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らすとばとるC

 もんもんとした日曜を過ごし、どんよりと曇った心のまま月曜の朝を迎えた。
 暗い雲が空を覆い隠し、まるで俺の心を表しているようだ。

 この日、会社でちょっとした…いや、大騒動が勃発する。
 朝、出社してみると…もう既に『それ』は始っていた。

 フロアに足を踏み入れた瞬間、トゲのある鋭い声が耳に入る。
 企画部の楠木先輩の声だ…。
「もう決めたんです。」
「とにかく、落ち着いてくれよ、楠木君。会議室でゆっくり話そう、な。」
 楠木先輩と企画課長が言い合いをしていた。
 …言い合いって言うより、一方的に企画課長が押されているな…。
 企画課長の席の傍で、立ったまま向かい合っている2人。険しい顔つきの楠木先輩に対し、困惑しきった顔の企画課長。

「別に会議室じゃなくてもいいじゃないですか。話があるのならここで言って下さい。」
「いや…でも。」
「言えないんですか?じゃあもう話し合う必要などないですよね。それとも、私には辞める自由もないんですか?」
 辞める?辞めるって…。
 あ!!先週、2人の雰囲気がおかしかった時、企画課長が持っていた封筒って、きっと楠木先輩の辞表だったんだ。

「ちょっと待ってくれ。今君に辞められるのは困るんだ。忙しい時期だし、君ほどこの部署の仕事を熟知した女子社員はいないし…。」
「会社の都合で社員の人生振り回さないで下さい。」
 会話を聞いていると、段々言い合いの内容が見えてくる。

「…楠木先輩の気持ち、わかるわ。」
「え?」
 いつの間にか隣に香苗が立っていた。出勤したばかりなので、まだ私服だ。
「でも、課長は楠木先輩の気持ち、わかってくれてるのに…。」
 心配そうに成り行きを見ている。香苗だけじゃなく、このフロアにいる全員が固唾を飲んで見守っていた。
 香苗の言うとおり、企画課長は楠木先輩のことを守ろうとしてくれているんだ。
 けれど今の楠木先輩は、長い間に蓄積された憤りが、企画課長を通し、その先にいる企画部長や会社そのものに対して爆発しているんだと思う。

「何の騒ぎだ?」
 背後から、今一番聞きたくなかった人の声がする。
 ひえええ!企画部長登場!!
 この騒ぎの火に油が注がれた瞬間だった。
 どうやら、廊下まで言い合いの声が響いていたらしく、部長はすぐにことの次第を察して、あからさまに不快な顔をする。
 のっしのっしと重量感のある足取りで騒動の渦中に登場し、企画課長の前へ立つ。
「楠木君の辞表、君で止めていたのか?」
「…はい。」
「余計なことをするな。その辞表、すぐに受理するぞ。出したまえ。」
 企画部長はチラッと楠木先輩に視線を走らせ、呆れ顔で嫌味を言う。
「この忙しい時に辞表とはね。この前のあてつけか?でもな、生憎こちらとしては痛くも痒くもない。君の代わりなど誰でも出来るからな。自分がいなくなると仕事が滞るとでも思っていたのか?企画部を背負って立ってるとでも思ってたのか?馬鹿馬鹿しい。何だったら今日からでも会社にこなくていいぞ。」
 企画部長ってば、よくもまあそこまで陰険な言葉が出てきますね…。
 楠木先輩はカチンときたらしく、すぐに言い返す。
「そのようなことは一言も言っておりません。誰が欠けても回っていくように心がけ業務を遂行するのが本当の仕事だと思っていますから。そう…誰が欠けても、です。もちろん部長だって例外じゃないですよね。」
 これは、部長に対する嫌味…だな。
 楠木先輩はあまりの怒りに、逆に冷静になったようだ。
「私は正当に仕事の評価をしてくれる会社に移るため辞表を出したんです。もちろん、就業規則に則ってです。きちんと引継ぎもします。部長はいったい何を勘ぐっていらっしゃるんですか?」
「この…生意気な小娘が!!」
 企画部長の顔が真っ赤になる。うあ〜。めちゃくちゃ怒ってるぞ。
「目上の…上司に向って言う言葉か!!何様だと思っているんだ!!女のクセに!」

 …この、『女のクセに』って言葉がフロアに響き渡り、現在出勤してきている企画部と営業部の女子社員の顔つきが変わる。みんな不快感を感じたらしい。
 そりゃそうだ。男女差別もいいトコだろう。

 楠木先輩は怯まずに立ち向かう。
「一つの意見として間違ったことは言っていないと思っています。ご指摘くださるのなら『生意気』などという言葉で片付けず、きちんと説明してください。」
 挑むように部長を見つめる楠木先輩。
 企画部長は茹でダコ状態。頭から湯気が出てきそうだな。
「それが生意気だと言うんだ!!女など口ばかり達者で会社のお荷物に成り果てる!!」

