香苗はその場で作戦を練り始めた。 「まずは敵を知らなきゃね。」 さっそく『作次郎の家』に客として行くと言い出した。 市田社長がわざわざ勝負の『鍵』として出してきた人物だ。警戒しているのだろう。 「ちゃんと真っ向から営業マンとして行った方が良くないか?紹介してもらってるわけだし。」 「何言ってるの!客にしか見せない一面が重要なポイントになるかもしれないじゃないの!!敵はあの市田社長が出してきた人物なのよ!!売り込むにしたって相手のことを良く知らなきゃね!慎重に攻めてくわよ!」 …確かに香苗の言うとおりだ。 「幸い店の場所はここから近いし、私の今日のランチはここに決定!夜は…洋介、あんたが行ってみて!」 香苗は張り切って俺に指示し、「こうしちゃいられないわ!」と言って小走りに駆け出して休憩室から出て行った。 残された俺と夏目は顔を見合わせ苦笑いする。 「…宮内先輩張り切ってるね。」 「ああ。」 心なしか漲るパワーの出し方が市田社長とダブって見える。 「ねえ、この薔薇の花束、どうするの?」 夏目は俺が椅子にうっちゃっといた花束を抱え、苦笑いする。 市田社長からの贈り物。 「……なるべく人の目につかない場所にでも飾るよ。」 花に罪はないからな…。捨てることはしたくない。 「あ、じゃあ私が資料室にでも飾っておいて上げるよ。あそこはあまり人が行かないからね。」 「ありがとう。恩にきるよ。あ〜あ。しっかし、大変なことになっちゃったな。」 これからしばらくは噂で騒がれちゃうだろうし、勝負の賞品になっちまったし。 ため息をついていると、夏目がクスクス笑う。 「でも椎名君、何となく嬉しそうだよ。」 「そんなことないよ。」 と、言ったものの…少しだけ当ってるかな。香苗と一緒に勝負に参加できるんだ。 負けた時のことを考えると悠長にはしてられないけれど……ワクワクした気持ちが湧いてきてしまう。 俺って相当図太い神経してんだな。 何とかなるさと思っているし、実際大丈夫だと確信している! 香苗は勝つ!あいつには勝利の女神がついてる。いや、あいつ自身が勝利の女神そのものだからな。 それに…なんて言ったって『俺がついてる!』…って心の中でもいいから一度言ってみたかったんだ…。 そんなことを考えていると、いきなり視界に夏目の顔が入る。 驚いている俺の顔を見つめ、柔らかく微笑む。 「私、諦められそう。」 「え?」 夏目はニコッと笑った後、小さなため息をつき、俯く。 「椎名君と宮内先輩のやり取り見てて、とてもじゃないけど私に入り込む余地なんかないって思い知ったわ。」 夏目……あの恥ずかしいやり取りに仲間入りしたいと思う奴はいないと思うが…。 「私は椎名君と宮内先輩はお似合いだと思う。上手くいくと思うよ。…椎名君ファンな私としては残念だけどね。」 「喧嘩腰で言い合いしていただけだと思うけど…。」 「でも、私には羨ましいくらい2人っきりの世界にいたよ。何ていうか、同じ空気を纏ってた。だから私…椎名君のこときっぱり諦める。これからは応援するよ。困った時は何でも言ってね!」 ここで始業ベルが鳴った。 「あ!戻らないと。」 「あ、ああ。」 俺たちはエレベーターホールに向う。 エレベーターの到着を待っている時、夏目がポツリと呟いた。 「宮内先輩が言ってた『同じ生き方』、きっと椎名君は見つけられると思う。」 何?!! 「何でそう思うんだ??夏目には香苗が言ってることわかるのか?」 俺は縋るように聞く。 「それは私にもわからないよ。けど、さっきも言ったでしょ。椎名君と宮内先輩は同じ空気を纏ってるって。」 のんびりした声で答え、軽やかに笑う。 …何の根拠もないけれど、夏目に太鼓判を押されると少しだけ自信が湧いてくるから不思議だ。 「…夏目。」 