戻る

柴犬の願い

 男と別れた香苗は、一応両親と和解はするが、実家には戻らず一人暮らしを始める。
 勤め先はしばらくはそのままだったが、ある日転職を決意する。
 新聞に載っていたS食品への社員募集の記事。給料も福利厚生の条件もそれまでの会社よりも数段上だし、今までの香苗を知らない環境を手に入れるのが目的だった。
 「しばらく考えてたの…。どうやったら上手く生きていけるのか。で、思いついたのが猫かぶり。男って生き物への復讐。男のプライドを満足させる完璧に可愛い女を演じ、玉の輿にのってやろうって誓った。私が幸せになるためにとことん利用してやろうと思ったの。」
 「なるほど…。」
 よくやく再会した時の猫かぶりの謎が解けたぜ。
 「不況だし、雇ってもらえるかどうかわからなかったから、ダメもとで思い切り印象に残る態度をとったの。」
 香苗は、S食品での面接で大学中退に関して事実をありのままに伝え、現在の仕事への意欲は、昔の夢を語った。
 しかも、丁寧にリハーサルをした上での猫かぶりを駆使して。当然食品業界のことは徹底的に調べ抜いていた。
 可愛い女を前面に出し、『出世するのが夢です。』とキャピっと語る香苗。腰かけ狙いの何も知らないお嬢様かと思いきや、どんな質問にも完璧に応える。
 「後から聞いたんだけどね。面接した人事と役員の評価、真っ二つに分かれたみたい。呆れてものも言えない組と、面白い人材だから使ってみようって組。で、僅かに採用組の方が多かったようよ。」
 結果は見事採用。
 香苗は新たな場所で、猫をかぶり、新たに生まれ変わったのだ…。
 「男からも女からも、色んなお誘いがきたわ。『友達』って人間もたくさん作れた。いつも周りに誰かがいたわ。裏では結構悪口も言われてたみたいだけど、表面上は楽しく仲良し。人付き合いってこんなに簡単なんだって笑っちゃった。」
 「独りでいることなどなくなったわ。」…と言い切るが、言葉とは裏腹にとても寂しそうだった。
 「親しい同僚も増えて、園田さんの恋人にもなれて、順風満帆…。私が幸せになってこそ、男への復讐も達成されるってもんでしょう。」
 香苗は目を伏せ震える声で俺に訴える。
 「段々とね、猫かぶってる私が本当の私なんだって、それくらい自然に思えてきたのよ。やっと私も幸せになれると思っていた。守られて、安心して生きていけると思っていたのよ。なのに…洋介の所為で全部ぶち壊しよ!」
 「俺の所為??」
 「洋介が思い出させたのよ!!私が必死で忘れて切り捨てたものを!」
 「前にもそんなこと言ってたよな…。どういうことだよ。」
 「洋介の姿を見た時、愕然としたわ。洋介は昔と何一つ変わらない眼差しを私に向けた…。」
 そ、そりゃそうだろう。想い出深い宿敵だったんだから。今となっては愛する宿敵って自覚もしている。
 「洋介は私に絶望的な事実を突きつけた。」
 「わけわからねーよ!ちゃんとわかるように説明しろよ!」
 「結局私は独りぼっちなんだって事実を突きつけたのよ!」
 香苗の叫びが、まるで『私を助けて。』って言っているように聞こえた。
 「周りにたくさんの人がいても、私を守ってくれる恋人がいても、猫をかぶって本心を隠している限り、結局私は独りぼっちなのよ!」
 香苗は苦しそうに目をギュッと瞑る。
 「復讐のためなんて嘘っぱちで、本当はただ幸せになりたかったのよ…。ただそれだけだったのよ…。」
 香苗自身が見ようとしていなかった自分の本心を、俺が気付かせてしまったのか…。
 香苗はゆっくりと目を開け、目の前に広がる街を愛しそうに見つめる。
 「この街に住んでいた時の私が一番私らしく生きていた。ありのままの私をみんなが受け入れてくれた。洋介だって私に本気でぶつかってきてくれた。徹底的に負かされても、逃げずに何度も何度も…。楽しかった。孤独なんて感じたことなかった。最高に幸せだったのよ。」
 自分を誤魔化せば誤魔化すほど、溢れる孤独感。傍に人がいるのに独りぼっちになっていく。
 「洋介は、幸せだった頃の私の分身。まるで過去の私が今の私を責めに来ているようだった。」
 香苗にとって、俺は切り捨てようとした『本当の自分』を思い出させる存在だったんだ…。
 誤魔化し続けている先に、幸せはない…香苗自身がそう思ってしまったことで、辛い事実を突きつけてしまったんだ。
 「私は、どう足掻いても独りなのよ。自分らしくあろうとすればするほど疎まれて、愛すれば愛するほど相手を追い詰めて逃げられて、猫をかぶったらかぶったで、上っ面だけの関係に満足できない…。我ながらどうしようもない奴よね。」
 自嘲気味に笑い俺を見る。
 「作次郎さんに言われたこと、堪えたわ。本当にその通りだったから。何も言い返せなかった。私は、何もかも欲しがる傲慢な人間なんだわ…。」
 「香苗…。」
 「猫かぶっても、結局独りぼっちなら、自分らしく生きた方がマシだって思い直して、園田さんに迷惑をかけて…。私最低よね。何やってんだろう。」
 猫かぶりを止めた香苗。手元に残ったのは、どうしようもない遣る瀬無さと虚しさ…。
 香苗は俺を見ずに、深く俯く…。
