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不思議な居酒屋

 翌日。
 連日の夜更かしで疲れが出たのか、いつもより起きるのが遅くなってしまい、本日は2本ほど遅い電車に飛び乗った。
 と、見知った顔が出迎えてくれた。
 「おはよー。」
 ちょっと眠そうな香苗の顔。
 「香苗。おはよう。」
 「不覚にも、二度寝しちゃったのよね。」
 香苗も、俺と同じ理由のようだ。
 俺たちが出社したのは、始業時間7分前。
 「おはようございます!」
 急いでフロアに入ると、けたたましく鳴る電話の音と、その電話の対応に追われる営業部のみんなの姿が目に飛び込んだ。企画部までが借り出されている。
 ど、どうしたんだ?一体…。
 始業前なのに、この電話の量は尋常じゃない。クレームか何かあったのか?
 電話対応をしていた課長が俺たちに気が付き、背後の部長席に目配せする。
 その視線で、坂田部長が俺たちに気が付き、電話を一旦終わらせた。
 「椎名、それと宮内君。会議室へ来てくれ。」
 そう言い、忙しなく席を立ち、足早に会議室へと向って行く。
 な、何なんだよ…。
 俺と香苗は事態を飲み込めないまま、部長の後を追う。

 真剣な顔をして椅子に座っている坂田部長。俺と香苗は自然と借りてきた猫状態になる。
 「お前たち、最近何やら動いていたようだけど、何やっていたんだ?」
 うわ…。気付かれてたのか?
 部長は俺と香苗とを静かな眼差しで見つめている…。
 業務に支障がない様に行動してきたけれど、客先の社長と勝負しているなんてなかなか言い出せない…。
 「あの…何かあったんですか?」
 恐る恐る訊いてみる。
 部長は苦笑いする。少し表情が柔らかくなる。
 「すまんすまん。そう警戒するな。ちゃんと全部話してくれ。」
 砕けた口調になった。
 俺は、香苗に目で合図して、白状することに同意をもらった。
 「…実は…。」
 市田社長との勝負のことを洗いざらい白状した。部長は、途中呆れた顔をしたり、笑いを堪えているような顔になったりと、表情が変わり忙しかった。ただ、話が作次郎さんとのやり取りのところまで進むと、少し驚いたように目を見開き、後は最後まで考え深げに聞いていた。
 話し終え、部長の反応を待つ。
 「それで全部か?」
 「はい。」
 「なるほどねぇ。市田社長も相変わらずだなぁ。」
 部長は大きなため息を付き、小首を傾げ困ったような、曖昧な笑みを浮かべる。
 「それにしても、まさか『あの話』が現実のことだったなんて…。」
 部長の意味ありげな呟き。
 「あの電話。何だと思う?」
 「…いえ…。わかりません。」
 「全部お前たち2人に、名指ししてかかってきた、新しいお客さんからの電話だ。」
 「…へ?」
 新しい客?
 あ…!俺たちが勝利した場合、市田社長が客先を紹介してくれることになっていたんだ。
 「あれ全部市田社長からの紹介なんですか?さすが市田社長ですね。すごい人脈!!」
 香苗は、高揚半分、驚き半分って感じでコメントする。
 が、坂田部長の返答は意外なものだった。
 「いや…。市田社長からの紹介は5〜6件くらいだ。もちろん、大口だったけど。」
 「え?じゃあ、他の依頼は…?」
 「…どの電話の主も、みんな口を揃えて言ってるそうだ。『あの人が見込んだ人間と仕事がしたいんだ。』って。」
 「あの人って…。」
 俺と香苗、顔を見合わせた。
 この展開で思いつく人の名前はただ一つ。
 思わず大声を出してしまう。
 「えええっ!!あの大量の電話、作次郎さんからの紹介なんですか?」
 「そのようだな。」
 「そんな…。何で…。」
 驚きで何て言っていいかわからない。
 作次郎さんが見込んだ人間って、俺たちのことか?
 あの電話の主達は…みんな作次郎さん経由のお客さま?
 …作次郎さん、あんた一体何者だーー?
 呆然としている俺たちを見て坂田部長は声を立てて笑う。