「ん?」 「ありがとう。」 「ううん。頑張ってね。」 夏目って本当に良い奴だ…。しみじみと思ったりする。感謝の気持ちが湧いてくる。 営業部のフロアに行くと、予想通り市田社長のことで色々と突っ込まれたが、俺の懸命な説明と香苗が弁護してくれたお陰で騒ぎも少しはマシになった。 「そうだよな。椎名にそんな甲斐性あるわけないと思ったよ。」と、笑い飛ばしてくれる先輩もいて…ちょっと複雑な心境になるコメントだったが、少し気が楽になった。 ま、人の噂も75日と言うし…こっちの問題は少しずつ名誉挽回していこう。
昼休みも終わりに近付き、俺はコーヒーを飲みながら書類に目を通していた。 すると、『作次郎の店』に敵情視察を兼ねて昼飯を食べに行っていた香苗が、しきりに首を傾げて帰ってきた。 「どうも納得いかないわ。」 ぶつぶつと小声で独り言を呟き、席に座る。 香苗の席は俺の席の真ん前だ。香苗の動きを目で追い、席に落ち着いたところで訊いてみた。 「…作次郎さんはそんなに手強そうなのか?」 香苗は身を乗り出して俺の問いに答える。 「何だか変なのよ。」 やけに深刻な顔で俺を見る。 何なんだ?俺は思わず身構えたが、その後続いた香苗の言葉は意外なものだった。 「とっても話し易い人なのよ。」 「え?」 「作次郎さん。気さくで感じのいい人だったわ。」 …それは確かに変だ。 あの市田社長が押してきた人物だぞ?俺たちは作次郎の人物像をかなりの偏屈者だと思っていたけど…。 香苗が言うには、作次郎の店は彼一人で切り盛りしている小さな店で、昼食メニューは日替わり定食二種類のみ。 味は中の上くらい。値段から見ればかなりお得感が得られる。 そして、夜はなんと!メニューがない!それ以上のことは『興味があるなら、夜に来てみてください。』と笑顔であしらわれ、追及できなかったそうだ。 「とにかく…夜、もう一度洋介と一緒に行くわ。こうなったら徹底的に偵察しなくっちゃ。」 「わかった。」 この日は定時で退社し、さっそく『作次郎の家』へと向う。 到着したのはまだ6時前だった。 会社からタクシーで10分程度の場所にあり、入り口には店名の書かれた暖簾がかかっている。 薄汚れててくたびれた暖簾だな。 雑居ビルの間に挟まれた木造の家。2階建てで、一階部分を店として使っているようだ。 あまり綺麗とは言えない、古びた佇まい。 「…若い奴や女性には受けなさそうな定食屋だな。」 でも、会社帰り、ちょっと一杯飲んで行きたいなって時に、フラっと立ち寄りたくなる店ではあるな。 「それが意外と女性にも人気あり!…なのよ。お昼にはOLも来てたし。席が少ないから入れなかった人は残念がってたわ。」 と、言いながら香苗は立て付けの悪い引き戸を開けた。 香苗に続いて俺も店内に入る。 うわ〜。狭い…ってのが俺の第一印象。 L字型のカウンター席のみで、全部で10席だけしかない。 客は…まだ時間が早い所為か5人だけ。席を空けて座ってるとこ見ると個別のお客様だな。 店の主、作次郎さんは、板前の白い衣を着てカウンター内で手際よく料理をしている。 手は休めずに、真正面に座っているOL風のお客さんと熱心に会話していた。 俺たちに気がつき、すぐに「いらっしゃい。」と明るい声をかけ迎え入れてくれた。 体格は小柄で、柔らかな物腰。年は60代後半ってトコだろう。声音とほのぼのとした笑顔から感じ取れるのは、陽気さと優しさ。 一目見ただけで、香苗の言う通り気さくな人柄って印象を持つ。 「おや?お客さんは、確か今日のお昼にも来てましたね?」 香苗の顔を見て、作次郎さんの笑顔が更にパワーが増す。 「はい。覚えててくれたんですね。」 「そりゃ〜、お嬢さんみたいな美人なら、一目見たら忘れられないですよ。えっと、彼は会社の同僚?