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ある恋の物語

 結局、俺の怪我は5針ほど縫ったが、幸いなことに、大事に至るような深手ではなく、神経やらも無事だった。
 その後、青木さんは以前にも増して完璧に仕事をこなすようになった。
 園田課長はと言うと、11月に関連会社に出向が決まっている。その出向先の社長さんは、園田社長や伊藤専務の古い友人でかなり厳しい人らしい。修行をし直せと言うことなんだろうか…。

 で、社内公募の結果がどうなったかって言うと、楠木先輩の案がダントツの指示を受け、採用された。
 社長の決裁もおりて、来月にはプロジェクトチームが編成される。
 俺たちの案は残念ながら、今回は落とされてしまったが、嬉しい知らせもあった。『研究すべき題材』として、近い将来プロジェクトチームを発足させることが内定したそうだ。
 その際、当然、香苗と俺がそのチームの中心的役割を果たすことになるだろう!…って勝手に解釈して、自然に笑みがこぼれてくる。

 「それは、おめでとうございます。今回採用されなかったことくらいで、宮内さんのことですから、へこたれてなどいないでしょう。寧ろ、次へ繋げられて張り切っているのではないですか?」
 作次郎さんがもずく酢を小鉢によそいながら言う。
 「ええ。もう、俄然張り切っちゃっています!」
 それを聞き、作次郎さんは楽しげに笑う。
 今夜は『作次郎の家』で、俺と香苗でささやかながら、お疲れ様会を開くことにした。ここんとこ、色んなことがあって忙しかったから。
 「香苗の奴、遅いなぁ。」
 時刻は6時半。香苗は工場長とのミーティングで出先から直接ここへ来ると言っていた。
 「きっと仕事に夢中になっているんですよ。気にせず、せっかくですから私とさしで飲みましょうか。」
 「え?」
 俺が驚いている間に、作次郎さんは2つのグラスとビンビールを持ってカウンターから出てきて、俺の隣に座る。
 ここで初めて気が付いた。いつもならこの時間、作次郎の家にはお客さんが我こそ先にって感じで店の暖簾をくぐってくるのに、今夜はまだ俺だけだ。
 「さ。椎名さん。」
 作次郎さんがグラスを差し出したので、受け取り、ビールを注がれる。
 俺は戸惑いながらも、今度は作次郎さんのグラスにビールを注ぐ。
 で、まじまじと作次郎さんを見詰めてしまう。
 「椎名さん?どうなさったんですか?」
 「あ、いえ…。」
 言葉を濁してしまったが、どうせお見通しなんだろう。
 「仕事中の私がお客様と気軽に晩酌するなんて、似合わないですか?」
 …あえて意思表示しなかったが、そう思う。作次郎さんは『客』と『店のマスター』って線引きを誰よりも厳しく引いている人だから…。人をもてなすことにかけては天才的。でも、その逆は…想像すら出来ない。
 「無理もないですね。私も自分自身居心地悪いことをしているなと思います。けれど、今夜はどうしても、あなたと宮内さんと美味しいお酒が飲みたかったんです。だから、今日は貸切にしてしまいました。」
 「作次郎さん…。」
 「たまには良いですよね。」
 グラスを俺の前に差し出し、微笑んだ。俺はつられるようにグラスを持ち、乾杯した。
 今日の作次郎さんはいつもより近い『距離』に感じられ…一つ、前からどうしても聞きたいことがあったことを、自然と口に出していた。
 「作次郎さん。何故俺たち…S食品を使う気になってくれたんですか?」
 「充分楽しませていただいたし、これからも楽しませてもらえそうだと感じたからです。」
 「は?」
 あまりに意外な理由に、口をあんぐり開けてしまった。
 作次郎さんは、思わずって感じで笑いを洩らす。
 「宮内さんって人は、勝気で融通が利かなくて無鉄砲で、どうしようもなく鬱陶しくて…素敵な人ですね。」
 「作次郎さん…?」
 作次郎さんってば、文句なんだか褒めてんだかわからないような言い方だなぁ…。
 「宮内のこと、苦手と言った割に楽しんでるって、何だか矛盾してないですか?」
 俺、反論してみる。
 作次郎さんは、少しだけバツの悪そうな笑みを浮かべた。
 「苦手なのは事実ですよ。宮内さんと話していると、言いたくもないことを言ってしまったり、曝け出したくないことまで曝け出しちゃいますからね。」
 「それは、あなたの本心を言わされてしまうってことですか?」
 「…まあ、そんなところですね。」
