「関口さん・・・。林さんの件はどこまで詳しく知っているんですか?」 奈美江は真剣な顔で尋ねた。
「過去のいきさつも、君との関係も聞いたよ。どうして?」 きょとんとしながら答える関口。
奈美江は、手にしていたコーヒーカップを静かに置いて 「相談があるんです。」と言った。
さすがに、優子のことを知っているということだけでは相談することは出来ないと思っていた。 これ以上、咲子の過去について勝手に話すことはしたくなかったからだ。 だから関口の言葉を聞いてホッとした。
退社後、会社近くの喫茶店で待ち合わせをしてから場所を変え、 美味しいお蕎麦を出す店に入った。 そこで腰を据えて話を始めたのだが・・・。
「優子ちゃんのこと・・・話ちゃった?!」 奈美江からそのことを聞いた時、さすがの関口も、開いた口が塞がらなかった。
蕎麦を食べながら奈美江の話を聞いて、驚いている真っ最中の関口であった。
奈美江はことの詳細を全て、包み隠さず話した。 奈津子の狂言自殺のことも、政博に子供のことを聞かれてしまったことも・・・。
「もう・・・私・・・どうして良いのかわからなくて・・・。」 力なくうなだれる奈美江。
「そりゃ・・・どうして良いのかわからなくて当然だねぇ・・・。」 関口も、なんて言って良いのかわからず、困惑しながら頭をかいた。 正直言って、奈美江のしでかしてしまったことは、かなり深刻なことだと思っていた。
「私・・・林さんにこのことを話して・・・謝らなきゃ・・・。」 ため息混じりに呟く。
「そうだな。・・・・・いや・・・・。」
関口はいったんは奈美江の言葉に同意したが、ふと思ってしまった。
事情を話しておいた方が良いとは思ったが、また咲子が傷つくことになりはしないか・・・ そのことを気にしていた。
奈津子の自殺騒ぎが、実は狂言だったことを知れば、色々思うところもあるだろう。
そして、それ以上に気になるのは・・・・・政博のこと。 今の政博は優子の存在を知っている。 知っていて、何のリアクションも起こさなかったら? 知っているにも関わらず、知らないふりでもされたら咲子はどう思うだろう。
<もし、林さんが今でも野島とやらに想いを寄せていたら、えらく残酷じゃないか・・・・?>
まあ、下手にリアクション起こされても困るが・・・でも女心としても、母親としても、とりあえず 何かしらの反応を示してもらいたいんじゃないだろうか・・・。 関口は大きなため息を付いた。
政博や奈津子がどういう行動に出るかはわからない。
もしかしたら・・・何もせず、いつもの通りの生活を続けるかもしれない。
<いずれにせよ、当事者たちはまた苦しむことになるな・・・>
そう思うと、どうしても目の前にいる奈美江に、元気付ける言葉をかけてあげる気には なれなかった。 かといって、海の底より深く反省し、肩を落している彼女をこれ以上 追い詰めることも出来ないと思っていた。
「関口さん・・・。」 黙ったまま考え込んでいる関口に、おずおずと声をかける。 関口は重い口を開いた。
「とりあえず・・・林さんに伝えた方が良いとは思う。・・・後は・・・何とも言えないよ・・・。」 「そうですよね・・・。すみません・・・相談されても困りますよね。」
奈美江は申し訳なさそうに俯いた。
「いや、俺のことは気にしなくていいよ。・・・・それに・・・。」 『それに』・・・この言葉の先は、奈美江に向けて・・・というより、自分に言い聞かせる為の 言葉だったのかもしれない。
「それに、もし林さんや、君の妹さん夫婦に、過去のことで心の上に重石があるなら・・・ 今回のことがそれを取り去る機会になるかもしれない・・・・。」
世の中知らない方が幸せだったと思うことは山ほどある・・・・でも、知ってしまった以上、 こう考えるしかないだろう・・・・と、関口は思うことにした。
<・・こちら側の都合の良い、勝手な考えだけどな・・・>
当事者たちにとっては、冗談じゃない、とんでもないことに違いないのだから・・・・。 関口はもう一度、ため息をついた・・・。
奈美江は、まるで自分のことのように話を聞いていた関口の姿を見て、 自然に言葉が口を出た。
「関口さんは・・・林さんのことが好きなんですか・・・?」 「え?」
奈美江は言ってしまってから、慌てて手で口を塞いだ。
「あ、ごめんなさい!余計なこと聞いちゃって・・・。」
関口は一瞬目を見開いて、その後柔らかな微笑を浮かべた。 そして、照れる気持ちを誤魔化すように軽い口ぶりで「バレちゃった?」と言った。