 おいおい…。
 企画部長…完全に理性が吹っ飛んだらしい。

「男が汗水たらして働いているのに、女は仕事よりデートだの旅行だのを優先する。そんな輩に重要な仕事など任せられるか!」
 見事に癇癪を起こしていて、本音の部分ばかり曝け出しているな…。
 企画部長のキャリアウーマン嫌いは聞いてはいたけど、ここまで極端だとは思わなかった。
 よほど嫌な想い出でもあるのかな…。

「何よそれ。」
「男だって前の日飲み過ぎたとかで、客先直行とか言って寝坊を誤魔化してるじゃない!」
「それに比べて私たちはサボってなんかいないのに、プライベートに文句言われる筋合いないわよね!!」
「私たちだって気を使ってるわよ。いつも仕事をちゃんとした上で休んでるしねー。」
「やることやってからのことなんだから社員としての当然の権利よね!」
 女子社員たちが企画部長を非難し始める。
 企画部長の耳にも届いたらしく、女子社員たちを睨みつける。
 と、企画部長の怒りの声が飛ぶ前に若手の男性社員から意外な声がチラホラと聞こえ始める。

「でもさ、俺だって早く帰りたいことだってあるぜ?だけど山積みの仕事があるんだから帰れないよな。」
「俺だって去年、有給休暇、随分捨てたぜ?考えてみりゃ変だよな。うちって一般職と総合職分かれてないんだからどの部署だって社員はみんな平等のはずなのに。企画部や営業部って男女違いすぎるよな。」
「そうは言っても、俺たちはその分評価してもらえて昇進しやすいんだから、仕方ないだろう?」
「ちょっと待てよ。俺はもし一般職と総合職が分かれていたら迷わず一般職選ぶぜ。出世なんかしたかねーもん。生活できるだけの給料もらって趣味のサーフィンさえできりゃいいもんな。」
「…お前…そこまで言い切れるとある意味カッコイイな…。」
 …何だか段々おかしな雰囲気になってきた。

 みんな思い思いに好き勝手なことを言い始める。

「私は責任のある仕事をして昇進したいわよ。もっと女にもたくさんのチャンスを与えて欲しいわよね。」
 一人の女子社員が言ったことに対し、別の女子社員が反論する。
「ちょっと、余計なこと言うのやめてよ!全ての女が出世を望んでるとでも思ってんの?私は今のままで充分よ!遅くまで残業なんてしたくないし、責任の重い仕事なんてまっぴらごめんよ!」

 騒ぎがどんどん大きくなる。

 俺は騒ぎを少しでも治めようと声をかけてみる。
「あの〜。人それぞれ色んな考え方があるってことで、ここは一つ穏便に…。」
 言葉の途中で先輩たちに一斉に睨まれる。

「何もわかってない新入社員は黙ってろ!!!」

「…はい…。」
 声が何重にもダブってた…。
 すげー迫力…。
 あ、肝心のこの騒動の主役は…と言うと、未だに睨み合いが続いている。
 香苗もずっと企画部長に視線を注いだまま動かない。
 今までの、頑ななまでの楠木先輩のトゲのある声音が少し揺らぎ、柔らかく…と言うより、辞めることを決意し、最後だからこそ、願うように訴えるものになったのかな。
「部長…。私は企画部の仕事を疎かにしたことなんて一度もありません。自分なりに勉強もしてきました。それなりに成果も出してきたつもりです。私のしてきた仕事は評価するに値しませんか?」
「値しないね。」
 即答だった。
 さすがの楠木先輩も絶句する。

 その時、冷やかな声が響いた。

「あんたの目はふし穴なの?」

 …企画部長に向けられた鋭い言葉。

 さして大きな声でもなく普通の音量だったのに、騒がしかったフロア内に妙に響いた声…。

 多分、その声の持ち主が意外な人物だったから、みんなの耳に入ったんだと思う。
 フロア内が静まり返った中、たった一人の声が支配する。

「楠木先輩はそこいらの男に負けないくらいの仕事をしてきたじゃない。そのことを評価せず、会社に利益をもたらす優秀な人材をみすみす逃すなんて、人の上に立つ資格ないわね。」

 みな、その声の主に注目し、息を呑む。
 企画部長でさえ何も言えずに目をまあるくしている。
 みなの視線を気にする風でもなく、背筋を伸ばし、企画部長に刺すような視線を向けているのは、香苗だった。
 香苗が被っていた猫を思い切り引っ剥がした瞬間だった…。

2002.1.7 

お正月の暴飲暴食が胃腸にきている管理人です…。