混戦状態@
玄関ホールでのことは、わずか十数分の間に香苗の耳に入ってしまった。 僅かな時間で本社中に知れ渡ったらしい…。じきに全社中になるだろう。 当然、ところどころに尾ひれがついたり、歪んだ形で伝わったりしてるだろう。 香苗が聞いたのは、噂の中でも最悪の、『椎名は営業成績を上げたいがために市田社長の夜のお相手をした。』ってやつだ。 幸いなことに、昨日のうちに坂田部長は俺が市田社長の担当をせざるをえなくなった経緯を、営業部の連中には大まかに説明していた。 俺は、香苗と夏目に昨晩の市田社長と接待の出来事を説明した。 そりゃもう必死だったよ。 言い難かったがキスされたって話もしたよ。ただ…夏目もいることだし、園田課長の思惑は伏せたままにした。 最初は怖い顔して腕を組んで聞いていた香苗も、聞き終わって少し顔つきが穏やかになっていた。 「…て言うわけなんだけど、信じてくれるか?」 恐る恐る香苗に聞いてみる。 すると香苗は訝しげな顔をして疑問を投げかける。 「ねえ。じゃあ何で市田社長はクレームを言ってこないわけ?あの性格なら、洋介のことをクビにしろってくらいのこと言ってきそうなもんだけど…。それを、まあ、表現方法は激しく個性的だけど褒めていたんでしょ?」 「それは俺も不思議に思う。」 正直、クビも覚悟してたもんな。 香苗は目を細め、胡散臭そうな目つきで俺を見る。 「洋介。やっぱり市田社長とやっちゃったんじゃないの?キスが上手くてクラッときちゃって、ついつい手が出ちゃったとか。怒らないから前面自供しなさいよ。」 な、何てことを言うんだ! 俺は、聞くに堪えない暴言に、思わず立ち上がる。 その拍子に椅子が倒れてしまうが構ってなどいられない! 「何馬鹿なこと言ってんだ!俺が信用できないって言うのか?」 「洋介が信用できないって言うより、男の下半身が信用できないのよね。」 か、下半身って…。 香苗…もうちょっと言葉を選べないか? 唖然としていた俺のことなんか気にせずに、香苗は構わず話を続ける。 「市田社長、前に見たことあるわ。美人って感じじゃないけど結構なもち肌で、抱き心地良さそうだし…だいたいあの人経験豊富だろうしね。巧みな技で洋介なんかコロッと堕とされちゃいそう。」 「ふざけんな!!」 俺はテーブルをバンッと叩く。 テーブルが揺れ、まだ開けていなかった缶コーヒーが倒れて床に転がる。 「俺はお前のことが好きだって言っただろ!!それを信用しないのか?」 「信用はしてるわ。でも、男は恋愛感情がなくても欲望の赴くままにHできるでしょ?」 「できねーよ!!」 俺は大声で叫んでた。 「他の奴はどうか知らないが、俺は好きな奴としかしない!!」 「本当にそうかしら?」 まだ疑いの目を向ける香苗。完全に頭に血が上っていた俺は、思い切り宣言する。 「俺はお前以外の女じゃ勃たねーんだよ!!」 思わず叫んだこの言葉。 自分で放った言葉を自分の耳で聞き取り、すぐに我に返った。 俺…今、とんでもないこと言ったよな? 香苗は目をまんまるくして俺を見上げ、呆れたって顔をする。 「真っ昼間から女性の前で言う台詞?最悪…。」 うああ!恥ずかしい!! 顔が一気に熱くなる!今俺の顔はゆでダコのように真っ赤だろう。 確かに最悪だぁ!で、でも、俺だけが悪いのか??煽ったのは香苗だろう! 「お前だって人のこと言えないだろ!!さっきから露骨なことばっか言ってただろーが!!」 「何言ってんのよ!私は…。」 反論しかかった香苗の視線が俺から外れ、途中で言葉を飲み込む。 俺は香苗の視線を辿る。 …何故香苗が言い合いを止めたのか、すぐにわかった。 香苗の隣に座っていた夏目が、頬を真っ赤にして、切なそうに涙ぐんで俯いていた。 真っ赤なのは俺が言った恥ずかしい言葉の所為なのだろうケド……。 今にも泣きそうな瞳と、切ない表情の原因は…。 「…ごめん。悪ノリし過ぎたわ。」 バツが悪そうに詫びる香苗。どうやら夏目の気持ちを察したらしい…。 夏目は俺のことを想ってくれている…。それに、俺が香苗を好きだと言うことも知っているわけで…。 それを思うと、さっきの俺の言葉は色んな意味で最悪だ…。考えるのが恐ろしい。 加えて…さっきまでの俺と香苗の言い合いは夏目の目にはどう映っていたのか。 俺は倒れた椅子を元に戻し、力なく座る。 「…俺は…気持ちと体は一緒じゃなきゃダメだってことを言いたかったんだ…。」 「わかってる…。信じるから。疑ってなんかいないから。本当にごめん、洋介。それと…夏目さん。ごめんね。」 香苗はもう一度謝ってくれた。 夏目が俺たちの反省ポーズに気がついて、笑顔で取りなそうとする。 「ごめんなさい!!宮内先輩。椎名君。Hな話、結構大丈夫なんですけど、さすがに照れちゃいました。」 おどけたように笑う。 