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らすとばとるD

「み、宮内…君?」
 企画部長が口をぱくぱくさせながらようやく発した一言。
 香苗の豹変振りに余程ショックを受けたらしい。
 いつもの、キャピキャピした可愛らしさの欠片もない、勇ましい香苗。
 企画部長は、かなり辛辣なことを言われたのに、驚きで怒りすら湧いてこないようだ。

「宮内先輩…?」
 香苗の傍にいた俺、『猫かぶり止めちゃっていいのか?』って気持ちを込めて香苗を呼んだ。
 香苗は一瞬だけ俺の方を向き、微かに微笑んだ。
 その後、再び企画部長へ目を向け歩き出す。

 香苗は周りの様子など眼中にないようで、みんなと同様に驚きを隠せずにいる楠木先輩の横をすり抜け、立ち尽くす企画部長の前で立ち止まる。

「部長。もう一度答えて下さい。楠木先輩の仕事は本当に評価に値しないものですか?」
 凛とした声。
 呆然としていた企画部長もやっと我に返ったようで、じわじわと怒りのモードに入ってくる。
「宮内君。まさか君までこんな馬鹿なこと言い出すとはね…。」
「私の質問に答えて下さい。」
「…今まで女子社員には何度も裏切られてきたんだ。」
 企画部長は忌々しげに、今まで部下にしてきた女子社員の話をする。
「随分と女の部下を持ってきた。その結果、俺は仕事で女は信用できないと判断した。怒れば泣く、私情を仕事に挟む、集団になって攻撃する。権利ばかり主張し、義務を果たせと言うと途端に女って隠れ蓑を利用する。まあ、最近は不況で君たちもそんなことは言ってられなくなってきてるんだろうがな。それに、君だって結婚し寿退社するんだろう?」
 企画部長も、香苗と園田課長との噂を聞いているらしいな。ここぞとばかりに突いてくる。
「結婚して退職してしまうことの多い女に、仕事面で期待することなんて出来ない。これ以上は時間の無駄だ。そろそろ始業時間だろ。この件はお開きだ!!」
 企画部長が有無を言わさず話を終わらせようとしていた時、フロア内に現れた女性が一人…。

「朝から大騒ぎですねぇ。」

 この、どんな時でも落ち着き払ってる声は…と思い、入り口の方を見てみると…。
 やっぱり!声の主は経理部の田鍋さんだった。
 いつからこのフロアにいたのかな…。事情は把握しているみたいだった。

 香苗が猫かぶりを取った時同様に、みな田鍋さんに注目する。
「部長。」
 田鍋さんはフロア中の視線を引き連れて、企画部長の許へと軽やかに歩いて行く。
「な、なんだね?」
 香苗の時とは違った感じで、企画部長は動揺している…。
 香苗の時は驚いている様子だったが、今度はビビってるように見える。
「部長。今朝、うちの佐々木さんにタバコを買ってくるように頼んだそうですね。私用で社員を使うのは止めて下さい。ご自分で買いに行って下さいね。」
 無表情のまま企画部長に抗議し、部長が佐々木さんに預けたと思われるタバコ代の小銭を差し出した。
 どうやら使いを頼むところを田鍋さんに目撃されちゃったらしいな。
 企画部長は、何かに操られているように右手を差し出し、小銭を受け取っている…。
 田鍋さん、今度は香苗と楠木先輩へと目を向ける。
「あなた達、もし話が長引くようなら会議室をお使いなさい。社外のお客様もいついらっしゃるかわからない状態なんですから。業務にも支障が出るでしょう?それくらい気を使いなさい。」
「あ、はい。」
「申し訳ありません。」
 香苗も楠木先輩もキョトンとしていて、言われたことを理解するより早く詫びの言葉を口にしてるって感じの顔だ。
 今までおろおろとことの成り行きを見ていた企画課長が、ハッとしたように口を開く。
「部長、それから楠木君。この話は第一会議室でしましょう。」
 企画課長が促すと、楠木先輩だけでなく、意外なことに企画部長も素直に従い会議室へと向う。
「みんなは通常業務に戻るように!!」
 企画課長はそう言い残し、自らも会議室へと入って行った。
 それを見届けた田鍋さんが、香苗を呼ぶ。
「宮内さん。」
「はい。…何ですか?」
 田鍋さんは何やら香苗に話しているが、小さな声なので2人以外に話の内容は聞き取れない…。

「じゃあ、私は戻りますね。」
 話が終わったのか、田鍋さんはスッと香苗から離れる。
「はい。申し訳ありませんでした。…ありがとうございます。」
 香苗が田鍋さんに深々と頭を下げる。
 顔を上げた時の香苗の顔はやけに晴れやかで、対する田鍋さんも…わぁ〜!珍しく微笑んでいる。