それとも…。」 「会社の後輩です。」 香苗、間髪いれずに答える。 …『それとも彼氏?』って言おうとしたであろう作次郎さんの発言を、最後まで言わせるものかって感じで阻止したな…。そこまで元気一杯に答えられると、少し寂しさを感じたりして。 「後輩です。」 俺、軽く頭を下げる。 「お二人様ですね?」 「あ、はい。」 作次郎さんはカウンターごしから一番奥の席に座っていた男性に声を掛ける。 「悪い!中村さん。一つずれてくれると助かるんですけど。」 「ああ。いいですよ。」 気軽に言う作次郎さんに、中村さんも快く応じてくれる。 中村さんって男性は自分の晩酌セット…『焼酎お湯割り梅干入り』のコップと冷奴の皿を持って移動してくれた。 そのお陰で2つ並んで席が空いた。 「すみません。」 俺と香苗は頭を軽く下げ、ありがたく席に着かせて貰った。 「気にしないで下さいね。」 中村さんは微笑みを浮かべ、チョビチョビと晩酌を再会した。 年は作次郎さんより若そうだ。品のあるスーツ姿で、どこかの会社の重役って雰囲気がある。 こんな風に言っては作次郎さんには失礼だが、高級クラブか、昨晩行ったような料亭の方が、この店よりもこの人にはずっと似合っているような気がする…。 「飲み物は何にしますか?」 作次郎さんは注文を取りながら、俺たちの前におしぼりとお通し、割り箸を置く。 とりあえず俺はビールを香苗は梅サワーを頼んだが、その後作次郎さんが俺たちに質問してくる。 「何か食べ物に好き嫌いはありますか?」 「私は嫌いなものは特にはありません。好きなのは海のものです。」 「俺も嫌いなものはありません。肉料理が好きです。」 作次郎さんは俺たちの返答を聞くと軽く笑顔を見せ、料理をしだす。 この店にはメニューがないわけだし、どんなものが出てくるのか非情に気になる。 作次郎さんを見つめる俺たちの顔は知らず知らずのうちに真剣なものになっていた。 隣にいた中村さんがこの店の料理について教えてくれた。 「献立は客にはわからないんです。作次郎さんが客に食べさせたいって思うその日の食材が料理されて出てくるんです。毎回が楽しみですよ。」 へえ。確かにそれは楽しみだ。 飲み物が出され、香苗と軽くお疲れ様の乾杯をする。 作次郎さんの様子を目で追いながら、小鉢に入ったお通しを食べてみる。 「なかなか美味しいでしょ?」 「うん。」 里芋とイカの煮物。美味しくて、とても空腹だったのを思い出す。 あっという間に食べてしまった。 次に出てくる料理が待ち遠しいな。 作次郎さんは周りに気を配り、立ち回っている。 よくよく観察して見ると…。 それぞれの客に話しかけ、呼びかけられたら受け答えし、その話の内容も少しずつ進んでいるようだ。 中でも、店に来た時話し込んでいたOL風の女性とのやり取りが、やけに白熱しているように見える。 「しばらくは作次郎さん、彼女専用だな。」 中村さんが羨ましげに言うが、表情からはさほど悔しそうには感じられない。 「それ、どういう意味ですか?」 中村さんの隣に座っていた香苗がすかさず訊く。 「みんな作次郎さんと話したいんですよ。」 「え?」 「私も彼と話したくて寄らして貰ったんですが、どうやら彼女の方が深刻そうだから、大人しく話し終わるのを待つことにします。」 中村さんは焼酎を一口飲んで、のんびりと構えている。 香苗が言葉を選びながら再び中村さん訊ねた。 「あの…中村さんはこの店には何度も来ているのですか?」 「ええ。そうですよ。」 「ここは常連さんが多いんですか?」 「この店のファンは多いですよ。お互い名前はわからなくても見知った顔と出会うことは日常茶飯事。足しげく通ってくる常連さんはみんな作次郎さんに会いたいから来るんです。」 