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10万匹の猫

 今年の春、俺は社会人としての第一歩を踏出した。
 俺の名前は椎名洋介 現在22歳。
 カッコイイとか男前だとかはあまり言われたことないけど、「あんたの顔を見てると何だか和むのよね。」とはよく言われる。それって、どういう顔だよ。
 身長も身体つきも、平均よりやや小さめ。
 大学を卒業し、就職難の中、運がいいことに希望の会社に就職することが出来た。
 S食品っていう食品会社だ。
 入社後、約2ヶ月間の新人研修を終え、6月1日の今日、配属部署が決まる。
 朝、緊張と期待を膨らませ人事部長から辞令を受け取った。
 本社勤務。営業部だ。

 よーし!頑張るぞ!!
 俺は希望に燃えていた。
 ハッキリ言って、この朝、気分は最高で、やる気満々だった。
 研修課の課長に連れられて、本社ビル3階にある営業部のフロアに行くまでは、天気も好いし、空気まで輝いて見えたくらいだ。

「おはようございます。今日こちらに配属が決まった新人さんを連れてきましたよ。」
 人の良い定年間近の研修課の課長が、少々砕けた口調でフロアに入り、俺もそれに続いた。
 営業部の面々も、席を立ち、俺達の方へ一斉に顔を向ける。
 さあ、第一印象が肝心だぞ!!
 頑張れ、俺!
 そう思い、顔を上げ、フロアに一歩足を踏み入れた瞬間に、最初に目に入った女子社員を見て、体ごと凍りついた。
 相手の女性も、俺と目が合い、これでもかってくらいの驚きを見せた。
 そして同時に叫ぶ。

「宮内香苗ーーー!」
「椎名洋介ーーー!」

 お互いを指差し、お互いの名前を叫んだ。
 何で、こんな日にこんな所でよりにもよってこいつと再会しなきゃいけないんだ?
 俺は心の中で叫んでいた。

 宮内香苗 
 俺はこの十数年間、こいつを1日たりとも忘れたことがない。

 早苗は、かなり美人になっていた。いや、昔の彼女もとても綺麗な少女だった。
 でも、今、目の前にいる香苗は綺麗さに拍車がかかってる。
 色白の肌。大きな瞳に長いまつ毛。肩まであるサラサラな艶のある黒髪。
 俺と数センチくらいしか差がない身長。
 スラっとした体つきで、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる抜群なスタイル。
 この会社には、女子社員には制服がある。白いブラウスと桜色のベストとタイトスカート。
 清楚って感じの制服が、この上なく似合っていて、おまけに色っぽい。

 いや、そんなことはどうでもいいんだ!
 そんなことより…。
 彼女がここにいるってことは、同じ営業部だってことだよな?!
 同じ会社に香苗がいたってこと自体眩暈がしそうなほど不運だってのに、よりにもよって同じ部署?
 勘弁してくれー。

 俺も子供の頃の面影が色濃く出ている顔立ちなのだが、香苗もそうだった。
 だから一発でわかった。
 俺と香苗は小学校4年の時のクラスメートだ。
 俺達は『犬猿の仲』どころではない、最悪な仲だった。

 小学校の頃のことを少し紹介しよう。

「私に歯向かうなんて10万年早いわよ。」
 腕を組んで、仁王立ちする態度のでかい少女。
 勝ち誇った笑顔を湛えている。これが当時の香苗だ。

「ちくしょう!!明日こそ負けないからな!!」
 体中、土だらけ、傷だらけで尻餅をついている少年。
 口惜しさで半泣き状態の潤んだ瞳で、目の前の少女を睨む。
 これが当時の俺。

 俺が小学4年の春。クラスに転校生がやってきた。それが香苗だった。
 香苗は可愛くて明るくて積極的で、あっという間にクラスの中心的な存在となった。
 いつも香苗は攻めの体勢で、クラスメート達は引き寄せられるように彼女の周りに集まった。
 根っからの女王様気質の香苗。
 強引で、自分がリーダー的な位置にいないと気がすまない所があったが、面倒見はとても良いのでみんなに慕われた。
 …俺を除いては。
 俺はマイペースをこよなく愛しているので、香苗みたいに強引に人を巻き込むような人間が気に食わなかった。
 香苗も、自分の言うことをきかない俺が気に食わなかったらしい。
 自分に従わない唯一の存在、俺を屈服させるために、香苗は何かにつけて勝負を挑んできた。

「負けたら今日一日、私に従うのよ!」
 そんな香苗の挑発に、放っておけばいいものを、俺は「男が逃げるわけにはいかないぜ!!」と、受けて立っていた。
 勝敗を決めるために様々な勝負をしたが…いつも俺が徹底的に惨敗。
 当時、俺は背の高さの順で並んだ時、クラスの一番前に並ばされるくらいチビで、おまけに痩せていて(まあ、今も逞しいって言葉からは程遠い外見だけどな)、スポーツも勉強も、その他のこともさして秀でるものがなにもなかった。
 一方、香苗は女子の中でも1、2を争うほど背が高く、力もあった。おまけに頭も良く、TVゲームなども強かった。
 勝利の女神を従えているような奴だった。
 なので、どんなジャンルの勝負になっても俺が負けていた…。
 負けると、その日一日、俺は香苗を「女王様」と呼ばなきゃならず、どんな命令にも泣く泣く従った。
 うー!思い出しても腹が立つ!
 これが俺たちの当たり前の日常風景。
 勉強もスポーツも、果てはトランプ、じゃんけんまで、香苗は何だって勝負強かった。
 そんなわけで、俺が連敗記録を延々と更新していったんだ。
 要するに、俺は毎日香苗の従順な家来をしていたわけだ。
 で、俺たちの最後の勝負となったのは、取っ組み合いの喧嘩だった。
 結果は、いつものように俺の一方的な負け。

