薔薇と猫
何の匂いだろう・・・。 むせ返るような甘い匂い。 俺は目をあける。 白い天井が見える。体をゆっくりと起こし、驚愕する。 「な、何だこれ??」 広〜い部屋の床一面に真っ赤な薔薇の花が敷き詰められている。 部屋中立ち込める薔薇の匂い・・・。 しかも、床って、大理石だぜ。 で、俺はと言うと…すっ裸で円形の巨大なベッドの上にいる…。 慌てて下半身を毛布で隠す。 と、自分以外の気配を感じ、顔を上げると、いつの間にか目の前に…こんな状況で最も会いたくない人物が立っていた。 「椎名君。この日を待っていたわ…。」 「い…市田社長。」 んぎゃぁぁ!市田社長ってば!!ピンクのネグリジェを着ているぞーーー! これ見よがしに豊満な胸を見せ付ける。 俺は尻餅を付いた格好で後退りするが、無情にも、壁が俺の退路を経った。 「椎名君ってば、照れてるのね。可愛いわ。」 市田社長はベッドに腰を降ろし、体をくねらせて俺に熱い視線を送ってくる…。 照れているのではなく、怯えているのですーーーー!俺の想いよ、届いてくれーーー! 「大丈夫よ。私がちゃんと気持ちよくさせてあげるから。」 ベッドに上がり、四つん這いで俺に迫ってくる市田社長…。 「ちょ、ちょっと待って下さい!!」 「椎名君。往生際が悪いわよ。あなたは作次郎さんを堕とせなかった。勝負に負けたのよ。」 そりゃそうだけど…。 まだ心の準備も体の準備も出来てないです〜。 「潔く、全部私のものになっちゃいなさいな!」 市田社長が、俺の最後の砦の毛布をもぎ取り、覆い被さってくる。 で、俺の下半身に顔を埋め…。 ああ、生暖かいリアルな感触…。 「い…嫌だあぁぁぁ!!!」 俺は最後の抵抗で、思い切り叫んでいた。 で、その声で目が覚めた…。 汗ぐっしょりで目覚めた場所は、俺の部屋だった。 あの恐ろしい光景が夢だと認識するまでに時間がかかったが…。 バクバクと心音を鳴らす俺の心臓を鎮めながら、もう一度辺りを確認する。 確かにここは俺の部屋だ。薔薇も市田社長もいない。 夢だったんだ〜。と、ホッとした時、下半身に感じた温かさは未だに存在することに気がついた。 心臓が止まりそうなほど驚き、掛け布団として使っていたタオルを剥ぎ取ると…姫が俺の股をクッション代わりにして気持ち良さそうに眠っていた…。 こ…こいつ…。なんてトコで寝てやがるんだーーー! 人肌でなく、猫肌だった…。 俺が動いた所為で姫は目を覚まし、軽く顔を上げる。 で、あくびをした後、ベッドから飛び降りて、飯を催促する。 どこまでも勝手な奴だ…。お前の所為で最悪な夢を見たじゃないかぁ〜。 「にゃぁ〜。」 姫の飯を早くもってこいコールだ・・・。 「…はいはい。わかりましたよ、お姫様。」 市田社長に身を委ねるくらいなら、姫の下僕でいた方がいくらかマシだしね…。 姫が『はぐはぐ』とキャットフードを食べるのをぼんやり見ながら、俺は暗い気持ちになっていた。 昨晩の作次郎さんとの決裂が、重く圧し掛かる。 客としても出入り禁止になっては、よほど嫌われたとしか思えない。 それにしても…。 「作次郎さんって…一体どういう人なんだ?」 昨日の出来事で、作次郎さんの人柄がわからなくなった。 人当たりの好い、気さくで優しい人。作次郎さんの店に訪れるお客さんはみなそう思っているだろう。 もちろん俺もそう思っていた。 でも、昨日香苗との言い合いで垣間見せた作次郎さんの一面を想うと、イメージは全然違う。 あっちが本当の作次郎さんなのか?・・・と思いを巡らせ、ふと、気がついた。 お客さんはみんな作次郎さんに心を許しているけれど…。 「作次郎さんは、実は誰にも心を許していないんじゃないか?」 言葉にしてみると、更に現実味を帯びてくる。 二日間を振り返ってみる。 作次郎さんが、自ら自分自身の気持ちを語った言葉って、何かあったか? アドバイスとかで語るのではなくて、聞いて欲しくて語る気持ちや、聞き手ではなく、話し手として語ることなど、全くなかったような気がする。 会話する時ってそれぞれの役割みたいなものが自然に出来ることが多い。 聞き上手な人はいるだろうし、その役割が好きな人もいるだろう。 でも、完璧に聞き手にしか回らない人っているのだろうか? 誰でも、どこかで自分の話を受け止めてくれる人を求めているんじゃないか? …まあ、『客』と『店のマスター』って関係の場所だけで、作次郎さんの全部を知ろうとするのが間違っているのかもしれないけれどね。 でも、少なくても、作次郎さんの店に来る客は、『客と店のマスター』って関係以上のものを感じていると思う。 でなきゃあんな雰囲気を出せやしないよな…。 うーん。 いかん。段々脳みそが煮詰まってきた。 「…何にしても、諦めるわけにはいかないよな。」 とにかく、沈んだ気持ちを元気モードに切替える。 