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罠@

 忙しさに目を回しているうちに、暑さも去り、過ごしやすい季節が訪れていた。
 10月。
 営業での仕事もさることながら、社内公募の締め切りが迫っていたので、俺と香苗は大忙し。
 何とか時間を作って企画書を作り、ギリギリで提出できた。
 まず、第一次の書類選考が行われ、通過した案のみ役員も出席した場でプレゼンテーションが出来る。その後最終選考で決定させる。
 2週間後、めでたく書類選考に残ったことを知らされた。企画課の楠木先輩のも残っているようだ。かなり良い出来だと言う噂。
 香苗と会社近くの定食屋で昼食を取りながら、作戦タイム。
 「2週間後のプレゼンが勝負!できるだけ役員を味方につけるわよ!」
 「作戦は?」
 「わかりやすく論理的。かつ、程好い笑いでこの企画の魅力を伝える!」
 「笑い?」
 「気を惹き付けるには楽しませなきゃ。」
 「なるほど…。」
 店を出て、会社の玄関ロビーを歩いていると、後ろから声をかけられる。
 「宮内君。」
 この声は…。
 俺と香苗、同時に振り返る。後ろに立っていたのは…。やっぱり…園田課長だ。
 「園田課長。」
 香苗はぎこちなく笑い、ペコリと頭を下げる。
 園田課長は婚約破棄して以来、『諦めない』と言っていたわりに、香苗に対し特にこれといって何のリアクションも起こしていない。俺への報復のため市田社長の営業担当をやらせたことも、園田課長の期待を裏切った結果に終わった。そのことに対しても、何の行動も起こされなかった。
 園田課長は、にこやかに微笑む。
 俺はその穏やかな笑顔が何やら危険に思え、身構えていた。香苗は何の警戒心もなく、園田課長に接する。
 「あの、何でしょうか?」
 「仕事は順調のようだね。社内公募もとても良い出来だってもっぱらの噂だよ。これからも頑張って。」
 「ありがとうございます。」
 ここまでは普通の会話。園田課長はより一層優しげな笑みで言葉を続ける。
 「1つ質問して良いかな?」
 「はい?何でしょうか。」
 「以前の君と今の君とは随分と変わった。どうしてだい?」
 香苗は少し目を見開いた後、園田課長を真っ直ぐに見つめ答えた。
 「自分を好きでいたいからです。」
 「と、言うことは今の君が正真正銘本当の君の姿なんだね?」
 「はい。」
 園田課長は香苗の返答を聞くと、目を閉じ小さなため息をついた。そして、次に目をあけた時、みょうに清々しい顔になっていた。
 「わかった。私もいい加減男らしく君のことはすっぱりと諦めるよ。」
 そう言って、香苗の横を通り過ぎ、「じゃあ、2人とも頑張って。」と言い残し去って行った。
 香苗はもう一度頭を下げ見送る。俺はと言うと…。
 「どうしたの?洋介。浮かない顔して。」
 「え?あ、いや…何でもない…。」
 園田課長のあまりに爽やかな撤退振りに、戸惑う。ど〜も釈然としないな…。
 本当に諦めたんだろうか?
 「洋介!早く行こう!午後から部内ミーティングでしょ!」
 「ああ。」
 心に湧き出た不安感、拭えないまま午後の仕事に突入した…。

 香苗の抱えていた営業事務の仕事を引き継ぐために、9月に新メンバーが入社してきた。
 青木さんと言うとても清楚な女性。俺たちより少し年上の、口数の少ない物静かな人だ。
 言葉使いも丁寧、仕事もテキパキ。アルバイトとして雇われたが、早くも正社員にしようと言う話も出ている。
 「宮内さん。この請求書は郵送でよろしいですか?」
 「はい。お願いします。」
 「わかりました。さっそく投函してきます。それと、ついでに社内便も出してきます。」
 確認を取ると、青木さんはさっそく出かけて行く。
 「青木さんって、控えめだけど凄い人よね。何も言わなくても先へ動いてくれる。痒いところに手が届くって感じ。」
 香苗は心底感心している。
 「そうだな。」
 青木さんはすでに営業部になくてはならない存在だ。
 誰もが彼女を信用し、頼りにしてきた。
 
