混戦状態E
今夜も、6時ちょっと前に店に到着した。 「いらっしゃいませ。おや?宮内さんと椎名さん。連日のお越し、ありがとうございます。」 作次郎さんは俺たちの顔を見ると、優しい笑顔で迎え入れてくれた。 端っこの席がちょうど2人分空いていた。滑り込みセーフ。俺たちで満員になる。 「うーん、いい匂い!」 席に座るや否や、香苗が目を細めて、うっとりと呟く。 店内に立ち込める美味しそうな匂いに、俺も気がつく。 この食欲をそそられるいい匂いはシチュー!?それも、きっとタンシチューだ。 「今夜は洋食ですよ。お飲み物は何になさいますか?」 作次郎さんは注文を取りながら、冷たいお絞りを手渡してくれた。 「私はワインにします。」 「俺…いや、私もワインをお願いします。」 咄嗟に、口篭ってしまう。 「椎名さん。お客様としていらっしゃっているのですから、言葉も姿勢ももっと楽にして下さいね。さもないと、美味しいシチューを食べさせてあげませんよ。」 作次郎さんは目を細めて笑う。 う〜ん。どーも、俺らしくなく、少し緊張しちゃっているみたいだな。 「洋介。気楽に行こう。楽しもうよ。」 香苗が無邪気な笑顔を向けてくれた。 そうだよな。肩の力を抜かなきゃ。 心の中で深呼吸し、勢い込んでいた気持ちを和らげる。 とりあえずワインで乾杯。オードヴルはサラダとチーズの盛り合わせ。盛り付けが可愛らしくて気分を和らげてくれる。 シチューはトビっきり美味しくて、食べることだけに専念しそうな俺だったが、何とか作次郎さんの様子から目を離さずにいた。 作次郎さんは昨晩と同じようにお客さんの相手をしながら立ち回っていたが…。 作次郎さんが背を向け、棚からボールを取ろうとした時、手からボールが滑り落ち、派手な音を立てて床に落ちた。 「失礼しました。驚かせてしまいましたね。申し訳ありません。」 ちょっと照れたように笑い、お客さんに詫びる作次郎さん。 しゃがんでボールを取る時、俺たちの視界から作次郎さんはいなくなったけど、立ち上がったほんの一瞬…俺は気が付いてしまった。 本当に、ほんの一瞬だったけど、作次郎さんはちょっと顔をしかめていた。 イライラしているように感じたけど…。 横にいる香苗を見てみると、目を見張っていた。 どうやら香苗も気がついたようだ。 何食わぬ顔でボールを洗い、再び俺たちの方へ向き直った作次郎さんの顔は、すでに穏やかなものになっていた。 客との会話もノリに乗ってて、別段変わった風ではないけれど、さっきの作次郎さんは明らかに『らしくない』雰囲気だったよな…。 さり気なく注意して見ていると…いつも通りに立ち振る舞っているかのような作次郎さんに、ちょっとした違和感を感じ始める。 時折表情が硬くなる…ような気がした…。 「…ねぇ、洋介。何となく、今日の作次郎さんの様子、違和感を感じない?」 香苗が小声で訊いてきた。俺は軽く頷く。他の客は気がついていないようだけれど、何となく変だ。 小一時間ほど経ち、その間新たな客が何人も来たが、満員の店内を見て早々に諦め、帰って行く。 もっと広い店だったら売上も伸びるだろうと思うけど、この雰囲気を保つには今の席数で限界なんだろうなぁ。 ふと、遠慮がちに戸を開ける音がした。 振り返ると、見覚えのある女性が顔を覗かせていた。 やっぱり来た!…と、心の中で呟く。 今晩のメニューがタンシチューだったので、もしかして彼女が来るのではないか、と漠然とながら思っていた。 この女性、昨晩作次郎さんと話しこんでいた人。彼女の好物はタンシチュー…。今夜のメニューは彼女のために作られたものってことだな。 