<あれから一週間が経ったのね・・・>
日曜日、夕食の準備をしながら奈津子はぼんやりと考えていた。
咲子に子供がいたことを知った政博。 奈津子は不安で不安でたまらなかった。 政博はあれからずっと思い悩んでいる・・・・奈津子にもそれが感じられるのに 何も言ってくれない。
奈津子は政博の心が知りたくて知りたくてたまらないのに、聞けずにいた。
奈津子自身もこの話題に触れるのが怖かったのだ。逃げていたのだ。
「明日の朝、会議があるから少し早めに家を出るよ。」 「そう・・・。」 夕食時の会話。 いつもと同じ、日常的な会話。 本当なら、穏やかで幸せな1コマだったはず・・・。 でも、今は心が寒くなる。 ここに心がないのがわかるから・・・・。
<また・・・取られちゃうの・・・・?>
奈津子は怯えていた・・・・胸が締め付けられるほど怖かった・・・。
一方、政博はずっと考えていた・・・・。 でも、考えても考えても答えなんか出なかった。
自分と咲子の子供がいる・・・・その事実を突然突きつけられて、困惑と同時に 咲子に対する想いが溢れ出し、心が昔の想い出に囚われていた・・・。
政博は、咲子を好きになり、奈津子にきちんと自分の気持ちを話して別れた。 咲子のことが好きになったと正直に伝えた・・・・。
奈津子は泣いた。別れたくなと言って泣いた。 そんな姿を見るのは辛かったし胸が痛んだ・・・・・・でも、咲子への想いは止められなかった。
それに・・・政博の心は、咲子と出会う前から、少しずつ奈津子から離れていっていたのだ。
新入社員として入社してきた奈津子を見た時<可愛い子だな・・・>と思った。 どこか頼りなげで、危なっかしい印象があり、目が離せなくて色々構っているうちに 奈津子の方から告白してきた・・・。
「貴方が好きなんです・・・・。」 真っ赤に頬を染めて、今にも消えてしまいそうな声での告白。 政博も良い子だなと想い初めていたので、即OKした。
付き合い出してから、しばらくの間は頼られて、甘えられて、嬉しかった。 政博は穏やかで、どちらかというと受身の性格なので、 奈津子のような大人しい女性が似合っているとも思っていた。
でも・・・少しずつ奈津子のことを知っていくうちに 段々疲れてくるようになった。
あまりにも自分に依存し頼りきる奈津子の気持ちが正直重くなっていった。 奈津子にはかなり振り回された。 「私は政博さんがいなきゃダメなの・・・。」いつもそう言って甘えていた奈津子。 一見大人しそうに見える奈津子だったが、案外我侭で政博は気が付くといつも奈津子の 思い通りに動いていた。 奈津子はまるで愛情を確認するかのように、自分の気持ちをぶつけ、受け入れさせた。 そのくせ政博の欲していた気持ちは察することはなかった・・・。
<もっと自立してくれよ・・・僕にばかり依存しないでくれ・・・>
そんな政博の気持ちにも気が付かない奈津子。
奈津子への気持ちが冷めてきていた・・・・そんな時に咲子と出会った。
明るく笑い、気さくに話をする咲子に好意を持った。 何もかも奈津子とは違う、活発で爽やかな咲子の姿に惹かれて行った。 喫茶店はもともとよく通っていたが、今までとは違う気持ちで足を運ぶようになって行った・・・・。
<僕は・・・彼女のことが好きなんだろうか・・・・・>
夏が終わる頃には・・・政博は徐々に自分の気持ちに気が付き始めていた。
政博の、そんな気持ちに気が付いているのかいないのか・・・奈津子は前にも 増して政博にまとわりつくようになった。
そして・・・・。咲子からの告白。
咲子の方から告白されて、とても嬉しかった。 すぐにでも返事をして、咲子を抱きしめたいと思ったが・・・。
奈津子のことをきちんとしない限り、返事はできないと思った。
奈津子と別れて初めて咲子に気持ちを伝えれられる・・・政博はそう思った。
だから、奈津子と別れるまでは咲子に会うのはやめようと決意し、実行した。
「別れたくない・・・。私のこと愛しているって言ったじゃない・・・・。」
