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罠B…そして

 「あの…園田さん…。」
 「ああ、君が青木君だね?営業部で何があったのか知らないが、椎名君と宮内君から、私と君がグルになって何かをしたような言いがかりをつけられているんだ。すまないが君の口から私は関係ないことを説明してくれないか?」
 「…園田さん。」
 「君と私とは何の関係も接点もないだろう?」
 余裕の園田課長。青木さんは縋るような眼差しを向けていた…。何だか切なくて居たたまれない気持ちになる。
 凍りついたように言葉を失っている青木さん。園田課長は軽くため息をついて、手早くデスクを片付け始め、帰り支度を済ませる。
 「とにかく、営業部でのトラブルを総務部に持ち込まないでくれ。じゃあ、私は先に失礼するよ。」
 何事もなかったように立ち去ろうとする。
 「ちょっと待…。」
 俺が呼び止めるより先に、青木さんが園田課長の前に回りこみ、行く手を遮った。
 「園田さん…。」
 願うように名を呼ぶ青木さん…。
 「どいてくれないか?」
 「お願いします。私頑張りますから……許して下さい。もう一度私を見て下さい。」
 「何をわけのわからないこと言っているんだい?許すも何も、私は君など知らない。」
 感情のこもらない笑顔で青木さんに応え、彼女の横をすり抜けて行く。
 取り残された青木さん。傍のデスクに手を伸ばし、引き出しから『何か』取り出した。そして、園田課長の背中に向って叫ぶ。
 「私は3年前だって、あなたのために何だってしてきたのに、また見捨てるんですか?」
 聞いているこっちの胸が痛くなるような、悲痛な叫びだった。
 園田課長は笑顔すら消し、軽蔑しきった目つきで彼女を見る。
 「何のことやら。さっぱりわからないですよ。」
 青木さんの瞳から涙が零れ落ちる。
 「私はあなたの望む通りの女になろうと頑張ってきました。今回だってあなたのために…。だからお願い…。」
 「馬鹿馬鹿しい。妄想癖でもあるのか君は。」
 園田課長は取り合わずに吐き捨てるように言う。青木さんの頬を涙が伝う…。
 「お願い…。私を見て!」
 青木さんの右手に握られていた『何か』から、カチカチカチ…って音がして…。
 …げっ!カッターだ!
 園田課長もカッターに気がつき、初めてうろたえた。
 「な、何をするつもりだ?」
 ヤバイ!青木さんはマジで園田課長を切りつけるつもりだ!!
 青木さんが園田課長に向って駆け出す。俺も咄嗟に走り出す。
 園田課長の目の前で振り上げられるカッター。
 「ダメだ!青木さん!」
 そんなことしたら、あんたが傷つくよ、青木さん!
 間に合ってくれ!
 刃が園田課長に向って振り下げられる前に、俺は青木さんの腕を捉えることに成功し………っ痛ーーーーーーーー!!
 「洋介!!」 
 香苗が俺の名を叫ぶ!
 青木さんの目に流れる血が映る…。紛れもなく俺の血だ。
 俺は青木さんの腕を掴み損ね、見事にカッターの刃を握っちまった。
 じわりと生温かい血が、俺の右手首を伝い、床に滴り落ちる。
 「あ…あ…私…。」
 青木さんは俺の血を見て我に返ったらしく、カッターから手を放し、ヘナヘナとその場に座り小刻みに震えだす。
 駆け寄ってきた香苗。カッターを握ったままになっている俺の手を取り心配そうに言う。
 「洋介、大丈夫?ねえ。大丈夫?」
 俺、力なく笑う…。
 「…怖くて手を開けない…。」
 「待ってて。今救急箱を…。」
 香苗が救急箱を探すため、視線をさ迷わせた先に、園田課長が電話の受話器を上げる姿があった。
 「課長?何してるんですか?どこに電話してるんですか!!」
 「警察。その女を突き出す。」
 それを聞いた俺、空いていた左手で、有無を言わさず電話線を引っこ抜いた。
 「おい!邪魔するな!」
 「あんたは黙ってて下さい!」
 俺は園田課長を制止してから、力なく座り込んでる青木さんの所へ行ってしゃがむ。
 「青木さん。大丈夫?」
 顔を上げる青木さんは、ぐちゃぐちゃの泣き顔だった。
 「私より、椎名さんの怪我…。ごめんなさい。ごめんなさい…。」
 「俺は大丈夫。それよりさ、青木さんはそのままで充分素敵なのに、何で香苗を憎む必要があるんですか?」
 「え…?」
 思いもよらないことを言われたって感じでキョトンとする。
 香苗も俺の隣にしゃがみ、微笑む。
 「そうよ。あなたは私なんて足許にも及ばないくらい、憧れちゃうような女性よ。」
 青木さんは俺と香苗の顔を見て、寂しげに微笑み、小さな声で自分のことを語る。
 「…でも、園田さんは私にいつも満足しなかった。恋人にしてもらったけれど、想い描く理想と違うと言われ続け、結局彼に愛してもらえなかった…。でも、私はずっと愛してた。3年前に別れた後も忘れられなかった。だからしつこいと思われても時折手紙を出していた。」