「さて、会社に行きますか。」 カーテンを開け、窓から差し込む朝日を浴びて、大きく伸びをする。 姫も俺につられたのか、前かがみになってお尻を高く上げて背中を伸ばす。 通勤途中、混み合う電車の中で偶然香苗の姿を見かけた。 香苗は気がついていないようで、俺は人を掻き分け香苗の隣に行く。 「おはよう。」 声をかけると、香苗は顔を向け、目を見開いた。驚かせちゃったみたいだな。 「おはよう。昨日はお疲れ様。」 やっぱ香苗も少し気落ちしているのか、笑顔は見せるものの、声に力がない。 「…洋介。」 「ん?」 「ごめんね。」 「何謝ってんだよ。」 「作次郎さんが出入り禁止なんてこと言い出したの、きっと私の所為。だから、ごめん。」 「何で香苗は『自分の所為』だって思うんだ?」 「私…作次郎さんに生意気なこと言ったし。作次郎さんにとっては私たちの手助けなんて鬱陶しいことだったのよ、きっと。」 「…作次郎さんの真意まではわからないけれど、俺は香苗の言ったことに同感だった。だから謝るなよ。」 香苗はイマイチ納得がいかないようで、唸っている。 しばらくそうしていたが、ため息とともに顔を上げた香苗の表情は、いつもの元気なものになっていた。 何やら吹っ切ったような気配…。 「ま、くよくよしてても何も解決しないものね。」 香苗の独り言。気分を一新させたようだ。 「でさ、洋介。私、これからどうするか、色々考えたんだけど…。」 いきなりハツラツとしてこれからの作戦を練り始める香苗。 と、俺のこと見て訝しげな顔をしている。 「…洋介。あんた何笑ってんのよ。」 え?俺、笑ってた? いけね!何だか元気な香苗を見れて、嬉しいのとホッとしたのとで、いつの間にか顔が緩んでいたらしい。 そんな場合じゃないのに、ノー天気だなぁ。俺。 俺の様子にぷんすか怒る香苗。 「人が真面目に仕事の話しているのに、ニヤケないでよね!」 「悪い。で、何か好い提案があるのか?」 「好い案なんてないわよ。…ただ、別のやり方で作次郎さんのことを知ることはできるわ。」 「へ?」 キョトンとしている俺の目の前に、香苗が数枚の名刺をかざす。 「昨晩、結構お客さんに気に入られちゃって、名刺もらっちゃったんだ。」 おいおい。モテモテじゃねーか。 俺の思ってることが香苗に伝わったのか、軽く睨まれる。 「『あんたみたいに威勢の良い女は、女にしておくのは惜しい!今度飲み明かそう!』だってさ。完全に女扱いされてなかったわよ。それに、女性からも誘われてるしね。よっぽど私と飲む酒は美味しいらしいわよ。」 香苗は複雑な面持ちで言う。 ・・・話題を元に戻そう。 「で、香苗としては、『作次郎の家』の常連さんから情報をもらおうって言うの?」 「今はそれしかないと思うの。今の状態で作次郎さんにしつこくするのは、事態を悪化させるだけのような気もするし。かといって、一体何が作次郎さんの逆鱗に触れたのか確かめないと謝りようがないもの…。突破口も掴めない。でも…私たちが探ってるって知ったら余計反感買うかしらね。」 この時。 香苗の話に耳を傾けながら、あることに気がついた。 昨晩の香苗と作次郎さんのやり取りが脳裏を過ぎる。 「…なあ、香苗。」 「ん?」 「少しの間俺に任せてくれないか?」 「何か思いついたの?」 「うん。いや、思いついたと言うより、確かめたいことがあるんだ。」 「わかった。洋介に任せる。でも、逐一報告してね。私は作次郎さんに売り込めそうな商品をピックアップしとく。」 「…うん。」 いつもの香苗なら、もっと食い下がってくるだろうに…。やっぱり責任を感じちゃってるんだな。 確かに、香苗との言い合いで作次郎さんは態度を豹変させた。その後の出入り禁止令だ。 気にするなと言う方が無理なんだろう。 けれど…見方を変えると、もしかして、これってチャンスかもしれない。 研修中、営業所の先輩が言ってた言葉を思い出した。 『客が怒っている時こそ、本音が聞ける。よ〜く探してみると、宝の山かもしれないぜ。』 とんでもないクレームの電話を受けた後、先輩が意気揚々と言ってた。 クレームなんて、誰だって受けたくないだろうに、それを嬉しそうに対応しているなんて、珍しい人だなって思ったんだ。でも、その日中に客に満足な形で解決し、次の日には新しい契約をもらってきた。 目から鱗が落ちたよ。 先輩は、その客先から心底信頼されてた。ピンチをチャンスに変える、凄い人だった。 作次郎さんが昨晩見せた新たな一面は、俺たちにとってチャンスかもしれない。 …今はそう思って突き進むしかないだろう。 この日、俺の携帯に作次郎さんから連絡は入らなかった。 ま、予想はしてたけどね・・・。 会社帰り、『作次郎の家』を覗きに行くと、戸に張り紙がしてあって、一週間休業しますと書いてあった。 |
2003.4.23 ⇒