作次郎さんは、彼女に気がつき笑いかけるが、少々困惑した顔になる。 「いらっしゃいませ。…と、言っても今満席で…。」 「いえ、すみません。予定より1時間も早く来てしまったんだもの。また頃合を見て出直します。」 女性はぎこちなく微笑み立ち去ろうとする。 作次郎さんは呼び止めようとカウンターから出てくるが、軽くヨロケ、壁に手を付いた。 「大丈夫ですか?」 香苗が即座に立ち上がり、作次郎さんの許へ駆け寄る。 女性も、驚いて立ち去ろうとする足を止める。 作次郎さんはバツが悪そうに笑う。 「申し訳ありません。少し蹴躓いてしまっただけなので、大丈夫です。」 違う…。 俺は咄嗟にそう思った。根拠はないけれど、作次郎さんは嘘ついてると感じた。 香苗もチラッと俺を見て、頷く。俺の考えてることがわかったらしく、<あんたの考えていることに同感よ>って意思表示をしたのだろう。 他の客も、作次郎さんを気遣うような眼差しを送る。 「すみません。本当に大丈夫ですから。」 作次郎さんはシャキッと姿勢を正して、余裕の笑みを披露する…が。 「とにかく、まずは座って下さい!」 香苗は強引に作次郎さんの手を引き、自分の席へと連行し、有無を言わさず座らせる。 俺も行動に移す。 入り口でおろおろと立ち尽くしている女性に声をかける。 「あの、ココ座ってください。」 立ち上がり、席を譲る。 「え?でも…。」 「俺たち、もう食事ほとんど済んでましたし、どうぞ!」 女性はおずおずとした足取りで、それでも何とか席に着いてくれた。 俺と香苗の行動に呆気に取られていた作次郎さんだったが、我に返ったようにハッとして立ち上がる。 「お客様をそっちのけで、私が座っている訳にはいかないですよ。」 表情は穏やかだけど、今度は止められない雰囲気だな。 と、香苗が作次郎さんの腕を軽く掴み、耳元で何やら囁く。 「…足、痛めているんですよね?」 小さな声だったが、凛としてある種の威厳を感じさせるものだった。 足を痛めているって? 作次郎さんの足許に目をやる。 服と足袋で素肌が見える場所がないので、怪我とか捻挫をしているとかは、わらかない。 香苗は何で気がついたんだ? 作次郎さんは笑顔のまま、まじまじと香苗を見詰める。 香苗も作次郎さんを真っ直ぐに見つめ、ある提案をする。 「作次郎さん。私も椎名も、何でもお手伝いしますよ。遠慮せずに使って下さい。私も椎名も、作次郎さんの仕事を乱すようなことはしませんから。」 香苗はニッコリと微笑む。 …香苗の笑みが、俺には何処か脅迫めいたもんに感じた。 作次郎さんはため息をついて、一本取られたって顔する。 両手を肩の辺りまで上げ、降参のポーズを取る。 「参りました。ここは宮内さんの言うとおりにします。よろしくお願いします。」 丁寧に頭を下げる。 そして、心配そうにことの成り行きを見ていたお客さんを見渡し、おもむろに口を開く。 「ご迷惑かけてすみませんね。実は料理の仕込みをしている途中で足を挫いてしまって、少し本調子ではないんです。」 やっぱり香苗の言った通りだったんだ。 「大丈夫なのかい?」 「医者には行ったの?」 お客さんの間から、作次郎さんを気遣う質問が飛び交う。 「お医者様には診てもらったので、心配ありません。それに、今日は心強い助っ人が名乗りを上げてくれましたから。」 作次郎さんは、右足を庇いながら歩き、カウンターの中にあった椅子に座る。 捻挫は右足だったのか。今までは隠していたんだな・・・。全然気がつかなかった。 「宮内さん。椎名さん。よろしくお願いします。まず、その、ちょうど後ろの棚からエプロンと三角巾を取って、身につけて下さい。