次の日、さっそく咲子に連絡を取り、お昼休みに会う約束を取り付けた奈美江であった。
「ごめんなさい。」 奈美江は深々と頭を下げた。
待ち合わせたレストランで、席に着く早々、事情を話し、謝罪した。
言われた側の咲子は、完全に混乱していた。 政博に優子のことを知られてしまったことだけでもすぐには受け止めきれないことなのに、 その上奈津子の自殺が狂言だったと知り、動揺に拍車がかかった。
「もう・・・本当にごめんなさい・・・。私のせいで・・・ごめんなさい。」 何度も何度も頭を下げる。 今の奈美江には謝ることしかできなかった。
咲子は何度目かの謝罪の言葉を聞いた時、やっと我に返ることが出来た。
「あの・・・浅井さん・・・・もう謝らないで下さい・・・。」
小さな声で気持ちを伝えた。 奈美江は下げていた頭を心持上げで、咲子の顔を見た。
咲子は苦笑いしながら、自嘲気味に話しをした。 「・・・・なるようにしか、ならないですし、私の考えは変わらないですから・・・・。」
<優子は自分一人で育てていく・・・> その気持ちはかわることはない。 過去に対する気持ちはどうであれ、咲子の方からは動く気はなかった。 だから、こう言うしかなかった。
「浅井さんは、妹さんご夫婦のことだけを気にかけてて下さい・・・・。」
元はと言えば恋人がいるにも関わらず気持ちを打ち明けた、自分の責任だとも思ったいた。 狂言自殺にしたって、そこまで追い詰めてしまったのは自分なのだ。 政博と奈津子の関係が、今回のことで壊れてはならない・・・強くそう思っていた。
それなのに・・・心のどこかで、もう一つの気持ちが頭をもたげる・・・。
その気持ちに耳を傾けそうになった時、健太郎のことを思い出した。
咲子は膝に乗せていた右手を、きゅっと握り締める。
<田中君と話しがしたい・・・> 何でもいい、どんな他愛のない話でもいい・・・。 健太郎といると、気持ちが強くなれる気がした。 自分自身が嫌悪する感情を捨てることが出来ると思った。
「本当に林咲子さんは俺に会うために来るのか?」 日曜日の午前中、部屋を掃除している健太郎にカー助は興奮気味に聞いた。
「そうだよ。カー助に会いに来るんだよ。」 当日になるまで何十回となく同じ質問をされている健太郎。その度に律儀に答えていた。 健太郎も咲子に会えるのはとても嬉しいので、さして汚れてもいない部屋を 一生懸命掃除しているのだ。 もともと必要最低限の物しかない部屋だ。綺麗なもんだった。
「なあ、正装用の蝶ネクタイつけてくれよ〜。」 カー助は一番お気に入りの赤い蝶ネクタイを咥え、健太郎の傍に飛んで行った。
「はい。これで良い?」 カー助の首にネクタイを付けてやり、手鏡を見せてやる。
「うん。ばっちし。」 鏡に映る自分の姿に満足げに頷くカー助。
「俺の粗相は健太郎の粗相になるんだから気をつけなきゃな!」 <俺は親友として、なんとしても健太郎のことを売り込まなきゃいけないんだ>・・・と 使命に燃えるカー助であった・・・。
「ああ・・・ドキドキする・・・。」 「そんなに緊張しなくても・・・。」 そう言う健太郎も少々緊張気味であった。 はっきり言って、咲子が自分のうちに遊びに来ると言う事実に浮かれ、本来の目的である 『告白する』ということは頭の中からすっ飛んでしまっていた・・・。
お昼過ぎ、咲子から電話があり、健太郎は走って駅に迎えに行った。
「田中君。」 「おにいちゃん!」 改札の隅で、咲子と優子の姿を発見した。 咲子は大きなバスケットを手に持っていた。その中にはカー助の好物が たくさん入っているのだろう。
「カー助君に会うの、楽しみ。」 ワクワクした声で咲子は笑った。
優子は咲子の右手、健太郎の左手と手を繋ぎ、2人の間に挟まれてご機嫌で歩いていた。 時々、楽しげに笑う咲子の顔を見上げ、その後、愛しの健太郎の顔を見上げ、 優子にとって、両手に花状態であった。
しばらく歩いていると、前方から優子くらいの子供を連れた家族連れが、楽しげに会話をしながら歩いてきた。
これから遊びに行くのであろうか、父親と手を繋ぎ、嬉しそうに歩く少年の楽しげな笑顔。 少し後ろから、微笑んでそれを見守る母親の姿。 そんな光景が優子の瞳に映る。
その家族とすれ違う時、健太郎は、幼い手が自分の左手をぎゅっと握ったのを感じた・・・。
「おかあさん。おとうさんはどおしてゆうこにあいにきてくれないの?」
ちょっと不満げに咲子を見上げた優子。
咲子は一瞬健太郎を見て苦笑いし、その後、優子に優しい声で言った。
