「おはようございます!」
健太郎は元気に挨拶し、タイムカードを押した。 席に座ると、咲子がこそっと話しかけてきた。
「昨日はありがとう。とても楽しかった。」 「いえ、こちらこそ、ご馳走になっちゃって。カー助も感激してました。」
「良かったー。あ、ところで、田中君。何か話があったんじゃなかったっけ?」 「あ・・・。」 「昨日は話に夢中になっちゃって聞かなかったから・・・。」
健太郎は、神妙な面持ちで言った。
「あの・・・。その件なんですが、今夜もし良ければ、もう一度時間をいただけませんか?」
対する咲子はきょとんとして、「う〜ん・・・。」と考えた後、ニコッと笑い、「いいわよ。」と答えた。
「本当ですか。」
健太郎の顔がパアッと明るくなり、ニコニコ笑顔になる。
「じゃあ、今日は俺、奢りますから夕食一緒にどうですか?」
「うん。あ、でもあまり遅くはなれないからね。」 「はい。大丈夫です。」
<『好きです』って一言言えば良いんだから・・・・>
<・・・今夜こそ絶対に言うぞ!!>・・・と気合を入れる健太郎であった・・・・。
咲子は午後、本社で開かれる『事務担当者連絡会議』に出席するため 外出した。
健太郎は残業しないようにと、必死に事務処理していた。
カチャリ・・・・。 奈津子は鍵を開け、ドアノブに手をかける。
ここは奈美江が暮らすワンルームマンションだ。
奈美江が一人暮らしを始めた時、何かあった時のためにと合鍵をくれていたのだ。
奈津子は部屋に足を踏み入れた。 室内は、奈美江の好みのシンプルな家具やカーテンで整えられている。
奈津子はゆっくりと部屋を見渡し、本棚に近寄る。 しばらく何かを探すように視線を這わせ・・・ピタリと目を止めた。
『Kサービス株式会社社員名簿』
背表紙にそう書かれた本を取り出し、ページをめくる。
発行年月日は2年前の物だったが、充分に奈津子の役に立ってくれた・・・・。
持ってきた手帳に、咲子の所属と営業所の住所、それと、咲子自身の住所のメモを取った。
奈津子はマンションを後にし、駅に向かいながら腕時計に目をやる。
<この時間なら・・・・営業所に行った方が早く会えるかしら・・・>
勤務先か自宅か・・・数秒迷い、勤務先に行き先を決めた。
<・・・会ってどうするつもりなの・・・?> 奈津子は自分に問いかけてみる・・・。
<会って、政博さんを取らないでって・・・泣きつくつもり・・・?>
奈津子は泣きたくなるのを必死で堪えた・・・。
「・・・さてと・・・。」 会議も終わり、咲子は持ってきた荷物を鞄に詰め、本社を後にした。 思ったより長引いて、もう終業時刻間近だった。
「急いで事務所に戻らないと・・・・田中君、待たせることになっちゃう。」 健太郎との夕食・・・・咲子はちょっと楽しみだった。
駅を降り、営業所までの道を急ぐ。
<・・・・・・あら?> 営業所の前まで来た時・・・・入り口の所で、うろうろしている女性が目に入る・・・・。
咲子はハッとした・・・・。
<・・・あの人・・・・・>
その女性をじっと見つめ・・・・咲子は、鼓動が早くなるのを感じた。
初めは奈美江かと思ったが、雰囲気が違かった。
<奈津子・・・さん・・・・?>
咲子がそう思うのと同時に、奈津子の方でも咲子の姿に気が付いた・・・・。
奈津子は、目を見開き・・・・その後、小さく頭を下げた・・・。
咲子は一瞬躊躇し、その後、小さなため息をついた・・・。 そして、覚悟を決めたように顔を上げ、奈津子の元へと足を向けた。
「・・・・こんにちは・・・・。」 奈津子は小さな声で挨拶した。
「お久しぶりです・・・・。」 咲子は懸命に落ち着いた声を出すように努めた。
「突然訪ねて来たりして・・・ごめんなさい・・・。」 「いえ・・・。」 咲子には奈津子が何をしに来たのかわかっていたから・・・。
「林さん・・・。貴方とお話しがしたいの。お時間いただけるかしら・・・。」 「・・・はい。」
咲子はそう答えてしまった後、健太郎のことが脳裏を過ぎる。
<田中君・・・ごめんね。なるべく早く戻るから・・・・>
健太郎に事情を話せば心配するだろうと思い、事務所には戻らず、奈津子を連れて 近くの喫茶店に入った。
注文したコーヒーが運ばれてきて、それまで黙っていた奈津子が重い口を開いた・・・。
「・・・姉から聞きました。子供のこと。優子ちゃんって言うんですってね。」 「・・・はい。」
奈津子は、膝においていた両手をギュッと握った。
「・・・私・・・今、妊娠しているんです・・・。」 「・・・・・・・・・。」 咲子は顔を上げ、奈津子を見つめた・・・。 奈津子は薄く微笑み、クスっと笑った。