 「お前たちが驚くくらいだから、何も知らなかった部署の連中の驚きも想像できるだろう?」
 「はい…。でも、まさかこんなことになるなんて…。すみませんでした。」
 香苗が頭を下げ、俺もそれに続けてペコリと頭を下げる。
 「こらこら、何も謝る必要はないんだよ。それどころか大手柄だ。良くやった。もしかしたら、今年度の社長賞狙えるかもしれないぞ。」
 「社長賞…。」
 社長賞とは、年度末に、優秀な成績を残せた社員に贈られる賞で、金一封もある。
 何だか、嬉しいって気持ちが込み上げてきた。香苗も俺と同じ気持ちだろう。
 ひとしきり喜んだ後、やっぱり気になる最大の疑問を口にしてみる。
 「それにしても、『海藤作次郎』さんって一体何者なんでしょうね…。」
 「そうよね。これだけの人脈、尋常じゃないわ。」
 「ああ…。そのことだけど…。」
 坂田部長は、「笑わないで聞いてくれよ。」と、前置きしてからぎこちない笑顔で語りだす。
 「昔、客先の接待での席で、不思議な居酒屋の話が持ち上がったんだ。」
 「不思議な居酒屋?」
 「ああ。その席のメンバーの一人が、やっぱり又聞きで誰かから聞いた話って言っていたな。」
 まるで昔話やおとぎ話を話しているような、柔らかな声音。
 「その居酒屋には大企業の社長や重役、著名人たちが出入りしていて、みんなその店のマスターに惚れ込んでいる。その惚れ込みようは凄くて、中には会社の採用試験の最終段階で、候補者をその店に飲みに連れて行き、後日マスターに意見を聞いて採用者を決めるところまであるそうだ。色々な頼みごとをしてくる人間もいるらしい。みなマスターを信頼して、会社の重大な決定時も意見を求める…。それくらい影響力がある店なのに誰も所在を知らない正体不明の居酒屋だそうだ。」
 それって…。その店が『作次郎の家』ってことか?
 「俺にその話をしてくれたメンバーは、その店の名前を知らなかった。知っている人も、自分だけの隠れ家にしておきたいらしくて、なかなか教えたがらない。色んな営業マンが、人脈を作りたくてその店を探すけれど、なかなか辿り着けないそうだ。」
 なんと言うか…。
 ま、まるでロールプレイングゲーム。サラリーマンのファンタジー的話だなぁ…。
 確かにそんな店があるなら探したくなるよな。でも、イメージ的には、高級料亭とか、お洒落な店を思い浮かべるだろう。こんなこと言っちゃ作次郎さんには申し訳ないけど、あんなありふれた小さな店だとは思うまい。……永遠に辿り着けないよな。
 「私も半信半疑だが…その『作次郎の家』は、まさに語られている通りの『不思議な居酒屋』だろう?」
 「…そうですね。」
 「まあ、何にせよ、お前達、これからしばらく忙しくなるぞ。客先はお前達に会いたがっている。みんなから連絡先を聞いて、訪問スケジュールを立てて報告してくれ。私や課長の同行も必要な客先もあるだろう。チャンスだから、頑張るんだぞ。」
 坂田部長は、俺と香苗の肩をポンッと軽く叩き、「今度、その居酒屋に連れて行ってくれよな。」と言って会議室から出て行った。
 ちょっと呆然としてしまう。
 「なあ、香苗。」
 「何?」
 「俺たちの何処が見込まれたんだ?」
 「…さあ。」
 まだ夢の中にいるようで…。
 でも、こうしちゃいられない!
 俺たちはこの日、終業時間まで大忙しだった。
 電話が来た客先全てに連絡し、今後の予定を立てた。香苗と俺と手分けしても、回りきるのに数日かかる。
 大企業の社員食堂や、レストランのチェーン店、学校の食堂、病院などからの電話などなど。
 上手くいけば相当の売上になるはず。
 仕事に一区切り付いた時には窓から見える景色はすっかり夜の顔。
 フロア内にいるのは香苗と俺だけ。
 香苗は思い切り伸びをして、俺の顔見て微笑む。
 「そろそろ帰る?」
 「そうだなぁ。腹も減ったし…。」
 「夕食は作次郎さんの所に行く?」
 「うん。今の時間、混んでいるかな。ただでさえ、昨日貸切だったんだし。」
 「混んでたら、お礼だけ言って帰りましょう。」
 「ああ。」
 