「お仕事で遠くにいるんだから仕方がないのよ。ごめんね。」
健太郎は、2人の会話を聞いて、心が痛くなった。
咲子は優子に父親のことを、仕事で一緒に暮らせないと説明していた。 今の会話で健太郎もそのことに察しがついた。
・・・こんな嘘は優子の成長と共に通用しなくなるだろう。
<その時がきたら・・・どうするんだろう・・・>
政博と咲子の過去のことを想うと、やり切れない気持ちになる。
奈美江が政博たちに、全てを話してしまったことを知らない健太郎は、
政博を嫉妬する気持ちを抱えながらも、自分の子供の存在を知らない彼を想い胸が痛くなるのだ。
「カー助君が待ってる。急ぎましょう。」 咲子は明るい声で場の雰囲気を変えようとした。
「初めまして、林咲子です。田中君には会社でお世話になっているの。よろしくね。」 アパートに到着し、部屋に上がって早々に咲子はご挨拶をした。
きちんと正座し、素敵な笑顔を向ける親友の想い人に対し、カー助の小さな心臓は 緊張と興奮で爆発しそうだった。
「お・・俺、あ、僕、カー助と言います。ふ・・・ふつつか者ですがよろしくお願いします。」
<・・・カー助・・・僕だなんて言ったことないのに・・・> いつものカー助らしくない様子に、健太郎は苦笑いした。
テーブルに咲子が作ってくれたご馳走を並べると、カー助の小さな瞳は輝きを増した。 玉子やローストビーフのサンドイッチ。海苔巻き。エビフライ。イカリング。ハンバーグにフライドポテト。 ポテトサラダに好物の黒豆まである。
「俺・・・俺こんなに幸せで良いのかなーーーー!」 カー助は、親友を売り込むことも忘れ、幸せを噛み締めながらご馳走を美味しくいただいた。
次々と食べ物を口に入れていくカー助を見て、咲子は <こんな小さな身体のどこに入っていくのかしら・・・> と、不思議に思い、まじまじと観察してしまった。
「へぇぇ・・・。他にどんな魔法があるの?」 「例えば、美味しいキャンディが一つあったとしますよね。」 「うんうん。」 「もっと一杯食べたいなと思った時、それを増やす魔法をかけるんです。」 「へぇ。便利ね〜。」 「でも、失敗すると酷い目にあうんです。」 健太郎は真面目な顔でため息をついた。 それにつられて咲子も神妙な面持ちになる。
「酷い目って・・・どうなるの?」 「味が、やたら苦かったり、辛かったり、時には爆発したりするんです・・・。俺、この魔法なかなか上手く 出来なくて、いつもビックリしてました。」 「それは大変だったわ・・・ねぇ。」 しばらく我慢したものの、やっぱり可笑しくて吹き出してしまった。
咲子は健太郎の話しを聞きたがった。 魔法の国の話。健太郎の子供の頃の話。色々話をした。 咲子はとても楽しそうに聞いていた・・・。
「おかあさん。おにいちゃんとなかよしね。」 部屋の隅でカー助をモデルにお絵描きをしていた優子が、2人の姿を見てコメントした。 「優子ちゃんは健太郎のこと好いてくれているんだな。」 幼いながら、いつも健太郎を気にかけている優子の気持ちが嬉しかった。 「うん。おにいちゃん、だいすき。」 優子は元気に頷き、ニッコリと笑う。
「でも、おかあさんもだいすき。だからおにいちゃんと おかあさんが、たのしそうなのうれしいの。」
「そっか。優子ちゃん、いい女だな〜。」
「あ、カーすけくん、うごいちゃダメ〜!」
そう言われ、カー助は慌ててポーズを取り直した。
この日、咲子は全てを忘れて穏やかで楽しい時間を過ごすことができた。 気が付いたら日が暮れていて、咲子たちを駅まで送り、電車に乗り込むまで 手を振り続けてお見送りしてくれた健太郎とカー助に咲子は感謝した。
電車内は空いていて、座ることが出来た。 「たのしかったね。」 「うん。そうね。」
<そうね・・・楽しかった・・・・> 咲子は電車に揺られながら、できることなら健太郎ともっと一緒にいたかったと想っていた・・・・。
「・・・そういえば・・・田中君・・・何かお話しがあったんじゃなかったっけ・・・?」 咲子は小さな声で呟いた・・・・。
「あ!」 アパートへ向かう帰り道、健太郎は重要なことを思い出した。
「どうした?健太郎。」 カー助は近くに人がいないことを確認し、小さな声で話しかけた。
<俺、気持ちを伝える為に時間を作ってもらったのに・・・・> 楽しくてすっかり告白するのを忘れていた健太郎であった・・・・。
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