それと、あそこの洗面台で手を洗って消毒して下さいね。」 作次郎さんが、カウンター越しから俺たちに指示を出す。 俺と香苗は言われたとおりにする。 エプロンを身につけながら香苗と小声で話す。。 「香苗。お前のさっきの笑み、迫力があったぞ…。」 「そりゃそうよ。ちょっと脅してたんだもん。」 「へ?」 脅すって…。穏やかじゃないな。 俺がギョッとしていると、香苗はウインクをする。 「作次郎さんって、結構意地っ張りね。足の捻挫を隠してたのも、本当は知られたくなかったんでしょう。それだけお客さんに気を遣わせずに、くつろげる雰囲気を大切にしているってこと。で、バレちゃったら、次に考えることは、できるだけ雰囲気を崩さないで済む状況にもって行こうとするでしょう。どう考えても、誰かの手が必要よね?」 「じゃ、お前、『私たちを使わなきゃ、この場を乗り切れないわよ!』って念を入れて微笑んでいたってことか?」 「ご名答。作次郎さんもすぐに察してくれたしね。」 香苗は唖然としている俺をよそに、軽やかな足取りで洗面台へ行き、手を洗って消毒する。 俺も後に続く。 しっかし、香苗の奴、咄嗟にそこまで見越して行動するなんて、凄いよなぁ〜! お客さんに挨拶をしてカウンター内に入る。 「私、椎名と、宮内が飛び入りの助っ人になります。不慣れですが、よろしくお願いします。」 2人揃ってペコリと頭を下げる。 「大丈夫ですよ。このお店のお客さんは、みんな大人しいですから。」 一人の女性が親しみを込め言ってくれた。 「おやおや。お兄ちゃん、エプロン姿、えらく似合うね。」 中年のスーツ姿の男性が悪戯っぽく冷やかす。 良かった。みんな気さくに受け入れてくれた。 作次郎さんは俺に調理補助、香苗にホール係りを託した。 俺の傍に座り、色々と指示してくれる。 料理の下ごしらえは出来ていて、後は仕上げればいいだけのものだったので、俺にも何とか勤まりそうだ。 俺、実は学生の頃調理補助のバイトをしたことがあって、慣れているんだ。こういう状況。 香苗もぎこちないながらも、お客さんの食事ペースに気を配り、飲み物がなくなった時を見計らい、注文の声をかけたり、空の食器を片付けたりしている。 段々場慣れしてきて、お客さんとも気軽に会話が出来るようになってきた。 俺は、最初に声をかけてくれた女性との会話に弾みがついていた。 市田社長と同じ位の年齢かな。薄化粧でTシャツにジーンズ姿。柔らかな仕草から優しさを感じ、好感が持てる。 「椎名さんはサラリーマンなのね。」 「はい。まだ新人です。」 「若くていいわぁ。肌なんてピチピチよね。美味しそう〜。」 「美味しそうって…。」 思わず苦笑い。 「食べちゃいたいわ。」 「俺なんて食べたら胃腸薬が必要ですよ。」 「椎名さん。モテてますねぇ。」 作次郎さんが横から口を挟む。 モテてるわけじゃなくて、からかわれているだけだと思うぞ! 女性は軽やかに笑い、作次郎さんにウインクする。 「大丈夫よ、作次郎さん。私の本命は作次郎さんだけだから〜。」 「と、言うことは、私もまだまだ若い者には負けないってことですね。」 「酷いっすよ!じゃあ俺とは遊びってことですか〜?」 「まあ、男も女も、熟した方が味わい深いと言うことよ。坊や。」 「そう言う事です。椎名さん。」 ってな会話を続ける。 女性がトイレに席を立った時、作次郎さんがふいに言った。 「椎名さんも宮内さんも、『華』があって助かりました。」 「え?」 華がある?どういう意味だ?華…華やかってことか? 確かに香苗は綺麗だし、会話のノリもいい。でも、俺はどう考えても華があるとは言い難い。 