 「作次郎さんって、自分のことを話すのが嫌いなんですか?」
 「嫌いですよ。だから、宮内さんは苦手なんです。」
 作次郎さんは手にしたグラスを軽く揺らした。
 「私は昔から、人の気持ちってのに敏感で、特技だと自負しているくらいでした。だからなんでしょうかね。相手が私に望んでいる『役割』を演じていました。その分、私自身はいつも冷静で冷めていましたし、私を必要としてくれる人に対し、どこか傲慢になっている時さえありました。相手が私を身近に感じてくれているのがわかっていても、私は心の中ではその距離を認めませんでしたから。」
 「…ずいぶんと、捻くれてますね…。」
 思わず本音を言ってしまった。
 作次郎さんは、俺の言葉に気分を害することなく、それどころか楽しそうに笑った。
 「そうなんですよ。でもね、そんな私の凝り固まった壁を一瞬で崩した人間がいるんですよ。」
 「それ、宮内ですか?」
 「いえ…違います。」
 作次郎さんの笑顔が、透き通った微笑みに変わる。
 「他界した妻です。」
 「奥さん…ですか。」
 「私の妻はね。これがまた、宮内さんに負けないくらいの突っ走った女だったんです。出合った時から振り回されっぱなしでした。頭で考えるより先に行動するタイプで、感情最優先。力も無いクセに正義感ばかり強く、相手がどんな奴でも立ち向かってって、傍で見ているとハラハラしっぱなしでした。いつも誰に対しても冷静でいられたはずの私なのに、彼女に対してだけはペースを乱され、ポーカーフェイスを崩され、不本意極まりなかったですよ。離れたくて仕方なかったんです。」
 「何故離れなかったんですか?」
 「どうにもこうにも、理屈なしに心を鷲掴みにされてしまったようで…。重くて鬱陶しくて…でも、どうしても放せない、それが彼女でした。」
 作次郎さん、愛しそうな眼差しでグラスを見ている。グラスの向こう側に奥さんのことを見ているのか…とても優しい眼差し。
 「…もう二度とあんな思いをするのはごめんだって思っていたんですよね。」
 「その気持ちを宮内が思い出させたんですか?」
 「ええ。見事に。だから係わり合いになりたくなかったですし、苦手だと言ったんです。」
 「でも、やっぱり構ってしまった…ってことですね。」
 作次郎さんは少しだけ照れ臭そうに笑う。
 「…本当に…妻の時同様不本意極まりないですが、その通りです。」
 「作次郎さんは私を見て、もどかしくなるって仰ってましたよね。あれはどういう意味なんですか?」
 「振り回されている過去の自分を見ているようだったからです。」
 …なるほど…。
 「椎名さん。あなたは私とは違い、自分を表現するのを躊躇わない。」
 「あの…そんなに私は開けっ広げですか?」
 「自覚していないところが恐ろしい。」
 作次郎さんは冗談とも本音ともつかない言い方をして、笑顔で話を続けた。
 「私はあなたのような生き方は出来ないですし、したくもありません。ただ、少しだけ羨ましくも感じます。」
 言いながら、そっと席を立ち店内を見渡す。
 「…この店を必要としているのはお客さまではなく、私自身なんです。」
 優しさと限りない感謝が込められた声音。
 それを聞き、俺はハッとする。言葉に込められた作次郎さんの想い。あれほど自分のことを語るのを嫌がっていた作次郎さんだけど、今の言葉は本心だろう。作次郎さんを慕い、店に訪れるお客さんを誰よりも必要としているのは作次郎さん自身。彼らに救われているのは自分なのだと言っているようで…。
 ここで、ガラガラっと派手な音を立てて扉が開く。
 「遅れてごめんなさい〜!!」
 香苗が勢い良く入ってくる。
 「いらっしゃいませ。お待ちしておりましたよ。」
 迎えた作次郎さんは、既にいつもの通りの余裕ある笑みだった。
 「お腹空きましたー。作次郎さんのお料理を楽しみにしてきたんですよ。」
 「はいはい。今用意しますから。」
 作次郎さんはカウンター内に戻って、次々と料理を出していく。
 美味しい料理とお酒。楽しい時間が瞬く間に過ぎていく。何よりも香苗の元気な笑顔。それが、俺と…多分作次郎さんにとっても、時間を忘れさせてくれる一番の魔法なのだろう。 
 作次郎さんは多くは語らない。きっと、真実はそれぞれの心の中にあるって思う人だからな。でも、彼が亡き奥さんやお客さん、周りの人を大切にし感謝しているってことを、彼なりのやり方で伝えている…って俺は感じたんだ…。

2003.9.20

次回最終回〜。