 「そう…。」
 香苗は優しく相槌をうちながら青木さんの話を聞いている。
 「手紙を出しても、電話して留守電に伝言を残しても、返事をもらえたことなんてなかったのに、初めて電話をもらえたの。逢いたいって言われてとても嬉しかった。園田さんはとても優しかった。そして、3年の間に何があったか話してくれた。園田さんを騙した女がいるって聞いて、許せないと思ったの。騙したことも許せなかったけれど、それ以上に、簡単に園田課長の心を手に入れた宮内さんが、羨ましくて憎かった…。私が欲しくて欲しくてたまらなかった園田さんの心を手に入れた宮内さんがどうしようもなく羨ましかったの。だから、宮内さん、あなたのことを不幸にしたいと思った。あなたが追いかけている夢を奪いたかった。そのためにこの会社に入ったの。」
 香苗の夢…。『仕事の成功』ってことを言っているんだろう。
 「…園田課長に頼まれたんじゃないんですか?」
 俺の問いに青木さんは首を横に振る。
 「私が自分で言い出したことです。園田さんが話してくれた『宮内香苗』さんって女性を苦しめるには、仕事で失態を犯させることが一番だって思って私が勝手にしたことなの。私がアルバイトとして働き出したのを知ると…園田さん、嬉しそうに微笑んでくれた。だから…。」
 青木さんは香苗を見る。
 「あなたを失脚させれば、もう一度園田さんが私のこと見てくれると思ったの…。」
 なるほどね…。恋は盲目と言うけれど、青木さんの従順さと一途さ、加えて仕事の有能さを上手く利用したってわけか。彼女ならどの会社でも雇いたくなるもんな。S食品に潜り込ませるのは簡単だ。変に口添えしなくても、実力でいける。園田課長にとって、青木さんの思惑が成功したならば願ったり叶ったりだし、万が一失敗しても、無関係でいられると思ったのだろう。…俺たちが感づかなきゃね。
 「私は何も関係ない。挙句に私を切りつけようなんて、逆恨みも良いところだ。」
 園田課長は今度は携帯で警察にかけようとしていた。
 香苗がスッっと立ち上がり、携帯を叩き落とす。
 「何をするんだ!」
 理不尽なことをされたって顔つきで憤る園田課長。香苗は意に介さず、俺を見る。
 訴えかける視線に俺は頷き、香苗の代わりに課長に答えた。
 「課長。警察に連絡するような事件、何も起きちゃいないっスよ。」
 「何だって?」
 「俺ってドジだからよくカッターやらハサミやらで手、切っちゃうんだよね。」
 「お前の怪我などどうでも良い。あの女は私を切りつけようとしたんだぞ!!」
 「えぇぇ??私も洋介も、ずっと青木さんと一緒だったけど、そんなの目撃してないわぁ〜。ねえ、洋介?」
 香苗がわざとらしい声で言う。
 「そうだよなぁ。園田さん、何言ってんですか?被害妄想もいいトコですよ。」
 「お前ら…。」
 怒りで言葉も出ない園田課長に香苗がにじり寄る。顔を近づけ…とっても迫力のある無敵の笑顔を向ける。
 「園田課長。私に恨みがあるのなら、正々堂々あなたの手で私に復讐して下さい。裏工作でも妨害でも何でもやって下さい。受けて立ちますよ。」
 『どんな手を使われても私は負けない。』…って自信に漲った姿。男の俺が言うのも何だけど…もの凄くかっこ良い。
 「椎名さん…宮内さん…。良いんです。私、ちゃんと償いますから…。」
 青木さんは戸惑いながらも、しっかりした声で言う。
 「…もし、あなたが本当に償いたいと言うのなら、仕事で頑張ってみんなを楽させて下さい。」
 「そうよ、青木さん。それとね…。」
 香苗は俺の言葉に付け加える。
 「月並みな言葉だけど、もっと自分を大切にして。もし誰かを求めるのなら、ありのままのあなたで勝負して欲しい。もう一度言うわ。あなたは素敵な女性よ。自分で認めてあげれば、もっと素敵になるわ。」
 優しくて力強い言葉。青木さんは目を見開き、その後、涙を堪えながら、きごちない微笑みを浮かべた。
 「…ありがとうございます…。」
 ペコッと頭を下げる。
 「頑張ります。どうかよろしくお願いします。」
 俺と香苗、顔を見合わせ、ニッと笑う。そして、俺たちも青木さんに『よろしく』の意を込めてペコリと頭を下げた。
 これで万事OK!…と、思いきや…。
 「こんなことが許されると思っているのか?」
 ただ一人、納得できないでいる園田課長。もう、いつもの『理想の上司像』は消え去っていた。
 冷静さを失い、怒りだけに支配された男。
 「お前たち、全員この会社にいられないようにしてやるからな。」
 俺と香苗は、『やれるもんならやってみろ!』ってな顔つきを園田課長に向ける。確かに俺たちは組織の中では下っ端。でも、社員あっての会社だ。私怨で簡単にクビにするような会社ならこっちから願い下げだよ。
 と、ここで意外な人物が登場する。
 
