次の日、咲子は早めに出勤していた。
<とにかく、朝一で謝ろう!> そう思い、緊張気味に健太郎が来るのを待っていた。
「おはようございます。」 聞きなれた、元気の良い声。
ドキッとした咲子の瞳に、健太郎が映る。
健太郎は、タイムカードを押して、咲子の元へやって来た。 相手の予期せぬ行動に、咲子は驚いて言葉が出せなかった。
「あの、昨日はすみませんでした。」 健太郎はペコリと頭を下げた。
その様子を見て、既に出勤していた所長が、ちょっと笑いながら口を挟んだ。 「何だ?田中。何か事務処理でミスでもしたのか?」 「いえ、そうじゃないんですけど・・・。」 所長に対してそう答え、もう一度咲子に頭を下げて、「これからは気をつけます。ごめんなさい。」 と、詫びた。
「田中君・・・。」 咲子は、健太郎に先を越されてしまい、謝るタイミングを逃してしまった。
「違うの・・・昨日は私が・・・・・。」 慌てて気持ちを伝えようとしたが・・・。
「おはよう〜。おーい、田中、昨日待ってたんだぞ〜。」 「そうだぞー。今度は付き合えよなー。」 次々と同僚が出勤してきて、健太郎に話しかけるので、言葉を続けられなくなってしまった。
「はい。すみませんでした。今度はお付き合いしますから。」 健太郎は、同僚たちの会話に加わってしまい・・・・咲子はとうとう謝ることが出来なかった・・・。
その後も、咲子自身の仕事が忙しかったり、健太郎が外出してしまったりして 言葉をかけられず、終業時刻になってしまった。
<田中君・・・まだ戻ってこない・・・> 行動予定のボードには、夕方まで客先で打ち合わせと書いてあった。
咲子はため息をついた・・・。 今日は諦めて、帰り支度をしてタイムカードを押した。
とぼとぼと、駅に向かいながら歩いていると・・・咲子の瞳に、待ち人の姿が映った。 相手の方も咲子に気が付き、一瞬目を見開いた後、微笑んだ。
「林先輩、お疲れ様です。」 目の前に健太郎が立っていた。
突然のことで、咲子は驚き、上手く言葉が出てこない。
「た・・・田中君。」 「打ち合わせ長引いちゃって、やっと事務所に戻れます。」 そう言ってニコッと笑う。 健太郎の笑顔に・・・とりあえずホッとし、気持ちを落ち着かせた。
「田中君・・・。あの、話しがあるの・・・。少し時間もらえる?」 「あ、すみません。明日までに作らなきゃいけない契約書があるんです。」 「あの・・・じゃあ・・・・その・・・。」
咲子はとにかく謝ろうと、頭を下げた。 「昨日はごめんなさい!」 「・・・・・・何で先輩が謝るんですか・・・?」 淡々とした声を聞き、咲子は顔を上げた・・・・。
「何で先輩が謝るのか、俺にはわからないです。」 微笑みながら咲子を見つめる健太郎。 ・・・咲子は、その時気が付いた・・・・・。 作り物の笑顔だって、気が付いた。
いつもの、健太郎の気持ちが溢れるくらい感じることの出来る、あの笑顔じゃなかった・・・・・。
「私・・・田中君に酷いこと言ってしまったから・・・・。」 「それは俺の方です。」 「違うの・・・私が酷いことを・・・・。」 「いいんです。」
健太郎は咲子の言葉を遮った。
「もう、いいんです。この話、やめましょう。」 「田中君。」 「じゃあ、俺、仕事あるんで、事務所に戻ります。」
咲子の言葉を待たず、歩き出そうとした健太郎。
咲子は思わず腕を掴んだ。
健太郎はビクッとして、咲子を見つめた。
「田中君。話を聞いて。」 「・・・・先輩?」 「お願いだから・・・・。」
健太郎はゆっくり首を横に振り、咲子の手から優しく腕を引き離した。
静かな拒絶。
この時の辛そうな瞳だけが、今日感じられた唯一の、健太郎の気持ちだった。
もう一度、ニコッと笑ってから咲子に背を向け、歩き出す。
