戻る

目撃者F

 友里から、全ての真実を聞き終え啓太は愕然とした。

 啓太に突きつけられた、残酷な真実。体が凍りついたように動かなくなり、目の前でただただ許しを乞い
泣き続ける友里の姿を見ていた。

 啓太の心を激しい怒りと憎しみが襲った。

 正志に対する怒りと憎しみ。そして、友里に対しても怒りを感じずにはおれなかった。

 啓太は泣きながら許しを請う友里を無言で見つめていた。死を目前にした友里が、今、何を欲しているか
痛いほどわかっていた。許しの言葉。……罵倒の言葉でも、良かったのかもしれない。罰して欲しかったの
かもしれない。でも、啓太は何も言わなかった。

 許す言葉も、恨みの言葉も言わなかった。…言えなかった。友里の気持ちを軽くしてやる言葉など、とても
じゃないが口にできなかった。

 死に行く友里に対し、冷たい目を向けた後、無言で病室を出た。遠ざかる病室から聞こえた友里の嗚咽と
追い縋る様に自分の名を呼ぶ声を無視し、そのまま正志の所へと向かった。

 この時啓太の胸に正志に対し殺意があったのか、なかったのか、今となっては啓太自身にもよくわからない。
覚えているのは激しい怒りだけだった。正志に会って、何をするつもりなのかもわからないまま、家へと
乗り込んでいった。

 日も暮れ始め、空が夕焼けで赤く染まっていた。正志は居間で酒を飲みながらテレビを見ていた。激しく
叩かれるドアに驚き、玄関へと向かう。その訪問者が啓太だとわかると迷惑そうに鍵を開けた。

 玄関に入るなり、啓太は怒りを露にし加奈のことで正志を問い詰めた。そんな啓太を見て、正志は悪びれる
様子もなく楽しそうに口元を歪め、笑みを浮かべた。

『あれはお前の妹も同意のことだった。』
『嘘だ!』
『嘘なんかじゃないさ。俺の腕の中で気持ち良さそうによがってたよ。証拠の写真もあるぞ。』

 目を見開き、怒りで体を強張らせる啓太をさらに挑発するように言葉を続ける。

『何だったら、今すぐにでも見せてやるぞ。15歳であれだけ淫乱じゃあの先思いやられたよ。』

 そして、最後に正志が言った言葉が啓太の心を粉々に砕いた。

『でも、兄貴思いの良い妹ではあったぞ。最後に抱いた夜、ずっとお前のことを頼むと言い続けてた。
だから面倒見てやったんだ。ありがたく思えよ。』

 この言葉を聞いた瞬間、啓太は正志に殴りかかっていた。

 頬を殴られ、正志はよろけて廊下に仰向けに倒れた。その拍子に下駄箱の上にあった花瓶が倒れ廊下に
落ち、ゴンっという鈍い音を立てた。花瓶は頑丈なガラスだったようで割れずに床に転がった。

 正志が身を起こす前に、啓太はすかさず土足で上がり込み、馬乗りになって再び拳を握り振り上げた。
…が、あっけなく正志に腕を掴まれ、力ずくで横に倒されてしまう。今度は啓太が組み伏せられてしまった。
年齢は30近く啓太の方が若かったが、小柄な啓太より正志の方がかなり体格も良く、力もあった。だから
啓太を平気で挑発できたりしたのだ。

 正志に何度も殴られ、抵抗しようともがいたが徒労に終わり、口惜しさで涙が零れ、頬を伝う。

 そんな啓太の顔を、正志は息を弾ませ殴り続け、可笑しそうに笑って見ていた。

<加奈、ごめん……>

 啓太は痛みで遠くなる意識の中、その言葉を心の中で繰り返し呟いていた。殴られた痛みは自分への罰の
ように感じられた。何も気が付かず加奈を死なせてしまった。その後も、加奈を死に追いやった男の世話になり
続けていた事実。啓太は口惜しさと悲しさと、自分の無力さに絶望を感じていた。

 抵抗するのを諦め、力なく床に落とされた啓太の右手に、先ほど落ちた花瓶が触れた。

 手に伝わるひんやりとした冷たいガラスの感触。

『何だよ。だらしねぇな。もう終わりか?』

 あざ笑う正志の声が遠くで聞こえた気がした。啓太は花瓶を強く握り締め、満身の力を込めて正志の頭を
殴った。

『ぐっ!』

 正志は、くぐもった言葉を発し、殴る手を止めた。啓太はその後も、2〜3度同じ動作を繰り返した。すると、
正志は目を大きく見開いたまま、啓太の上に倒れこんできてそのまま動かなくなった。啓太はしばらくの間、
放心したように天井を見上げていたが正志の様子が変なことに気が付き、我に返った。うつ伏せの状態で
倒れてきた正志の顔はちょうど啓太の胸の部分にあった。

<…息…していない…?>

 啓太は恐る恐る体をずらし、正志の肩を手で掴み、転がした。

 ゴロンと仰向けに横たわる正志……やはり反応はない。

<…血?>

 正志の頭から真っ赤な液体が流れ出し、廊下を染めていく。啓太は震える手で正志の腕を掴み、脈を取って
みたが恐ろしい事実を知るだけだった。

 すでに正志は息絶えていた。

 恐ろしさと恐怖で体を震わせ、怯えたように正志の死体を見つめていたが、やがてフラフラと立ち上がり、
玄関を飛びだした。そのまま夢中でいったん自分の車を取りにアパートに戻った。現金をありったけ持ち、
車を走らせた。

 その時から、啓太の逃亡生活が始まった。啓太と正志が言い争う声や、啓太が正志の家から逃げるように
飛び出していく姿を近所の人達は目撃している。凶器になった花瓶には啓太の指紋が残っていた。

 啓太は殺人犯として警察に追われる身となった。

 色んなところを転々と移動しながら逃げ続け、その途中宿泊した安宿のテレビを見ていて友里が亡くなった
ことを知った。

<叔母さん……>

 そのことを告げたテレビ画面を見つめ、啓太は泣き続けた。

 自分が救われたい為に事実を話してしまったことで啓太が罪を犯してしまった。友里は、誰にも裁かれることの
ない新たな罪を背負い、この世を去った。

 友里を苦しみから解放させてあげなかった自分への罪悪感と嫌悪。

 啓太は何度も自首しようと思った。人を殺してしまったことへの恐怖心や罪の重さで押し潰されそうだった。
そんな気持ちを抱えつつも逃げ続けた。

 同じくらい強く思うことがあったからだ。

 犯罪者として生きていく恐怖。それに、正志に対する怒りや憎しみは、正志の命を奪った後でも消えることは
なかった。正志を殺したことに対し、どうしても悔やむ気持ちになれなかった。

<あんな男、死んで当然だ>

 そう思ってしまう。

 辛くて苦しくて…自ら命を絶つことも時折脳裏をかすめ、衝動に駆られそうになることもある。

 そんな混乱する気持ちを抱えたまま、逃げ続けた。

2002.4.8