作次郎さんは俺の考えていることがわかっているようで、軽く笑い、首を横に振る。 「違いますよ。私の言う『華』と言うのは、外見のことではないんです。」 「じゃあ、どんな『華』なんですか?」 「こういう接客の場…特にお酒を出す『水商売』には、『華』が必要なんです。さりげなく自然にお客さんの傍に咲き、居心地の良さを感じさせる『華』です。色々な『華』があります。お客さんへの気遣い。豊富な話題。失敗をしても元気な笑顔。ゴージャスな気分にさせる。安らぎ。まあ、十人十色で色んな華を持ち合わせている人がいます。どんな『華』があるかで、お店の魅力も決まってきます。」 …何となく、わかってきた気がするが。 「ちなみに、俺にはどんな『華』があるんですか?」 「気楽さですね。話しやすい。椎名さんは相手を警戒させず、和ませる『華』があります。それに手際も良い。こういう仕事は初めてではありませんね?」 「はい。…でも、どうしてわかったんですか?」 少々驚いた。 作次郎さんはホッコリ笑う。 「男性なのにエプロンの身につけ方が自然でしたし、カウンター内に入ってからの仕草を見てれば何となくわかりますよ。カウンター内に目を走らせ、頭の中で何をやるべきか自然に考えていたでしょう。」 「はい…。確かに。」 だから俺を補助にしたのか。にしても、凄い観察力だなぁ。 作次郎さんは香苗に目をやる。 「宮内さんは、きっとホールのお仕事は初めてなんでしょうね。ぎこちなさがあります。でも、気を配るポイントは掴んでいます。それに、何より度胸がありますね。会話も積極的だし、彼女の『華』は説明することもないですね。」 …うん。説明はいらない。 香苗からポンポンと飛び出す軽快なトークにお客さんは、時には笑い、時には呆気に取られ、聞き入っている。 男性も女性も香苗に興味津々だ。 「君は、黙っていればお嬢様風に見えるのになぁ。ギャップが激しいよ。」 「なら、ずっと黙ってた方が得ってことですね。」 香苗は口許に手を持って行き、チャックを閉める仕草をする。 「話さないつもり?」 「いつまでもつかな〜?」 みんなが下らないギャグを言い出し、ついに耐え切れなくなった香苗は突っ込みを入れる。 「寒いですよ!寒過ぎるギャグ〜!!冷房じゃなく、暖房付けたくなってきますよ!」 「うあ!本当に暖房つけるつもりなの!?やめてくれー!このクソ暑いのに〜。」 相手が誰でも臆することない香苗の態度が、お客さんにも言いたいことを言わせているんだろうな。 しばし香苗に注目していると、作次郎さんはいつの間にか、元俺たちがいた席に座っている、『タンシチューの女性』の前に椅子ごと移動していた。 「椎名さん。彼女にタンシチューを出してあげて下さい。」 「はい。」 この店は、洋食にも日本風の焼物の器を使っている。白い器にタンシチューをよそう。 持っていくと、作次郎さんが受け取り、彼女の前に静かに置いた。 俺はすぐに2人の傍から離れた。作次郎さんの邪魔をしちゃいけないからな。 彼女は今夜、好物のタンシチューを食べ、作次郎さんと話をしにきたのだから。 作次郎さんもそのつもりだったはずだ。 香苗も、2人のことをそっとしておいている。 俺も香苗も作次郎さんが何を大切にしているのか理解しているつもりだ。 俺たちは『作次郎の家』の雰囲気を崩さず、補助にのみ徹すればいい…。 もちろん、営業のため…作次郎さんに気に入られたいって打算的な気持ちもあるけど、それ以上にこの雰囲気を壊しちゃいけないと思っていた。 こうして、夜は更けていき…無事閉店時間を迎えた。 |
2003.4.10 ⇒