咲子は健太郎にかける言葉を失い、その背中が見えなくなるまで 立ち尽くしていた。
健太郎は逃げていた。 人の気持ちに触れるのに、酷く恐怖を感じ、逃げていた。 <何で先輩が謝るんですか・・・・?> あの時、自分に向けられた言葉は、本心だったはずだ。 そう感じた。なのに、何でその言葉に対し、謝るのか・・・・わからなかった。 あの言葉が咲子の本心だったと思うから、謝られても、その気持ちを 素直に受け取ることなど出来なかった。
咲子はこの日、夕食を作っている時も、優子をお風呂に入れている時も 寝る前に優子に、絵本を読んであげている時も・・・・ずっと心が重かった・・・。
ベッドに入って、咲子の、絵本を読む声を聞いていた優子・・・その声が 微かに震えているのに気が付いた。 「・・・おかあさん・・・?」 「・・・ん?なぁに?」 咲子は、のろのろと、優子に微笑みかける。
「・・・ないてるの?」 「・・・・・え?」 「おともだちと、なかなおりできなかったの・・・?」
優子にそう言われ・・・・・声を出す前に、咲子の瞳から、涙が零れた。
「おかあさん!!」 優子はビックリして、飛び起きた。
「ごめんなさい・・・・。大丈夫だから。」 咲子は必死に涙を止めようとするけれど・・・上手くいかず・・・。
優子は、ベッドから降りて、とてとて走って、押入れに飛びついた。 そして、おもちゃを入れている箱を出して・・・・そこから、1番の宝物を取り出した。
「おかあさん。これ、かしてあげる・・・・。」 優子も半泣き状態で・・・でも、一生懸命涙を堪えて、手にしていた宝物を咲子に渡した。
小さな花束。
「元気出して♪」 「笑ってよ〜♪」 「泣いちゃダメだよ〜♪」
咲子の手の中で、小さな花達が歌いだす。
「これ、田中君の・・・魔法の花束・・・。」 「おうえんかだよ。」
咲子は花達の歌を聞き・・・・微笑を浮かべたけれど、笑顔はすぐに崩れてしまい・・・・・。 その瞳から、また涙が溢れ、零れ落ちた・・・・・。
優子はパジャマを手でキュッと握って咲子を見ていた。
<おにいちゃん・・・・おかあさんがえがおになるまほうかけて・・・・> 心の中で懸命にお願いしていた・・・。
<・・・・・・この辺で、いいかな> 帰り道、関口は誰かに後を付けられているのを感じていた。 それが何者なのかも、わかっていた。
残業してから同僚と飲みに行ってたので、今はもうけっこうな時間だ。 それでも、まばらに人通りがあったので、自宅付近の住宅街まできてようやく 話しかけることが出来ると思った。
人気のない細い小道に入り、上を見上げた。
「うぉーい。もう良いぞ。来いよ。」 その声に反応し、羽音が聞こえる。
関口の肩にとまり、ホッと一息つくカラス。
「いつから気が付いてた?」 カー助はちょっと口惜しそうに聞いた。
「飲み屋出た時から。だいたい俺に気付かれずに尾行しようなんて考えが甘いんだよ。」 「ちぇっ。」 「それより、どうした?何か用があって来たんだろ?」
関口の言葉に、カー助はちょっと俯いて・・・重い口を開いた。
「・・・健太郎の様子が変なんだ・・・。」 「へ?」 「あんた・・・何か知らないか・・・・?」 「いや・・・。」 「昨日・・・何かあったはずなんだよ。本当に知らないか?」 「俺、昨日も今日も田中と会ってねーもん。」 「・・・そっか・・・・。じゃあやっぱり・・・。」 カー助はその先の言葉は言わずに、咲子のことを思い浮かべる。
<咲子さんと、何かあったんだ・・・> そう思わざるを得なかった・・・。
「・・・おい。田中の奴が変って・・・どういうことだ?」 「・・・・・。」 「何だよ。言ってみろよ。」 「・・・・・・・関口さん・・・。助けてくれよ・・・。」