 まるで顔を隠すために俯いているようだ。
 「洋介…。」
 俺が、かける言葉を必死に探していると、香苗は消えてしまいそうな小さな声で俺の名を呼んだ。
 「洋介…私を抱いて…。」
 「へ?」
 あんまり驚いたので、素っ頓狂な声しか出てこなかった。
 「今夜は独りになりたくないの…。お願い…私を抱いて!」
 それきり香苗は身を縮めて黙り込む…。
 俺の返答を待っているんだろう。
 …何だか、どんどん心が悲しさを訴える。香苗、お前って…。
 「残酷な奴だな。」
 本当に小さな、声にならない声で呟いてみた。当然香苗は聞き取れず、固まったままだ。
 心の中でため息を一つ付く。
 「いいぜ。抱いてやるよ。」
 俺はジャングルジムを降りて、香苗を見上げる。
 「何してんだよ。降りて来いよ。抱いて欲しいんだろ?ジャングルジムの上じゃ、できないだろ。」
 香苗は、自分で言ったこととは言え、少々戸惑っている。
 硬い表情のまま頷き、降りて俺の前に立つ。
 何なんだよ、香苗。その悲愴感一杯の顔は!
 「いいか。抱くぞ!」
 「え?」
 俺は思い切り良く香苗をギュッと抱き締め、すぐに解放した。
 数秒間の出来事を、香苗は理解できないでいるようで…瞬きをした後首を傾げる。
 「洋介?」
 「何だよ。注文通り抱いただろ?」
 「違う…。私の言ってる抱いてって言うのは…。」
 困惑して言葉を詰まらせている香苗。
 俺だって、言われなくたってわかってるよ!!
 香苗の求めている『抱いて』ってのが、単なる抱き締めて欲しいってのと違うのはわかってる!!
 一晩、誰かの肌を感じて寂しさを紛らわしたいんだろう…。
 だからって、『はいそうーですか。』ってセックスなんてできねーよ!
 弱りきっている香苗は、ただ『誰か』を感じたいだけなんだ。
 なんつーか、無性に腹が立ってきた!
 「あーもう!!さっきから独りぼっち独りぼっちって、壊れたレコードかよお前は!!」
 「え?」
 「香苗、大事なこと忘れてないか?」
 「な、何よ、大事なことって。」
 「うわっ!ムカつくーーー!」
 香苗、俺の言い草にカチンときたようで、目つきが攻撃モードに切り替わる。
 「何なのよ!さっきから。もったいぶらずに言いなさいよね!」
 「俺の気持ちだよ!」
 俺が叫ぶと、一瞬訝しげな顔をするが、ハッとしたように目を見開いた。
 やっと脳みその回路が俺のことに繋がったか!!
 ここにいるじゃねーかよ!お前に張り倒されても打ち負かされても懲りずに好きだって言ってる奴が!
 この際、香苗にとって喧嘩友達でも気の許せる同僚でも何でもいい…俺の存在を思い出せって!
 「俺は今の香苗は抱きたくない。気持ちが俺に向いてないのに馬鹿なこと言ってんじゃねーよ!」
 「そ、そんなこと…。」
 「そんなこと、あるだろ?今のお前の頭の中には『寂しい』ってことが最優先なんだろ?」
 香苗はようやく俺の気持ちを察したらしく、辛そうに詫びる。
 「ごめん…ごめんね。」
 申し訳なさと羞恥心で香苗は頬を赤らめる。
 「ごめんなさい…。私、洋介の気持ちを踏みにじろうとしてた…。ごめんなさい…。」
 「謝るなよ!」
 そうだよ…謝るなって。これは俺の問題だ。
 香苗が寂しいと言う度、俺の胸が痛む。
 俺の存在が香苗にとって取るに足らないものなんだと思えて、どうしようもなく気持ちが萎えてくる…。
 謝られりゃ尚更だ。
 ちくしょう!負けるもんか!
 「香苗はつまんないことうだうだ考えずに、胸張って偉そうにしてりゃいいんだよ!お前の場合無理してちゃろくなことがない!」
 「洋介…。」
 香苗が心細そうな眼差しを向ける。
 「そんな顔すんなってば!!それとも何か?香苗はたった今も独りぼっちだって思ってんのか?そりゃ目の前にいる俺に失礼ってもんだろう!」
 俺の主張に、香苗はぎこちなく微笑み、小さく首を横に振った。
 「ありがとう。もう独りぼっちだ何て思ってないよ。」
 「わかればいいんだ。それにさ、考えてもみろよ。実際、猫かぶりを止めて、逆に親しみ持った奴だっているだろ。」
 「…うん。何だか、凄く元気が出てきた。」
 言うや否や、俺に背を向け、大きく伸びをする。
 腰に手を当て、胸を張って夜空に宣言。
 「作次郎さんになんか負けるもんかー!絶対契約取ってやるわよ!!もう何言われたってヘコたれるもんですか!」
 で、クルンと俺の方へ向き直り、自信たっぷりの笑顔を見せる。
 「さて!明日に備えて帰りましょ!」
 「…ああ。」
 「今からタクシー捕まえれば明け方には帰れるし、少しは寝られるわね。」
 歩き出し、時計を見ながらブツブツと行動予定を立てる香苗。
 香苗の元気、復活!キビキビとした香苗の後姿を見て、ホッとする。
 誰にも屈することのない、孤高の女王様。
 どうか、お前を振った大馬鹿野郎なんかに捕らわれず、何ものにも縛られず、自信満々な笑顔でいてくれよ。
 力及ばずとも、せめて、その笑顔を守れたらと思う…。
 「洋介!何やってるの?置いてくわよ!」
 振り返り俺を呼ぶ女王様の声。
 「今行くよ!」
 女王様の許へ駆けてく俺は、きっと忠犬そのものだろう…。