それから、柔らかな微笑みを浮かべる。 「宮内先輩と椎名君…とっても仲が好いですね。羨ましいです。何だか微笑ましかったですよ。」 あのとんでもないやり取りが微笑ましく見えるのか?!! それほど俺たちの息が合ってたんだろうけど…。 俺は夏目が言った台詞の『仲が好い』って部分を、香苗は即座に否定すると思ってた。 けれど、香苗は否定はせずに夏目を優しさに満ちた眼差しで見つめ、その後俺に視線を移す。 「…洋介。あんたってホントにバカね…。」 香苗の言葉。夏目は真意がわからずキョトンとしてたけど、俺にはわかる。 『こんな良いコがあんたに好意を持ってくれてんのに、それをみすみす逃すなんてバカじゃないの?』って香苗の声が聞こえてきそうだ。 俺はちょっとだけ恨みがましく香苗を睨む。 お前の言うとおり俺はバカだよ。 口が悪くて、性格キツクて、ちっとも優しくない香苗が好きで好きでたまらないんだからな。 物好きの極致だよ。 俺の無言の訴えを香苗は感じとったようで、苦笑いして肩を竦める。 …香苗が俺のことをどう思ってくれているのかは掴めないけれど、夏目が言った言葉が否定されずに済んだことが嬉しかった…。 三者三様それぞれに思うところがあって一瞬の静寂が流れ、少し気まずい雰囲気に包まれた時、その空気がぶち破られる。 「椎名君の想い人が誰だかわかっちゃった。」 ドキンと心臓が飛び跳ねた。 休憩室の入り口で市田社長が悪戯っぽい笑みを浮かべこちらを伺っていた。 「い、市田社長。」 俺と夏目が声を揃え招かざる客の名を呼び、同時に席を立つ。 夏目は昨日怒鳴り込まれたこともあり、強張った顔をしている。 「ラッキーだったわ。時間つぶしに休憩室に寄ってみてよかった。」 市田社長は軽い足取りで俺たちの許へとやってきて、まずは夏目にニコッと笑いかける。 「そんなに怯えないで。昨日は感情的になっちゃって私も悪いと思ってるのよ。本気であなたを追い詰める気はなかったわ。でも、これで次回からは相手をもてなすってことに慎重になるでしょう?」 「え?」 「私より我侭な客は何処にでもいるわよ。人をもてなすってことは、それだけ難しいことなの。勉強になったでしょう?」 「じゃあ…それを私に教えるためにワザと怒ったんですか…?」 夏目は目から鱗が落ちたって感じで尋ねる。 「ま、そういうことにしといてよ。」 市田社長はコロコロと調子よく笑う。 …この人は何処までが冗談で、何処までが本気なんだか判断に苦しむ。 「椎名君。」 市田社長の意識が俺に移る。 名を呼ばれて、思わず『いつでも逃げ出す準備OK』な心積もりをしちまう自分が情けない。 「社長にあなたのこと売り込んどいたわよ♪優秀な営業マンだって。」 「え?」 何でだ?昨夜、俺はこの人のことをほったらかして帰ってきたのに…。 「何でですか?怒ってないんですか?」 「何故私が怒らなきゃいけないの?それどころか、あなたの言葉に一喜一憂よ。」 「はい?」 「昨晩あなたに言われたこと、身に染みたわ。今まであんな風に私のこと叱ってくれる人なんていなかったから。」 市田社長は胸に手を当て…まるで恋をした少女のように頬を薔薇色に染める。…出来ればこの表現は使いたくなかった…涙。 で、チロッと俺を見る。 「どう?自分の言葉で深く反省するいたいけな熟女ってのにそそられない??」 「そそられません!!」 「そう?残念だわ〜。」 市田社長は本当に残念そうに肩を落とす。 この人のペースに嵌っちゃいけない! 「さっき玄関ホールで言ったことといい、どういうつもりなんですか?」 「あら?本当のことしか言ってないけど?」 「どこが本当のことなんですか!!」 あの台詞で周りのみんなは良からぬ想像をしたんだ! 「だって、昨日のあなたとの食事はとても楽しかったし最高の夜だったわ。それに、あなたの仕草や言動に心を動かされたのも事実だし、最後にズバッと私に言いたいこと言ったあなたに感動して虜になっちゃったのも本当のことだわ。」 しれっと言い放ち、俺の顔を覗きこみ、「ね。嘘は言ってないわよ。」とウインク。 「そ、そうやって人の気持ち弄んでると…。」 「弄ぶ気なんかないわよ。いつだって本気よ。」 市田社長。きっぱりと言い切る。 「確かに恋の駆け引きを楽しむけれど、相手への気持ちはいつも本気よ。」 「じゃあ……。」 「昨日のキスだって本気。」 何だって? 「私はあなたのことが好きなのよ。」 …嘘だろ? 「今日はそのことを伝えに来たのだけれど、あなたの想い人もわかったし、大収穫だわ。」 「え?」 「さっきのあなたの宣言、さすがの私も驚いたわ。」 うわああん…涙。 俺たちの会話聞いてたんだ〜。 俺は頭を抱えて、夏目はひたすらオロオロと困惑している中、香苗だけは妙に落ち着き払って座っていた。 |
2003.2.18 ⇒