「この前街で会ったものね。その時、気が付いたわよね。」 「はい。」 「政博さん、とても喜んでくれて・・・赤ちゃんのおもちゃや服を、すぐ買いたがるの。」 「・・・そうですか。」
咲子は奈津子の話しを、表面上は淡々と、静かに聞いていた。 その姿が、更に奈津子を追い詰めた。 気持ちが歪み、目の前にいる女を傷つけることしか考えられなくなる・・・・。
<違う!私はこんなことを言いに来たんじゃないのに!話をしにきたのに!>
心の中でそう叫んでも、口から出る言葉は奈津子の言うことを聞いてくれない。
「政博さんが貴方の子供のことを知ってから、しばらく経つけど、何も言わないわよ。」 「・・・・・・・。」 「まるっきり普段通りの生活をしているわ。」 「・・・そうですか・・・・。」 「そもそも、貴方が勝手に生んで勝手に育てている子供ですものね。」 「はい。」 「・・・貴方に関わりたくないのよ、きっと。」 この言葉の後に、奈津子はキッと咲子を睨み、「今政博さん、幸せだから・・・・。」と付け加えた。
明らかに咲子を傷つけるための言葉。 咲子は目を閉じ、自分に向けられる言葉を全て受け止めた。 他にどうしようもなかった。 奈津子が自分を責めるのは仕方のないことなのだと思ったから。
でも・・・そう思いながらも。
昔、心に渦巻いていた感情が溢れ出す。
自分は、ただ人を好きになっただけだ。 気持ちを伝え、相手がそれに答えてくれた。 無理強いなどしなかった。 それのどこが悪いの?
奈津子に反論したい気持ちを必死で抑えた。 何故って・・・決めているからだ。 優子は自分一人で育てると。 奈津子と政博の仲を壊すつもりも一切ない。
なのに・・・何でこんな気持ちが沸いてくるんだろう・・・。
<奈津子さんに対して今でも嫉妬しているの?>
<政博に対して・・・まだ気持ちが残っているの?>
咲子は必死に自分自身に問いかけていた。
でも、わからなかった。 自分の気持ちがわからなかった・・・。
それに・・・・怖かった。 昔のような、嫌な自分になるんじゃないか。 それが怖かった。 あんな自分と、もう二度と向き合いたくなんかないから・・・。 政博と別れた時も、政博と再会した夜も、言えなかった気持ち。 心の底で今でも焼きついて離れない、咲子の本当の気持ち。 もう、その時の気持ちに捕らわれたくはなかった・・・・。
「・・・何で何も言わないの・・・。」 <酷いこと言っているのに何で何も言い返さないの?> 黙っている咲子を見て、奈津子は胸の痛みを感じていた。
咲子を責めれば責めるほど・・・自分のことが嫌になる。
<何でこの人は・・・こんなに綺麗なの・・・・?> 奈津子に何を言われても、黙って言われるがままの咲子の姿に・・・どうしようもなく 打ちのめされていた・・・・。 奈津子の目には・・・咲子がとても綺麗に見えた・・・・。 政博から潔く身を引いた人。 子供がいることを隠し、たった一人の力で育て、生きて行こうとした強い人。
<この人には私の中にあるような、醜い感情なんてないの?> <政博さんが惹かれるのも無理ない・・・・> <私なんかがかなうはず、なかったんだ・・・> <もっと・・・憎しみをぶつけられる、嫌な人だったら・・・・楽だったのに・・・・・>
奈津子は胸が締め付けられる。 咲子と比べて、自分は何て嫌な女なんだろうと泣きたくなる。
でも・・・それでも、政博のことを愛し、傍にいたいと願う・・・。
奈津子は俯いて・・・・懸命に涙を堪える。
「お願い・・・・政博さんを取らないで・・・・。」
奈津子の、今にも消えてしまいそうな涙声。
「お願い・・・・。」
咲子は、その言葉を聞き目を見開いた。 そして、奈津子の瞳から涙が零れ落ちるのを見て、ため息をついた・・・。
「取るも何も・・・過去のことなんです。」 咲子の言葉に、奈津子は顔を上げた。 落ちる涙もそのままに、咲子の姿を瞳に映していた。
「優子は今まで通り私一人で育てますし、野島さんのことも、もう何とも思っていませんから・・・。」
『もう何とも思っていませんから・・・』・・・・咲子は自分で言った言葉に、心の中で聞き返す。 <本当に?本当にもう何とも思っていないの?> ・・・咲子にもわからなかった。 過去の想いが邪魔をして、わからなくさせる。
「・・・そうですか・・・・。」
奈津子は咲子の言葉を聞いて、力ない声でそう言い、ゆっくりと席を立った。
そして、小さく頭を下げて、店を出て行った。
咲子は、しばらくその場から動けなかった・・・。