 同じ夜。
 俺が出て行った後、作次郎さんは、カウンター席で一人日本酒を飲んでいた。
 すると、静かに戸が開いて、深夜の訪問客が現れる。
 音に気が付き振り返った作次郎さんの目に、一人の女性が映る。
 「市田社長。」
 「こんばんは。」
 「いらっしゃい…と、言いたいところですが、もう閉店してしまっています。」
 「あら?随分と冷たいじゃない。今あなたが飲んでいるのは何?晩酌くらい付き合うわよ。」
 市田社長が悪戯っぽく笑うと、作次郎さんは柔らかな笑顔になる。
 「ろくなおつまみもありませんが、それでもいいならどうぞ。」
 お猪口をもう一つ取り出した作次郎さん。
 市田社長は手にしていた手提げ袋から折り詰めを取り出す。
 「大丈夫。お寿司を買ってきたから。」
 そう言って先次郎さんの隣へ腰を降ろす。
 「どう?私の可愛い柴犬と、生意気なロシアンブルーは。」
 「市田社長も人が悪い。私を苛めて楽しいですか?」
 「あらイヤだ。苛めてなんていないわよ。」
 市田社長は、大袈裟に心外って態度を取る。でも、その後コロコロと笑う。
 「と、言っても、確かに作次郎さんがどんな反応をするかは興味があったわね。」
 「やっぱりね。そうだと思いましたよ。」
 「でも、あの子達には作次郎さんが必要だと思ったわけだし、作次郎さんにとっても、あの子たちと接することは意味のあることだと感じたのは本当よ。」
 「やれやれ。あなたには叶わない。」
 「何を言ってらっしゃるの?私のすることに動揺したことなんてないじゃない。」
 「いえ…。」
 作次郎さんはお猪口に揺れる酒を見つめ、静かに言った。
 「今回は、本当に参りました。」
 市田社長は作次郎さんの様子に優しげな眼差しを向け、小さなため息を一つ付く。
 少ししみじみとした空気が流れるが、市田社長の一声で会話が事務的なものになってくる。
 「まあ、ともかく本題にいきましょう。」
 「…そうですね。」
 「あの2人の見込みはどうかしら?作次郎さんのお眼鏡に叶う人材?」
 「もう少しだけ答えは待っていただけませんか?」
 「もちろん待ちますわ。作次郎さんのお墨付きがいただければ、他の誰に保証してもらうより箔がつきますもの。」
 市田社長のはしゃいだ様子に、作次郎さんは苦笑いする。
 「私を買いかぶり過ぎです。」
 「そんなことはないわ。私と似たようなことを頼んでくる人はたくさんいるでしょう?」
 「揃いも揃って私という人間を見誤ってるだけですよ。」
 市田社長は、作次郎さんの言い様に少し呆れ顔。
 「素直じゃないわねぇ。作次郎さんがどう思っていようと、今まで期待を裏切られたことはないわよ。」
 「どう思おうと構いませんが、どんな結果が出ようと私は責任持ちませんよ。」
 「わかってますわ。これは仕事じゃないですもの。」
 「私にとっては、かなりプレッシャーを感じる責任重大な仕事ですよ。」
 「またまた、そんな繊細ぶっても私は騙されませんよ。」
 市田社長は作次郎さんの背中を、少々乱暴に叩き、高らかに笑う。
 作次郎さんは苦笑いし、日本酒を一口飲んだ。
 …作次郎さんと市田社長の、こんなやり取りを俺が知る由もなく…2人の会話の意味を俺と香苗が知るのはもう少し後だった。

2003.7.5 
TOP

本日焼肉を食べて参りましたー。お腹一杯でございますわ!!