そう言いながら涙を落とす奈津子の姿に・・・胸が痛んだ。
でも、もう咲子への気持ちを止めることは出来なかった。
一生懸命気持ちを伝え・・・・最後には奈津子も納得してくれた。
「政博は私といるより・・・彼女といる方が幸せになれるんだもんね。」 奈津子が小さな声で呟いた。
そして、顔を上げ、今にも泣きそうな顔で微笑んだ。 「わかったわ・・・。別れましょう・・・・。私・・・政博には幸せになってもらいたいもん・・・・。」 「ごめん・・・奈津子・・・本当にごめん。」
政博は奈津子に詫び続けた・・・・。
そしてようやく咲子の気持ちに答えられる状態になったのだ・・・・。
それからしばらくは咲子との幸せの時間が続いたが、いつもどこか暗い影があった。
奈津子のことが気にかかっていたからだ・・・。 会社で顔を会わせる度、彼女の気持ちを感じ、胸が痛かった。
<また少し痩せた・・・> <今日は会社を休んでいた・・・> <最近・・・笑顔が消えている・・・>
別れたのに奈津子のことが気になった・・・・。 自分のせいで奈津子に悲しい思いをさせている・・・・そう思い、責任を感じていた・・・。
そして・・・奈津子は手首を切った・・・・。
<咲子のことは、とても好きだった・・・・。でも最後の最後で裏切ってしまった・・・>
追い詰められていた奈津子の手を振り解くことなど出来なかった。 今にも消えてしまいそうだった奈津子を置いて、自分だけ咲子と幸せになどなれないと 思った・・・・。
奈津子が命を捨てようとするほど自分は必要とされていると感じた時・・・ 彼女から離れてはいけないと思ってしまった・・・。
<あの時・・・俺自身も追い詰められていた・・・・他に何も考えることなど出来なかった・・・>
でも・・・自分を必要としていたのが奈津子だけではなかったのだと、思い知らされた。
別れを告げた政博を責めることもせず、身を引いた咲子を想うと胸が痛んだ。
一人で子供を生み、育てることがどんなに不安で大変だったか・・・そのことを思うと・・・ どうしていいのかわからないでいた・・・・。
<僕と咲子との子供・・・・・・>
未だに現実を、受け止めきれないでいた・・・・・。
政博は、穏やかで優しい男だ。 優しい・・・・それは人によって色々な感じ方があるだろう。 政博の優しさは・・・弱さでもあった。
人を傷つけてまで前に進もうとしない・・・進んでもすぐ後ろを振り返ってしまう。
奈津子を傷つけ、咲子を選び先へ進もうとした。 それなのに、後ろを振り返り続け、今度は咲子を傷つけた・・・・。
ぼろぼろになった奈津子の姿を見て、彼女を追い込んだのは自分だと 感じた時・・・どうしようもない罪悪感に囚われた。
そして今、咲子に対し、同じ思いを抱いている。
咲子の性格を考えると・・・政博のことを困らせまいとして 何も言わずに子供を生んだのだと思っていた。
<僕は・・・どうしたら良いのだろう・・・・>
一人で重い悩みを抱えている・・・・昔と同じで、他のことが考えられなくなり、 自分一人の気持ちに囚われ・・・また政博は同じ道を辿りそうになっていた・・・・・・。
奈津子と咲子の気持ちを置き去りにしていた・・・・・。
静かな夕食の場を壊すように電話の呼び出し音が鳴る。
政博はその音にも関心を示さず、ご飯を機械的に口に運び続けている
奈津子も動こうとしない。
やがて電話が留守電に切り替わり、メッセージが吹き込まれる。
「奈津子・・・。奈美江です・・・。どうしてますか?・・・あの・・・。心配です・・・また電話するね・・・。」
控えめな、小さな声が流れる。 あれから、奈美江は毎日奈津子に電話をしていた。 出ようとしない奈津子に・・・それでも毎日欠かさず電話を入れていた・・・。
「出なくていいのか・・・・?」 政博は一時箸を止め、奈津子を見つめた・・・。
「いいの・・・。」
その後、また沈黙が続き・・・表向きは普段通りの、他愛のない話しが何度か交わされた。