政博や奈津子のことを思い出せば、どうしても蘇ってしまう過去の感情。 昔の、嫌な自分。
政博と別れる時 本当は心の中で叫んでいた。 <あんな女のどこが良いの?> <私のこと、好きだって言ったじゃない!> そして、奈津子への憎しみ。 手首を切って自殺までしようとした奈津子。 彼女を追い詰めてしまった自責の念を抱えながらも、心の底でふつふつと湧き上がる・・・怒り。 傷ついた奈津子に対して、思いやるどころか・・・怒りを感じていた。 <卑怯だ!> <政博さんの優しさにつけこみ、自分の命を利用するなんて汚い!> 当時、狂言自殺とは思いもしなかったが、どちらにせよ命を盾にしているように感じた。 奈津子のやり方を許せなかった。 ・・・でも、政博は奈津子を選び咲子を捨てた。
咲子の心は傷つけられ、血を流した。
政博のことを愛し、別れる時も彼の幸せを願いながらも・・・・・彼の不幸も願っていた。 相反する2つの気持ち。 人を憎み、妬み、羨み、嫉妬する気持ち。 本人にとっても辛い、悲しい気持ち・・・。 咲子は自分の中にある、そんな気持ちを嫌悪したが、想いは止められなかった・・・。
そんな自分自身を目の当たりにした過去に、今でも責められているような気がした。 咲子の心には、深い傷が残っていた・・・・・。
<・・・・・田中君が・・・待ってる・・・。行かなくっちゃ・・・・>
咲子はのろのろと、過去に捕らわれたままの気持ちで喫茶店を後にした・・・。
「田中〜。飲みに行かないかぁ?」 営業所の同僚たちはこれから飲みに行くらしく、各々帰り支度をしながら健太郎を誘った。
「すみません。今日は用事があるんです。」 「そうか。・・・そういえば、林さん帰り遅いな・・・。」 「俺、仕事まだありますから、残っています。」 「じゃ、よろしく頼んだぞ。お疲れさん。」 「じゃあな。田中。」 「駅前の焼き鳥屋にいるから用事が済んだら顔出せよ〜。」
みんなはワイワイと事務所から出て行った。
所内にポツンと取り残された健太郎。 壁にかけられた時計を見つめる。
<もう6時半過ぎちゃった・・・・> さっき本社に電話をしたところ、会議はとっくに終わっていて、咲子は5時には出ているはずだった。 ならとっくに帰ってきていて良い時間だ。
<どうしたんだろうな・・・> 心配で、昼間の元気さとは打って変わって、ちょっとシュンとしながら ひたすら咲子のことを待っていた。
その時、人の気配がした。
健太郎はピョコンと顔を上げ、入り口に目をやった。
「・・・遅れてごめんね・・・。田中君。」 少し微笑みを浮かべ、咲子が健太郎を見つめていた・・・。 その表情は、まるで泣きそうなのを笑顔で隠しているように見えた。
作り物の笑顔。それを取り去ってしまったら・・・酷く悲しい泣き顔になってしまうのでは ないかと思った・・・・。
「・・・林先輩。・・・・・どうしたんですか・・・・?」
健太郎は思わずイスから立ち上がって、聞いてしまった。・・・それくらい、様子がおかしかった。
咲子はゆっくりと足を運び、健太郎の隣のイスに腰掛けた。
「・・・お話しってなに?」 「え・・・?あの・・・・。」 「ごめん。今日何だか疲れちゃって、早く家に帰りたい気分なの・・・。だから お話し、ここで聞かせてもらえる?」
・・・本当は、こんな気持ちのまま、健太郎と向き合うのが辛かったのだ。 <何で・・・・・?> 咲子自身も、よくわからなかった。 ただ・・・今、健太郎の傍にいると、余計に嫌な自分が浮き彫りになりそうな気がした。
「あの、じゃあ別の日でいいですよ・・・・。」 健太郎は咲子の様子に戸惑っていた。
<先輩・・・どうしたんだろう・・・> 確かに酷く疲れているようにも見える・・・・でも、何でこんなに悲しそうな目を しているのだろうか・・・健太郎は気になって仕方がなかった・・・・。
「でも、ここまで待たせちゃったんだもの。聞くわ。話して。」 咲子は顔を上げて、ニコッと笑う。 私は大丈夫よ!・・・とでも言いたげに、わざと元気そうに振舞う。
「でも・・・。」
「言って!」
咲子のきっぱりとした態度に押されて・・・健太郎は覚悟を決めた。
「あの・・・。俺・・・。」
今まで大切にしてきた想い。 この想いのために、魔法の国を出て、人間界に暮らすことを選んだ・・・大切な気持ち。
健太郎は、今までの想い、全てを込めて気持ちを伝えた・・・・。
「貴方のことが好きです。」
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