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噂と告白


 俺と香苗は、社内では見事に演技をしていたが、2人きりになった途端に、ごく自然に昔のままの2人に戻っていた。
 昔のままの香苗との会話の方がやっぱりしっくりくる。
 猫かぶり中の香苗の優しい言葉より、辛辣な言葉言いまくりな香苗の方が、俺自身も自然に言葉を返せるんだ。

 俺以外のみんなにとって、猫を被っている香苗の方が自然なんだろうけど…俺にはどうも無理しているように見えてしまう。
 まあ、このこと以外は、俺の生活は仕事を覚えることに追いまくられ、ごく普通の新人としての日々が過ぎて行った。

 6月も下旬に差し掛かった頃。
 俺は社員食堂で昼食をとった後、ジュースを買おうと自販機のある休憩室へ行った。
 社員用の休憩室は本社ビルの最上階にある。結構広いフロアで、窓際にカウンター席が並んでいる。夜などは夜景が綺麗だったりする。
 休憩室に足を踏み入れ、ふと、目に留まった光景。
 カウンター席の一番隅で、男女が座っている。
 入り口からは2人の背中しか見えないのだが、ガラス窓に映る姿で、男女のうち、女性の方は香苗だということがわかった。
 …香苗はとても楽しげだった。
 男性の方も見覚えがある顔だ。

 新人研修で各課へ挨拶回りをした時、社交辞令的な挨拶の言葉を交わしたことがある…確か総務部の課長…園田隆一郎。
 課長と言っても、まだ30歳そこそこ。うちの会社の社長の一人息子だとか…研修課の課長が教えてくれた。
 社長命令で、色んな部署を渡り歩き、経験値を上げているらしい。
 少し性格がきつそうな印象を与える目をしているが、ハッキリ言ってカッコイイ。180cmくらいある長身で、物腰も優雅。同期の女子社員など、ウットリしてたもんな。
 …それにしても、香苗の奴、本当に楽しそう。でも…会話までは聞こえてこないけど、仕草や笑顔は相変らず猫かぶり。
 って、俺、何やってんだ?ジュース買いに来ただけなのに、なんで香苗のこと観察してんだよ。
 俺は入り口付近にある自販機にお金を入れて、ジュースを選び、とっとと用を済ます。
 香苗に気がつかれることなく休憩室を出て、営業部のフロアに戻る。

「椎名君。」
 俺の席の傍にいた女子社員が笑いかける。
「夏目、どうしたんだ?」
「あのね、今夜同期で飲み会やろうって話があるんだ。私、その連絡係なの。椎名君、出席できる?」
「ああ。何時から?」
「6時から。『居酒屋ひょうたん』で集合だって。」
「わかった。」
 用件が終わると、夏目はほんわかしたニコニコ顔で去って行った。
 夏目の笑顔はいつもほのぼのしている。
 彼女の名前は夏目七恵。俺の同期。年も同じ22歳。
 本年度入社の新人は、俺を含め男4人の女4人だ。結構仲が良くて、その中でも俺は夏目と一番気が合う。
 夏目は誰とでも仲良くできるタイプだ。ちょっとのんびり屋のところがあるけど、そう見えて周りにいつも気を配っている。いつでもニコニコしていて、彼女がいるだけで場が和む。身長が150cmそこそこで、小柄で童顔。制服に着られているって感じだ。
 夏目が何をやってても、何故だか微笑ましい光景になる。
 そういや、夏目、総務部だったよな…。

 脳裏に先ほどの香苗と園田課長の顔が過ぎる。
 何気にしてんだ?俺。

 この日は定時近くに客先から問い合わせの電話があり、多少の残業を余儀なくされた。
 香苗はというと、定時ぴったりに帰っていった。
 仕事を終え、タイムカードを押し、『居酒屋ひょうたん』へ向う。
 本社から徒歩10分位の所にある、安くてそこそこ美味しいものを出してくれる店だ。
 店内に入ると、まずテーブル席があり、その奥に座敷が何部屋かある。
 そのうちの一部屋に通された。

 すでにみんな集まっていて、ひとしきり『遅いぞ!』と責められる。
 ビールも飲まずに待っててくれたのか。
 俺が来たすぐ後に、数本の瓶ビールが運ばれてくる。
「はい。椎名君。」
 俺の隣には夏目がいて、ビールを注いでくれた。

 さっそくみんなで乾杯し、後は配属先での様々な体験談を語り合う。
 程よく酔ってくると、みんな多少気の大きいことも言い出す。
 ちょっとした仕事に対する不満や愚痴。
 どれくらい経ってからだろう。話が仕事のことから会社の噂話になったのは…。

「ねえ、そういえばさ、宮内先輩の噂、知ってる?」
「あ、私知ってる!椎名君は?同じ営業部でしょ?」
 夏目以外の女子2人が盛り上がるネタを提供するため、張り切っているって感じで話し出した。
 何だよ、香苗の噂って。
 俺の知ってる香苗関係の噂は、男性社員から社内ナンバーワンの人気を誇っていて、ついでに嫁さんにしたいナンバーワンでもある…ってことくらいだ。

「男ども!良く聞きなさいよ。宮内香苗の外見に騙されちゃいけないわよ。」
「そうそう。あの人、か弱くて可愛いふりしているけど、本性は、いつも腹黒い計算して、笑顔振り撒きながら、裏じゃ男弄んでんだって。清楚でおしとやかな女だと思ってたら大間違いよ。」
「出世の見込みのある男を手玉にとって、玉の輿結婚狙ってんのよ。男奪われた女子社員、たくさんいるんだって。」
「『宮内さんは僕が傍で守ってやらなきゃだめなんだ。』って男に思わせて、気を惹かせて手に入れて、出世の見込みがなくなったり、利用価値がなくなると、すぐにポイッと捨てちゃうんだって。」
「その宮内香苗の現在のターゲットは、総務部の園田課長なんだってさー。」
「あーあ。園田課長、すごくカッコイイのにな。その上将来は社長!もう宮内香苗の手に堕ちてるって、もっぱらの噂だよ。ガッカリ。」
 軽快に話す女子二人に、時折、俺以外の男性陣が「嘘だー。宮内先輩がそんなことするはずない〜。」とか「女って怖い…。」とか、コメントしていた。

