。取っ組み合いの喧嘩。 負けた理由は俺の方が力が弱かったってこともあるけど、反撃のチャンスは何度かあった。 でも、どうしても反撃出来なかった。 取っ組み合いの喧嘩で勝負しようと言い出したのは香苗の方。 俺は頷いたものの覚悟は出来ていなかった。人を殴ることに対し恐怖と拒絶もあったし、しかも女の子に対し暴力を振るうなんて嫌だった。
だがしかし!ハッキリ言って当時の香苗の強さは半端じゃなく、格闘中そんなことを考えている余裕などはなかった。 …余裕などなかったはずなのに、香苗が見せた一瞬の隙に振り上げた拳を下ろすことは出来なかった。
どうしても出来なかった…。
「今頃気がつくなんて俺ってすげー鈍感だ…。」 勝気でプライドが高く、けれど、だからこそ誰よりも努力してきたんだろう…今ならわかる。 香苗の自信は決して『自信過剰』なのではなく、彼女が努力し手に入れてきた確かなものなのだから。
そんな香苗に初めから惹かれていたんだ。
今もみんなの前では猫被ってるけど俺の前では昔のままの香苗だ…。
なのに何でだ? 玉の輿。 俺だってどっかのお金持ちのお嬢様が俺のことお婿にもらってくれないかなぁ〜とか思うことはあっても、本気でなんて考えていない。もちろん憧れもあるしそういう面を重視する奴がいるのもわかる。 けれど香苗の場合はどうしても腑に落ちない。
もし大金持ちになりたければ、自分の力でのし上がり稼ぐはずだ。 将来の社長婦人を夢見て玉の輿結婚を選ぶより、自分の実力で社長という地位を勝ち取る奴だと思う。 ここで始業ベルが鳴り、俺は無意識のうちにフロアへ戻って行く。 フロアへ足を踏み入れ、異変に気がつく。 3階には俺たち営業部と企画部が入っているのだが、企画部の雰囲気がおかしかった。
上座にある企画部長の席で、立ち尽くす女子社員と企画課長。 部長は不機嫌極まりない顔でふんぞり返って腕組をしていて、女子社員は後姿しか見えないけど微かに聞こえてくる嗚咽……泣いてるのか? 女子社員の横で、気の良い企画課長は困り果てている様子。
営業部の面々も、香苗も…企画部の張り詰めた空気に顔を強張らせ、食い入るように見つめていた。
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