「ちくしょう!明日こそ負けねーからな!」
 俺は口惜しくて叫んだ。
 香苗は俺を見下し、ふんっと余裕の笑みを浮かべる。
「いいわよ!明日だって明後日だって、受けて立ってやるわよ。」
「絶対だな!約束だぞ!」

 2人の約束。
 でも、この約束は果たされなかった。
 次の日、香苗は何も言わずに転校していったからだ。
 4年生の冬の出来事だった。
 クラスのみんなにお別れを言うのが辛いからって、香苗は先生に頼み込み、何も言わないで去って行った。
 クラスメートはみんな香苗がいなくなり、寂しさで泣いていた。
 俺も泣いた。
 もちろん、寂しくてじゃない。
 怒りで泣いていたんだ。
<約束破って勝ち逃げかよあの野郎ーーーー!!>
 心の中でそう叫んでいた。
 この悔しさを忘れたことはない。
 だから大人になった彼女を見ても、すぐに香苗だとわかった。
 香苗も、俺を見てすぐに反応したってことは、俺はかなり印象に残ってるってことか。

「何であんたがこんなトコにいんのよ!」
 香苗が殺気のこもった目で俺を睨む。
 けっ!負けてたまるか!
「そりゃこっちの台詞だ!」
 俺も睨み返す。
 俺達の張り詰めた雰囲気に営業部の他、同じフロアにある企画部の面々まで驚いて総立ち状態になっていた。
 研修課の課長なんか、恐怖で震えていた。

 その、痛いほど注がれる視線に、最初に気が付いたのは香苗の方だった。
「…あ…。」

 香苗は目に見えて<ヤバイ>って顔をして、いきなり態度を豹変させた。

「きゃあ、椎名君ったらぁ!お久しぶりっ!」

 …へ?
 とーーーーっても甘ったれた、可愛らしい声音を披露し、キャピっと笑う香苗。
 俺は耳を疑った。

「…どうしたんだお前?」
 恐ろしくイメージに合わない仕草をする香苗を見て目をまるくした。

「どうしたのって…久しぶりに再開したんじゃない。会いたかったわ!椎名君。」
 俺に向ってそう言った後視線を移し、フロアのみんなに、にこやかに微笑む。

「彼と私、小学校時代のお友達なんです。懐かしくてつい大きな声を出しちゃって、ごめんなさい。」
 語尾にハートマークが付きそうな香苗の声。

 おいおい。マジ、どうしたんだ?こいつ。
 あの、小学生だってのに、ドスの利いた声を思うがままに使いこなしていたお前は何処へ行った?
 あまりな違いに呆気に取られてしまった。
 すると、香苗が2、3歩前に出て、俺の目の前に立った。

「改めてご挨拶するわね。私、入社3年目の宮内香苗です。営業部では先輩だから、わからないことは何でも聞いてね。」
 ニッコリと微笑む香苗。
 …多分、この笑顔を見た男性諸君は8割の確立で彼女に惚れるだろう。
 それくらい艶やかな笑顔だった。
 でも俺は背筋が寒くなる。
 悪魔にでも魅入られた気分だ。
 目の前にいる、この女は誰だ?
 こんなの香苗じゃねぇ。

「よろしくね。」

 可愛らしく、ちょっと小首を傾げながら右手を俺に差し出した。
 俺は操られるように香苗と握手をしたが、ふいに彼女が体を近づけ、耳元で囁いた。

「余計なことしゃべったら殺すわよ。」
 俺にしか聞き取れない、小さな小さな声だった。
 でも、香苗の本気は嫌って程伝わった。
 こ、恐ぇぇ…。
 それなのに、ちょっとホッとした。
 だって、これが俺の知っている香苗だ。

「あのぅ…。そろそろ私に彼を紹介させてもらえますか?」
 おずおずと俺と香苗に声をかけてきた人物。
 あ、研修課の課長だ。
 俺を営業部の面子に紹介して引渡し、そこでやっと課長の仕事は終了するのだ。

「きゃっ!ごめんなさい!私ったら自分の自己紹介を最初にしちゃった。」
 香苗は頬を赤く染め、ペコリと頭を下げて自分の席へと戻っていった。

 俺は、その後呆気に取られたまま自分の自己紹介をし、営業部長からの言葉も先輩達の挨拶の言葉も耳に入らず、ずっと香苗の様子に釘付けになっていた。

 俺の席は最悪なことに、香苗の真正面になった。
 香苗は、終始控えめな態度を崩さず、可愛い笑顔を絶やさず、恐ろしいことに俺にも優しかったのだ。
 確かに、誰だって会社では昔のようには振舞えないだろう。
 しかし、香苗の場合はあまりにも違い過ぎだ。

 香苗…。お前、今、10万匹ほど猫を被ってるだろう。
 仕事をしている香苗に、そんな思いを込めて視線を向けていたら、彼女が顔を上げ、俺を見返した。
 ぎくん!
 ギョッとしている俺に香苗は柔らかく微笑む。
 …でも、彼女の被っている猫が一匹、毛を逆立ててフーッと牙を向いて俺を威嚇しているのがわかった。

2002.7.7 

幸せの星以来の一人称ラブコメ・・・サラリーマンが書きたかったのだ〜!!
犬に続いて猫だ(笑)
ラブコメです。これは最後までラブコメです。ゆっくり書こうっと♪