 「そこまでだ。隆一郎君」
 
 俺たち全員、声のした方へ注目する。
 と、フロアの入り口に、銀色の『マイ・マイク』を持った伊藤専務が立っていた。
 「い、伊藤専務…。」
 園田課長が酷く動揺し、顔を引きつらせる。俺と香苗は、カラオケをバックレたので、思わず苦笑い。
 「椎名君も宮内君も酷いじゃないか。わしの歌を聞かずにこんな所で油を売ってるとは。」
 「い、いつからそこにいたんですか?」
 「ちょうど椎名君が総務部に乗り込んだトコからだよ。」
 き、気が付かなかった。
 「わしの目を盗んでバックレられると思っているのか?」
 伊藤専務は、本日はいつもの小さなスナックではなく、新地開拓した広々とした新装開店のカラオケスナックにみんなを連れて行った。気持ちよく歌っている時に俺と香苗の姿がないことに気が付いた伊藤専務…「椎名君と宮内君はどうした?」と訊くと、みな知らず…。そんな時、たまたま経理部の面々が店に入ってきて、合流した。その経理課長が営業部と総務部の鍵がキーボックスに戻されていなかったと証言したので、俺たちがまだいるのかと思い専務はわざわざ社まで探しにきたそうだ。
 それにしても、『隆一郎君。』って誰のことだ?
 誰のことを呼んでいるのかわからなかったが、園田課長の動揺しまくった顔が目に入り、気が付いた。
 園田課長のフルネーム。園田隆一郎。…園田課長のことか。随分親しげな呼び方をするんだなとは思うけど、ただ単に名前を呼ばれただけでどうしてここまで動揺するんだ?
 「わしと園田社長は、昔馴染みでな。隆一郎君が赤ん坊の時から知っとるんじゃ。」
 へぇぇ、専務と園田課長の父親って、幼馴染なのかぁ。だったら頷ける。
 伊藤専務は悪戯っ子のような楽しげな笑顔で園田課長に近づき、何やら耳打ちする。
 「これ以上悪さをするんなら、隆一郎君の幼少の頃のかわゆい秘密、思わず口走りそうだなぁ。『お化け屋敷での大洪水』、あれなんかはとても可愛い想い出だなぁ。」
 「な…な…。」
 園田課長は顔を真っ赤にして、口をパクパクさせる。焦りまくっているな…。何なんだ?『お化け屋敷での大洪水』って。
 伊藤専務はニコニコ笑顔を一瞬消し、とても真面目な顔になる。
 「隆一郎。君はとても優秀な男だが、人として、男としては修業が足らんな。」
 その言葉を聞いた園田課長、目を見開いたまま表情が凍りつく。そして、悔しそうに顔を歪ませて、逃げるように去って行った。
 「やれやれ。社会人になって結構成長したと思っていたが、子供の頃と変わっとらんなぁ。」
 伊藤専務はため息混じりに呟き、頭をかいた。
 「仕事では、これ以上ないくらい最高の判断が出来る奴なんだが、根本的な心の部分で絶対的な王様になりたがる。」
 絶対的な王様…。
 自分の理想や規則以外は認めない…そんな王様だろうか…?