カー助は救いを求めるように関口に訴えた。
<寂しいよ・・・> 親友が心の中で、そう叫んでいるのを感じているのに、何もしてあげられない。 カー助は何も話そうとしない健太郎に、歯痒くて苛立ち、それ以上に 悲しくてたまらなかった。
何も話そうとしないのに、自分に助けを求め、傍にいて欲しいと心の中で叫んでいる。 そんな親友を、助けたかった・・・・・・。
「何かあったはずなんだ。すごくショックなことが・・・何かあったはずなんだ。 なのに何も話さないし、何を考えているかもわからないんだ。」 「何を考えているかわからない?」 <あの、考えてることがすぐ顔に出る奴の・・・?> 関口は、健太郎の様子を聞き、ひたすら驚いていた。
「健太郎、何かに酷く傷ついてる・・・。」 「・・・・・・・・。」 「誰かと何かあったんだと思ったんだ。」 「なるほどね。」
健太郎をそこまで傷つけることの出来る人間は、健太郎自身が大切にしていた人間に 違いないとカー助は思った。
「俺、本当は真っ先に咲子さんの所に行こうと思ったんだ・・・。」 「何で先に俺に会いに来たんだ?」 「もし・・・健太郎を傷つけたのが咲子さんだったら・・・内容によっては俺、冷静でいられないから・・・。」 カー助は自嘲気味に答え、関口を見つめた。
「わかった。」 「関口さん・・・。」 「明日、林さんと話をしてみる。」
関口は健太郎のことも気になったが、野島夫婦に優子の存在を言ってしまったと、奈美江から 聞いていただけに、咲子自身にも何かあったんではないかと考えていた・・・・。
「よろしく頼むよ。」 カー助は、少し安心したようで、柔らかな口調になっていた。
「ああ。まかせとけって。」 「じゃあ、俺帰るよ。健太郎心配してるだろうから・・・。」
カー助は勢い良く飛び立ち、夜空に舞い上がった。
飛んでいくカー助を見送ってから、関口は、ため息を付いて呟いた。
「・・・田中のバカタレが。心配ばっかさせやがって・・・。」
残業して、家に帰ってきた健太郎。 テーブルの上の書置きに目が留まった。
ちと出かけてくる。
すぐ帰るから心配すんな。
カー助より |
カー助もいないし、部屋の中でぼんやりしていた。
すると、 ピンポーンと呼び出し音がなった。
<カー助だ!> 健太郎は、飛びつくようにドアを開けた。
「あ・・・。キリー・・・。」
ドアの前には、カー助ではなくて、キリーが立っていた。
「こんばんは。バイト先のお婆ちゃんが肉じゃがくれたの。おすそわけ。」 ニコッと笑って、肉じゃがの入った器を差し出すキリー。
「あ、ありがとう。」 てっきりカー助が帰ってきたんだとばかり思っていたので、キリーの姿に 少し戸惑いながら受け取った。
「最近あんまり話してなかったから報告遅れたけどね。今、古本屋でアルバイトしてるんだよ。」 「へぇ。そうなんだ。良かったね。バイト見つかって。」 「そこのお婆ちゃんが、くれたの。」 「そっか。」
キリーの言葉に受け答えする健太郎。
「・・・・どうしたの?」 キリーは首を傾げて訪ねた。 健太郎の様子がおかしい事にすぐ気が付いた。 小さな頃からの付き合いは伊達じゃない。
「どうもしないよ。何で?」 「嘘!!」 「嘘じゃないよ。じゃあね、ありがとう。」 笑いながら答え、早々に話を終わらせようとする健太郎に、キリーは 眉間にシワを寄せて詰め寄った。
「変だよ。どうして嘘つくの?」 キっと睨んで、玄関に足を踏み入れ、健太郎を押しのけて部屋に上がりこんだ。
・・・健太郎は、ちょっと疲れたようなため息を付き、部屋で仁王立ちしている幼馴染を見つめた。
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