 俺はというと、酷く不愉快になっている。
 噂に腹が立つ。
 香苗はそんな奴じゃない。
 そりゃ我侭だし、気は強いし、攻撃的だし、口悪いし、時々「こいつは悪魔か?」って言いたくなるほど辛辣だ。
 でも、あいつはいつも正々堂々、勝負を挑んでた。
 少なくとも、俺の記憶の中にいる香苗は、直球勝負をする奴だった。
 いくら今猫を被っているって言ったって、恋だってなんだって、本気で勝負する時は自分を偽ったりしないはずだ。

「椎名君…どうしたの?」
 隣にいた夏目が、少し固い表情で俺の顔を覗き込む。
 ヤバっ。俺、今、かなり不機嫌な顔してたかも…。

「いや、何でもない。」
 笑顔作って答えたが、ダメだ。誤魔化せない。夏目はぼんやりしていそうで、実はとても敏感。
 隠し通せない…と観念した、その時…。

「ねえ、それよりさ、私ね、今日悲惨な失敗しちゃったんだ。」
 夏目は、突然別の話を持ち出し、話題を変えようとする。
 みんなも、夏目の笑える話に耳を傾け始め、香苗の話はここで終わった。

 3時間ほど飲み、店を出た。みんなはカラオケに行こうと言うが、俺は帰ることにした。
 付き合い悪いぞと文句を言われ、詫びをしながらそそくさと退散する。
 
 駅に向って歩き出し、しばらくすると、後ろから俺を呼ぶ声がした。

「椎名君ー。」
 この聞き覚えのある、どこか力の抜けた声は…。
 立ち止まり、振り返ると、夏目が小走りに俺の許へと駆けてきた。
 息を弾ませ、ニコッと笑う。
「追いつけて…良かった〜。」
「夏目、カラオケ行かなかったのか?」
「うん。駅まで一緒に行こう。」
「あ、…うん。」
 ゆっくりと歩き出し…俺はまず、夏目に礼を言った。

「夏目、さっきはありがとう。」
「え、何のこと?」

 夏目は、へロっと笑う。…気がついてない振りをしてくれてんだな。

「さっきさ、俺に気を遣って、話題変えてくれただろ?」
「………うん。」
 気のせいかな。夏目の笑顔が、少し寂しげなものになる。

「ねえ、椎名君。」
「ん?」
「あのさ…椎名君は、宮内先輩のこと、好きなの?」
「え?」

 言われて、俺はドキリとし、同時に今まで考えもしなかったことに胸が熱くなる自分に戸惑う。

「椎名君…。」

 何も答えないでいる俺に、夏目がため息混じりに言う。

「やっぱり図星?」
「い…いや。そんなこと、ないぞ。」
 否定するが、実のところ自分の気持ちを掴みかねている。

「でも…宮内先輩の噂話聞いている時の椎名君、怒ってた。あれって先輩が悪く言われたからでしょう?」
「…うん。でも、それは、香苗…いや、宮内先輩が俺の小学校時代の友達だから…。」
 正確に言うと、『女王様と家来』の関係だったが…。
 子供時代の友達という言葉を聞いて、夏目が少し驚く。その後、心なしかホッとしたように笑う。
「そうだったんだ〜。」
「ああ。だから知ってんだ。宮内先輩は噂みたいな奴じゃない。」

 そうだ。そんな奴じゃない。
 だから、無責任な噂に腹が立つ。
 俺が勝ちたいと思った香苗は、小細工なんかせず真っ向から勝負する奴だ。恋だって同じだ。
 それに、心底好きになった奴じゃなきゃ、付き合わない…早苗はそういう奴だ。…と、思う。
 それなのに、玉の輿狙ってるだって?冗談だろ。

「椎名君。何処行くの?」
「へ?」
 夏目の声が背後から聞こえてくる。

 振り返ると、夏目が困惑気味に立ち尽くしていた。
 うわ。俺ってば、考え事してて、駅を通り過ぎてたんだ。

 慌てて引き返し、改札を抜けた。
 俺が乗る電車は上り、夏目が乗る電車は下りで、反対方向だ。
 ホームを挟んで上下線が発着している。お互いの電車が来るのを待つ。

 しばらくして、下りの電車が先に到着した。

「じゃあね、椎名君。」
 夏目が軽く手を上げ、微笑みながら電車に乗り込む。

「ああ。また明日な。」
 俺も笑顔で応え、見送ろうとしたが…。
 夏目が、いつもと変わりない、柔らかな笑顔を向け…わりかし大きな声で言う。

「あのね、椎名君。」
「ん?」
「私ね、椎名君のこと、好きなんだ。」
「ふーん。……へ??」

 なぬ?
 好き?

「入社式の時から、ずっと好きだった。」
 爽やかに言ってのけ、その直後、ドアが閉まる。
 電車が走り出し、車内の夏目は、何故だかピースサインをして、笑って去って行った。

 ホームに取り残された俺…。
 周りにいた結構な人数の通行人が、今の告白を聞いていて興味津々って感じで俺を見ているが…そんなことよりも…。

 …聞き間違い…じゃないよな??
 俺のことが、好きだって?
 この後、すぐに上り電車も到着したが、呆然としていた俺は、気が付かずに乗り過ごした…。

2002.11.17