 …そんな時、深刻な事件が起きた。

 夕方になり、香苗が営業先を回り終え戻ってきた。
 席に座ることなく、契約書が入っているキャビネットへ向う。
 「あれ…?」
 しきりに頭をかしげている。しばらくファイルを探し回り、青木さんのデスクに向う。
 「あの、青木さん。昨日渡した契約書、どのファイルに仕舞いましたか?」
 「え?」
 香苗に訊ねられ、青木さんはパソコンを打つ手を止める。しばし考え込んだ後、急に蒼白になる。
 「あの…確か、シュレッダーする書類と一緒に手渡された封筒でしょうか?」
 「はい。そうですけれど…。」
 きょとんとして答えた香苗だか…瞬時に、青木さん同様顔色が変わる。
 「…もしかして、一緒にシュレッダーしてしまったとか…?」
 恐る恐る訊ねる香苗。青木さんは席を立ち、涙目で香苗を見つめる。
 「はい…。すみません。どうしましょう…。」
 「そんな…。」
 香苗も絶句する。
 香苗が粘り強く折衝し、ようやく契約を取り交わしてきた会社の契約書。
 作次郎さんとは関係なしに香苗が自力で取ってきた仕事だ。
 契約書をシュレッダー…。始末書モンだ。いや、それだけではなく、客先を怒らせて取引を白紙に戻されることだって充分考えられる。
 青木さんもことの重大さをわかっているらしく、震える声で詫びを入れ、頭を下げる。
 「す、すみません。私…とんでもないことを…。すみません。」
 香苗もショックを隠しきれず、数秒間は何も言えずにいたが、すぐにやるべき行動を思い立つ。
 「課長。」
 香苗は課長のデスクへ駆け寄り、事情を伝えたらしい。
 「青木さん、ちょっと。」
 課長は香苗と青木さんを会議室へ連れて行く。
 十数分後、会議室から出てきた課長が営業部全員に告げる。
 「みんな。申し訳ないが、頼みたいことがある。」
 課長が下した決断。まずはシュレッダーしてしまった契約書の残骸を出来る限り探し出す。
 S食品ではシュレッダーしたゴミを一週間保管する。過去に小切手や重要書類を間違って破棄してしまった事例があるからだ。
 とりあえず手の空いている営業部のメンバー全員で契約書を探すことになった。
 ゴミを保管しておく倉庫で、しばし呆然とする。昨日のことだし、大体どの辺に袋を置いたか青木さんはわかってはいたが…それでも大量のシュレッダーの残骸だ。
 「出来る限り復元して、誠意を見せるんだ。みんな、すまないが力を貸してくれ。」
 課長の一声に全員が作業に取り掛かる。
 俺も一心不乱に細かく切り刻まれた書類の山と格闘する。
 途中から企画部のメンバーも手伝ってくれた。
 「みなさん、私の所為で本当にごめんなさい。」
 青木さんは泣きながらみんなに謝り続ける。
 そんな彼女に香苗は心もち余裕の顔つきで、凛とした声で言った。
 「今はとにかくやれることの最善を尽くし、明日までに何とか契約書を探し出しましょう。」
 「は、はい。」
 青木さんも冷静さを取り戻し、作業に専念し始める。
 …本当は営業担当である香苗が一番不安や焦りを感じているはずだ。
 確かにミスしたのは青木さんだが、客先への責任を負うのは香苗だ。それに、香苗は青木さんへの指導係りとしての責任もある。
 とにかく今出来ること。そのことに全力を尽くそう。
 俺たちの執念なのか、夜明け前、契約書の半分くらいが復元できた…。
 朝一番で客先に連絡をとり、香苗と課長が、半分復元した契約書と新に作った契約書を持って、事情を説明しに出かけて行った。
 青木さんは心配そうに見送っていた。
 「大丈夫でしょうか…。」
 「宮内さんと課長に任せておけば大丈夫ですよ…きっと。さ、仕事しましょう。」
 「はい。」
 青木さんは俯き加減でデスクに戻り、パソコンへ向う。
 俺も仕事を始めるが、何気なく青木さんへ目を向けると…。
 「…?」
 何だろう…。薄笑いを浮かべている…ような気がした。が、同僚に声をかけられた瞬間、彼女の表情は一瞬で元に戻る。
 気の所為…?
 「おい、椎名電話だぞ。」
 「あ、はい。」
 仕事の波に飲み込まれ、考えを中断せざるを得ず、やがて忘れて行った。

 お昼休み、香苗と課長は、満面の笑みで戻ってきた。
 「無事お許しが出ました。」
 香苗の言葉に、部内の緊張がようやく解けた。
 青木さんも肩の力が抜け、心底ホッとしたような声で「良かった…。」と呟いた。
 「まあ、始末書は免れないけど、結果オーライよね。」
 香苗が明るく言うと、青木さんはぎこちない笑顔を作る。
 「本当に申し訳ありませんでした。私の所為でみなさんにご迷惑をおかけして…。」
 途中で笑顔が崩れ声が震えていた。
 「ご、ごめんなさい。」
 青木さんは慌てて席を立ち、フロアから出て行った。
 多分、ホッとしたのと、申し訳ないって気持ちで涙が溢れてきたんだろう。
 泣き顔を見られまいとし、人目につかないトコに行ったんだな。
 「…青木さん、辞めるなんて言わないわよね?」
 香苗が少し不安そうに言った。
 「彼女が辞めるって言ったって、香苗が辞めさせたりしないだろう?」
 「もちろん。」
 「とにかく、丸く収まって良かったな。」
 「うん。さて、始末書でも書きましょうか。」
 香苗はちょっとおどけた様に肩を竦め、始末書の用紙をもらいに総務へ行った。
 俺はワンテンポ後に、手洗いに行き、出てきた時、丁度青木さんもトイレから出てきた。
 男子トイレと女子トイレは隣り合わせにあるので、同時にドアをあけると、見事にかち合う。
 俺はその時、その場に不釣合いな青木さんの表情を目撃した。
 さっきまでの、謙虚に反省をしている彼女ではなく、どこか憤りを感じているような不機嫌な顔つきだった…。
 俺と目が合い、慌てて表情が変わる。
 疲れたような微笑みを浮かべる青木さん。
 「…こんな大それた失敗をしたのは初めてで、取り乱してしまってすみませんでした。もう落ち着きましたので仕事に戻ります。」
 青木さんは軽く会釈し、フロアへ戻って行った。
 俺はこの時、午前中に見た薄笑いを思い出した。
 今の青木さん、まるで今回のことが丸く収まることを喜んでいないって顔つきだった。
 俺は、しばらくの間その場に立ち尽くしてしまった。
 根拠は何もないけれど、心の中に彼女への警戒心が湧いてくる…。

2003.8.31

ふぅ。久々UP♪もうすぐラストです〜。