「料理が美味しいとかではなく?」 「料理も含めて作次郎さんのファンなんです。」 俺と香苗は、中村さんの言葉を聞きながら改めて店内を見渡してみる。 俯き加減で、暗い顔して食事をするサラリーマン風の中年男性が目に留まる。 作次郎さんはあまりその男性には声をかけない。ただ、料理を出す時に、男性を気遣うような優しい動作をする。 眼差しも優しげだ。 男性もその時だけ顔を上げ、何となく安心したような、けれど力ない微笑みを浮かべ、再び食事を続けている。 不意に背後の戸が開く音がしたので振り返ると、大きな鞄を持ったセールスマン風の男性が入ってきた。 40歳くらいかな。太り気味な体で、大汗をかきハンカチで額を拭きながら作次郎さんに挨拶する。 「こんばんは〜。」 一仕事終えたっていう爽やかな笑顔を見せているが、足取り重い。 表情からは嬉しさを、体からは疲労を表現している。 席にどっかりと座り、重量感のある鞄を足許へ置いた。 作次郎さんはおしぼりとお通し、それと注文を取らないまま、上手い具合に泡だったビールの中ジョッキを男性の前に置く。 男性は軽く片手を上げ、拝むような仕草をしてからビールを一気に半分くらいまで飲み干し、大きく息を吐いた。 その表情がとんでもなく美味しいって顔で『俺はこの一杯のために頑張って働いたんだぜ!』って言っているように見えて、俺は思わず笑いそうになってしまった。 「小野田さん、何だかえらく嬉しそうですね。」 作次郎さんが声をかけると男性は満面の笑みを浮かべる。 「今日、契約が2件も取れたんだ。何とかノルマも達成できたよ。」 嬉しさで弾む声。 この『小野田さん』とやらにとって、今日はとてもいい日だったらしいな。 「よかったじゃないですか。」 「作次郎さんが説教してくれたからだよ。お陰で今日はリラックスできた。」 「小野田さんは自分の出来ないことばかりに目を向けて、自分の長所をちっとも見ようとしないから、つい口を出しちゃっただけですよ。まあ、良かったですね。初めてのノルマ達成。」 「ありがとう〜。」 小野田さんはワザと泣きまねをして感謝の意を表している。 「いやいや。お礼よりも、小野田さんの給料が上がった分だけ私の店で食べてくれた方が嬉しいですよ。」 作次郎さんは憎まれ口を叩いているが、声音は一緒に喜んでいるって感じだ。 「おまたせしました。」 作次郎さんは俺と香苗の前に一皿ずつ料理を置く。 今度は海鮮サラダ。これも美味しい。 熱心に話をしていた女性が静かに立ち上がる。 作次郎さんは何気ない動作で女性の傍に移動する。 「…私、決心しました。」 「大丈夫?」 「はい。辛いけど、このままずるずると付き合い続けているより、新しい恋見つけます。」 ぎこちなく笑う女性。どこか苦しそうで緊張気味だな…。 そんな彼女を見る作次郎さんは優しげだ。 「これから会いに行くのかな?」 「はい。早い方がいいから。私って優柔不断だから決心鈍りそうだしね。」 女性は肩を竦める。精算を済ませ、女性がドアの方へと歩き出した時、作次郎さんが声をかける。 「今度来る時、電話してくれたら好物のタンシチュー用意しておきますよ。」 女性は振り返り、小さく頷いた。 「ありがとうございます。そんなこと言われたら明日にでも来ちゃいそう。」 「いつでもいらっしゃい。待ってますよ。」 女性はペコッと頭を下げ、店を去って行った。 とても短いやり取りだったけれど…。あの女性、きっと作次郎さんのことをとても信頼しているんだなって思った。 「彼女、作次郎さんに恋の悩みでも相談してたのかしらね。」 香苗は俺にしか聞こえないくらいの小声で言う。
俺もそう思った。
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