 田鍋さんがフロアから出て行くと、今まで立ち尽くしていた企画部と営業部の面々もようやく我に返る。
 仕事を始めるために、着替えに行く者、席に着く者と、動きが慌しくなる。
 そんな中、みんなの戸惑いの視線が香苗に注がれる。
 猫かぶりを止めた香苗に驚愕しているようだ…。
 でも、香苗は一向に気にする気配もなく、俺の許へとやって来る。
 今までは二人きりの時以外使わなかった昔のままの気軽な言葉で俺に話しかけてきた。
「田鍋さん、さすがよね。」
「え?」
「田鍋さんが現れた瞬間、何で部長が大人しくなっちゃったのかわかった気がするわ。」
「さっき田鍋さんと何話していたんだ?」
「叱られちゃったの。」
 香苗、ぺロっと舌を出し、笑う。
「女には女のプライドがあるけど、男には男のプライドがあるってね。たまに本音の言い合いも必要だけれど、時と場所を考えろって言われた。」
 …確かにそうかも。今回の場合は仕方のない成り行きだったのかもしれないけれど…公衆の面前で言い合いになったら企画部長だってたまらないだろう。
 冷静に話し合いなどできないだろうな…。

「部長ね…。随分昔、部下だった女性のやる気を買って重要な仕事を任せたことがあるらしいの。でもね、その女性、ちょっとしたミスから得意先を怒らせちゃって、途中でその仕事放り投げちゃったんですって。で、その得意先に土下座して詫びを入れたのが当時係長だった部長ってわけ。」
 へええ!意外な話だな〜。あの企画部長がねぇ。
「で、その女性ってのはその後どうしたんだ?」
「退職したって。結婚も決まってたらしくてね。」
 香苗、肩を竦めて苦笑いする。
 なるほどね…。企画部長の考え方はこういうトコから誕生したんだろうな…。
「田鍋さんは企画部長が新入社員の時からこの会社にいたのよね。部長も、他の重役達も若い頃は田鍋さんに色々と助けてもらってるようだわ。だからみんな田鍋さんには頭が上がらないのよ。」
 クスクスと笑いながら…あ、笑うって言っても、バカにしたような笑いではなく、親しみを込めた笑い方で香苗は話してくれた。
「企画部長ね。昔、重要書類と廃棄書類とを間違えて捨ててしまったことがあるらしいの。で、その時同じ部署にいた田鍋さんと泣きながら書類を作り直したんですって。その他にも色々とあるらしいわよ。」
「そりゃ、田鍋さんに頭が上がらないはずだぁ…。」
「でしょ。」
 香苗、ひとしきり笑った後、フッと目を細め、会議室を見つめる。
「…楠木先輩…辞めて欲しくないな…。」
「そうだな。」
 何とか上手く話し合いがまとまればいいと思う。

 …それぞれに考え方や誇りってもんがあって、社歴が長ければ長いほど抱えている想いも重いんだろうな。
 男も女も、みんなが働きやすい会社ってのを作るなら、それぞれの意識から変えてかなきゃいけないのかもな。
 って、俺、ここではたと気が付く。
 香苗につられて俺も普通の話し方しちゃってた。
「おい、香苗。お前…いいのか?」
「え?あ、猫かぶりね。止めたわ。」
 実にあっさりと言う。
「止めたわって、そんなに簡単に止められるもんだったのか?」
「簡単なんかじゃないわよ。重大決意よ。でも、何だか気持ち良い。」
 香苗はあっけらかんと笑う。そして、自信に満ちた瞳が俺を捉える。
「やっぱ自分に嘘ついちゃダメよね。」
「香苗…。」
「ちょっと!さっきから名前で呼んでるけど、会社なんだから、宮内先輩って呼びなさいよね!!」
 ペンッと額を軽く叩かれる。
 香苗は爽やかな笑顔を俺に見せつけ、着替えるためにさっさと更衣室へと向う。
 颯爽と歩く香苗を、みんなはチロチロと見ている。
 香苗…どうしちゃったんだ?
 ふと、土曜の晩の香苗とのやり取りを思い出す。
『洋介はまるで過去から来た私よ…。』
『…ううん。違うわね。過去からじゃなくて…。…私が懸命に心から追い出して捨てたはずの…。』
 意味はわからんが、俺の存在が香苗の猫かぶりを剥がした原因なのかな…。
 だとしたら少し嬉しい…いや、かなり嬉しい。
 俺はへロっと笑い、席に行こうとした時に…見てしまった。
 フロアの入り口で立っている人物。

 園田課長だ…。

 毎度のことながら…いつからそこにいらっしゃったんですか?
 さっき田鍋さんが来た時にはいなかったけど…でも、ずっと廊下から聞いていたのかもしれない…。
 何故って、この人…俺を燃える様な目で睨んでます…。
 香苗と仲良く話しているのが気に食わなかったのか??
 ………ふんっ!
 俺は正々堂々あんたと闘ってやるぜ。なんたって香苗の公認なんだから、あんたを俺たちの勝負に巻き込んでやる。
 あんたから香苗を奪ってみせるからな!

 俺も負けじと園田課長を睨んで歩いていたら、床に置いてあった段ボール箱に足をつっかけてしまい見事にコケてしまった…。
 この数分後、、俺にとっても、多分、園田課長にとっても重大な変化があった。
 更衣室から出てきた香苗の左手の薬指から、光り輝くダイヤモンドの婚約指輪が消え去っていた。
 今朝、出社した時には、まだ婚約指輪がはめられていた。
 楠木先輩の件が沈静化に向ったと思ったら、ホッとする間もなく俺の気持ちを動揺させる出来事勃発だー。

2002.1.12