 案の定。作次郎の家は満員だった。
 戸から顔を覗かせていた俺たちに気が付き、作次郎さんが素早くカウンターから出てきて、駆け寄ってきてくれた。
 「すみません。今夜はお席が空きそうにないんです。」
 すまなそうに詫びる作次郎さん。
 「いえ、いいんです。また日を改めて来ますから。今夜はお礼だけ言いに来たんです。」
 俺と香苗は一緒にお礼を言う。
 「ありがとうございました。」
 「お礼なんていいですよ。こちらこそ、これからは仕事仲間としてよろしくお願いしますね。美味しい食品をたくさん紹介して下さいね。」
 「はい。」
 もう一つのお礼も言わねば…。
 香苗が俺が考えていたことを言ってくれた。
 「それと、たくさんの客先を紹介していただき、ありがとうございました。」
 作次郎さんはニコっと笑って、素早く右人差し指を立てて口許へ持ってくる。
 真剣って表情を作って『内緒』のポーズ。
 「私はただ、お客様のお酒の肴にあなたたちの話をさせてもらっただけです。お礼を言われるようなことは何もしておりません。」
 このことはトップシークレット。作次郎さんの正体は誰にも知られちゃいけない…って思わせる作次郎さんの大袈裟な仕草に、思わず微笑んでしまう。
 あ、別に呆れているわけでも、馬鹿にしているわけでもないぞ!俺だって未だに作次郎さんが何者なのかは謎のままなわけだし。ただ、作次郎さんの様子が、とても楽しげで、つられて俺も楽しい気分になっただけなんだ。
 香苗も同じ気持ちらしい。俺たちはゲームで言えば、次の世界へ進むための鍵を1つ手に入れた…そんな気分だ。
 作次郎さんとはこれから長い付き合いになる。いつか正体を明かしてくれる。いや、明かしてみせる。
 「今日は帰ります。明日にでもまた伺いますので。」
 「お待ちしております。お二人ともお忙しいでしょうから、うちとの商談は夕食をとりながらで良いですよ。じゃ、また。」
 作次郎さんは軽く会釈し、お客さんの許へと帰っていく。
 俺と香苗も、ペコッと頭を下げ、退散した。
 「明日、俺が作次郎さんの所に行くよ。」
 「うん。私も行きたい所だけど、明日は昼間もびっしり予定入っているし、多分夜も接待になると思う。」
 「『犬』よりか『猫』の方が優勢だから、香苗は大忙しだな。」
 作次郎さんは、皆にも俺たちのことを柴犬とロシアンブルーに例えて話していたらしい。時折客先から『ロシアンブルー』だの『柴犬』って言葉が聞かれたから。
 「香苗もこれで正式に営業職に転身だな。」
 「うん。」
 今回のことで香苗は数多くの担当を持つことになる。香苗が抱えていた営業事務の担当にはアルバイトを雇うことになりそうだ。
 「まだまだこれからよ。夢に向って一直線!次は主任を目指すわよ!」
 香苗の満面の笑顔。
 その笑顔は、俺の心にエネルギーを注いでくれた。
 明日も頑張るぞ!!!

2003.8.12

私も頑張ろう…。毎日暑くてうだってます。でも…ビールが美味い!!!!!