2人とも、逃げていた。 2人で問題に向き合わず逃げていた。
逃げているからこそ、政博は答えを出せずにいて苦しみ・・・奈津子は政博の気持ちを掴めず怯えていた・・・。
<・・・・・・私は・・・どうしたら・・・いいの・・・> 夕食後、食器を洗いながら、奈津子はぼんやりと考えていた。
林咲子・・・・。 その名前がグルグルと頭を巡る・・・・。
奈津子は、今回のことがなくても・・・いつもどこかで怯えていたのかもしれない。
あんな方法で奪い取った政博の気持ち・・・・だからこそ、またいつか誰かの物になってしまわないかと 不安で、苦しかった・・・。
1週間前咲子を街で見かけ、自分が感じた優越感を、今は咲子が感じているのではないか・・・ そんな想像をして、たまらない気持ちになっていた・・・・・・。
<彼女に・・・会おう・・・・>
奈津子は、気持ちの整理が出来ないまま・・・咲子に会ってみようと思っていた・・・。
「桐子ちゃん、夕食、食べていかないかい?」
腰の曲がったお婆ちゃんが、キリーを夕食に誘う。
雪村桐子・・・キリーの人間界での名前。
「・・・あ、じゃあ、いただきます。」
戸惑いながらも、ちょっと嬉しそうに微笑む。
新しいバイト先・・・古本屋。 その店主が、このお婆ちゃんなのだ。 街を歩いてて、店番募集の張り紙を見つけたのだ。 小さな古本屋だったが、キリーの興味をそそるような本が山積みされていて、その場で決めた。 時給はとても安かったが、このバイトが気に入っていた。 意外とお客は来るので、それなりに忙しい時間帯もあった。 暇な時は、お婆ちゃんの許可を得て、貪る様に本を読んでいた。
お婆ちゃんはとてもキリーを可愛がってくれた。夕食にも度々誘われ、
キリーは困惑しながらもご馳走になっていた。
お店の奥にある8畳間。ここでご飯を食べている。 コタツの上にお婆ちゃん手作りの煮物や自慢の漬物が並ぶ。
部屋の隅に仏壇があり、今はもう違う世界に旅立った旦那様の写真が置いてある。 年齢は・・・50代くらいだろうか・・・。
キリーはぼんやりとその写真を見つめていた。
「・・・桐子ちゃん、ご飯の準備できたよ。こっちにおいで。」 「はい。」
キリーはコタツに入り、「いただきます。」と言ってペコリと頭を下げた。
「美味しいかい?」 「はい。」 「そりゃ良かった良かった。」 「・・・・あのぉ・・・・。」 「ん?」 「あの・・・男の人は旦那様の写真ですよね?」 「そうじゃよ。」 「どんな人だったんですか?」 「勝手気ままな人じゃったのぅ。好きなことをしたいだけして、事故であっさり逝っちまった。 最後に言い残した言葉が、『楽しい人生だった』じゃよ。最後まで幸せな人じゃったよ・・・・。」
言いたい放題言っている割に、お婆ちゃんの目は優しかった。 お婆ちゃんたち夫婦には子供はなく、今は一人で暮らしている。
「お婆ちゃん・・・一人で寂しくないの?」 「寂しい時もあるさね。でも、こうして桐子ちゃんと食事出来る日もあるし、 4丁目の富さんとは茶飲み友達だしのぅ・・・。そうそう悪いもんでもないさね。」
そう言って笑うお婆ちゃんを、キリーはまじまじと見つめていた・・・・。
「寒い〜・・・」 キリーは首をすくめ、ブルッと震えた。 家に帰る途中・・・夜風を頬に受けながら夜空を見上げる。
星はあまり良くは見えないけれど、それなりに綺麗だと思った。
「楽しい人生だった・・・・・か。」
そう言える人生を誰もが歩めるわけじゃない。 でも・・・。
<人間の持っている時間なんて短過ぎて・・・何が出来るんだろうって不思議だったけど・・・>
その分、いっぱい笑って、泣いて、怒って・・・激しく生きているのだろうか・・・?
健太郎の目には、それが輝いて見えたのかな・・・。だから人間界が好きなのかな・・・ だとしたら、その気持ち・・・ほんの少しだけ理解出来るかもしれない・・・・と思った・・・。
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