 「あいつの父親、園田社長はな、プライベートでも仕事でも頭の回転が速く、決断力もあるし、人当たりの好い、気さくな奴だ。ただな、視野は広いんだが、肝心な自分の足許が見えてない時があるんだ。隆一郎はそこに付け込んだ。隆一郎も、父親に負けず劣らず賢い奴だからな。その上、あいつの場合は子供の頃から『ズル賢い』面が異常に発達していた。父親を欺けるくらいにな。だからこそ、父親がフォロー出来ない部分をサポートするのがわしの役目だと思っとった。専務としても、友人としてもな。」
 伊藤専務はそう語り、俺たちに頭を下げた。
 「今回のことは、わしの監督不行き届きだ。許してくれ。」
 「そんな、頭なんて下げないで下さいよ!!」
 俺も香苗も大慌て!!伊藤専務は頭を上げ…香苗に笑いかける。
 「宮内君。」
 「はい。」
 「君と隆一郎との結婚話を聞いた時、わしは、どんな結果になろうとも、君は仕事を辞めることはないと確信しておった。」
 「…え?」
 「君を面接した時、わしが感じた直感を信じていたからな。我が社に、君の限りないパワーが欲しかった。」
 「伊藤専務…。」
 香苗の面接。確か、採用するか否かで意見が真っ二つに割れたと言っていた。じゃあ、伊藤専務は採用派だったってことか。
 「よく、何かを手に入れるには何かを捨てなきゃならないと言うけれど、宮内君を見ていると、そんなことはないのかもしれないと思えてしまう。実際、君は限りない可能性を秘めているからな。どうかその力でS食品を儲けさせてくれ。」
 専務の言葉に、香苗は涙ぐんでいた。…これほど嬉しいこと言ってもらえる機会はそうそうないよな…。
 次に、専務は俺の許へやってきて、俺にしか聞き取れないくらいの小さな声でそっと耳打ちする。
 「どんなに高性能で速く走れる車でも、給油も必要だし、走り続けてはいられない。それに気が付いてやれるのは君だけだ。宮内君のこと頼んだぞ。」
 俺、少し驚いて専務を見る。専務は俺の戸惑いも何処へやら、ご機嫌な笑顔だ。
 頼むぞって言われても…そりゃ俺だって頼まれたいし、『任せておいて下さい!』って断言したい。
 けど、肝心な香苗の気持ちが…。俺が悶々としていると、専務がポツリと疑問を洩らす。
 「ところで椎名君。」
 「何ですか?」
 「右手…。」
 「右手?」

 俺は突然右手と言われ、反射的に右手を広げ、顔に近づけ間近で見てしまう。
 そこには、血まみれの手の平と、カッターがあり…。

 わ…忘れてた…。
 カッター、握ったままだったんだ…。

 「よ、洋介!!」
 周りも忘れていたらしく、香苗が大慌てで駆け寄ってくる。
 俺はと言えば、情けないことに軽い貧血に襲われ、その場にヘタリこんでしまった…。

2003.9.15

あと残すところ2話です〜。結構長かったなぁ〜。