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愛憎C

「・・・貴方のせいで・・・林さんがどんなに辛い思いをしてきたか知ってるの?」

お風呂から上がった政博が、廊下に出た時、居間の方からそんな台詞が聞こえた来た。

<この声は・・・奈美江ちゃん・・・?>

妻の・・・奈津子の声にそっくりな、だけどどこか違う、聞き覚えのある声。

<でも・・・林さんって・・・>

奈美江の存在を知り、先ほど耳に入ってきた名前に戸惑い・・・・・・・
次に聞こえた言葉に驚いて、居間に行こうとしていた足を止めた。


その言葉とは・・・。

「彼女・・・・・・政博さんとの子供を一人で育てているのよ・・・・。」



林さん?
僕との・・・子供・・・・?
・・・政博は、混乱する頭を必死で整理し・・・・・・その事実に愕然とする・・・。

林さん。

林咲子・・・。

<・・・咲子・・・?咲子が僕の子供を・・・・?>

心の中で、その言葉がはっきりと形付けられた時、何も考えずに足早に
居間へ向かい、勢い良くドアを開ける。

そこには、政博の姿を見て驚き、表情を硬くする奈津子と奈美江の姿があった。

政博はそんな2人の様子にかまわず、奈美江に詰め寄った。

「今の話・・・・もっとくわしく話してくれ!!」
「ま・・・政博さん・・・。」
奈美江は、話を聞かれてしまったことに動揺し、後ずさるが、政博は逃がしてはくれなかった。

奈美江の肩を掴み、真実を語ってくれと、政博は必死に懇願した。

そんな2人を、奈津子はただ見つめることしか出来ないでいた・・・。



「・・・政博さん・・・。」
奈美江は、先ほどまでの怒りが消え去り・・・代わりに、自分の言ってしまった言葉の
重大さに蒼白になった・・・。

でも・・・もう遅い。

重い口を開き・・・知っている限りのことを政博と奈津子に伝えた・・・。






<一番最低なのは・・・私じゃないの・・・!>
奈美江は帰り道、電車に揺られながら、自分を責め続けた。


全てを知った政博と奈津子は黙ったまま立ち尽くしていた。

絶えかねて妹の名を呼んだ奈美江に、奈津子は搾り出すように「帰って!」・・とだけ
言った・・・。


<私の責任だ・・・>
この後、妹夫婦や咲子に何かあったら、それは自分のせいなのだと、強く責任を感じていた・・・。








奈津子は、がっくりと肩を落とし、力なくソファーに座っている夫の傍へ寄る。

床に膝を付き、縋るように政博の膝に手を乗せた。

「・・・政博さん・・・。」

政博が今何を想い、どうしたいと思っているのか・・・知りたいと思うと同時に
知るのが怖いとも思った。

<・・・私に優しい言葉を言って!安心させて!>
心の中で叫びながら、政博の言葉を待ったが・・・政博は何も言わず、ただ黙っていた。
その姿は、過去に囚われ気持ちの全てを持ち去られた、抜け殻のように見えた。




奈津子の瞳に映る政博の姿が滲む・・・・。




奈津子は消極的で、目立たない子供だった。
姉の奈美江が活発であればあるほど、奈津子の存在は霞んでしまう。

奈美江のように、積極的に自分が出せたら・・・。
それは今でも思うことだ。



幼い頃から、勝気で自由気ままな奈美江に両親は手を焼いていた。
奈美江にとっては怒られて、悔しくて仕方がない場面でも、
奈津子にとっては・・・羨ましかった・・・・。

<両親の目はいつも奈美ちゃんに向いてる・・・>

奈美江は奈津子にとって、優しい姉でもあり、ライバルでもあった。

奈津子は子供ながらに必死に考えた。

どうしたら両親は私をかまってくれる?
どうしたら私に目を向けてくれる?

奈美江と両親との言い争いを見ていくうちに、両親が自分たちに何を求めているのかが
見えてくるようになった。

奈津子は、一生懸命両親の希望通りの、素直で優しい子供になろうとした。

「奈津子ちゃんは良い子ね。お母さん、大好きよ。」
そう言って頭を撫でてもらうと、もっと頑張ろうと思った。
奈美江に勝てたようで、嬉しかった。

良い子にし、素直な子を演じていれば両親は奈津子の味方でいてくれる。
奈津子が少し元気がないそぶりを見せたり、涙を落せば慌てて助けてくれた。



でも・・・・自分の本当の気持ちはどんどん言えなくなり、不満や苛立ちが
心の底に深々と積もっていった。

そんな時は、姉が話を聞いてくれた。
奈美江に対し敵対心を持ちながらも、心を許せる、なんでも話を聞いてくれて
奈津子を守ってくれる、頼りになる大切な存在でもあったのだ・・・。

社会人になって、早々に家を出た奈美江。
「早く自分の力で生活したかったからね。」
そう言った奈美江に、憧れもした。
奈津子は就職してからも、結婚するまで親元で暮らした。
一人暮らしなど寂しくて出来そうになかったし、親もそれを望んでいなかった。

<奈美ちゃんのように生きられたら良かったのに・・・>

複雑な感情。
姉のことは大好きだ。
でも・・・姉に対し嫉妬が湧き上がるのを止められなかった。

奈津子は、いつの間にか友達に対しても、上手く自分を出せなくなっていた。
相手の理想的な友達でいなきゃという気持ちが強く、いつも気にしていた。


本当の自分とのギャップに疲れ、それを癒してくれたのは奈美江だった。

そして、政博と出会ってからは、今度は政博がその癒しの場所になってくれた。

いつも優しく包み込んでくれる政博に奈津子は安心し、少しずつ自分の気持ちを言うようになった。
その優しさに甘えてしまい、いつしか政博にのめり込んでいった。
もう、政博なしじゃ生きていけないと思った。



そんな時、咲子が現れた。
良く笑い、爽やかな明るい雰囲気を持つ彼女を初めて見た時、奈美江のことを思い出した。

どこか・・・似ていた。


政博が少しずつ咲子に惹かれていくのを感じてはいた・・・。
感じていたものの、どうしたら良いのかもわからず、
<貴方がいなきゃ私はダメなの・・・>と心の中で叫んでいた。
奈津子が必死で縋っているのが政博にも感じられ、その気持ちが重くなったのであろう・・・・
ますます心は離れて行った・・・・。
優しい政博はそんな気持ちを表には出さず、奈津子の前では優しく笑っていた。
でも、奈津子にはちゃんとわかるのだ。その笑顔には心がなかった。

今まで政博には何でも話せていたのに・・・肝心な自分たちについてのことは
話せなくなってしまった。

再び奈美江に話を聞いてもらうようになり、何とか気持ちの均衡を保っていた。


<私を置いてかないで・・・貴方のことが好きなの・・・誰よりも好きなの・・・>

頭の中で呪文のようにその言葉を繰り返す。
でも政博の気持ちは戻らず・・・ついに別れを切り出された。


「・・・ごめん・・・好きな人が出来たんだ・・・・。」


奈津子は泣いた。
今まで頭の中で繰り返していた言葉を必死で伝え、別れたくないと訴えた。

それでも政博は、謝りながらも奈津子の願いを叶えてはくれなかった・・・。


「奈津子・・・もういいじゃない。政博さんは貴方ときちんと別れるまで、好きな人とも会っていないんでしょ?
寂しいだろうけど、政博さんの気持ちはもう戻ってこないよ。自由にしてあげなよ。」
このままでは奈津子はボロボロになってしまう・・・そう思った奈美江の言葉だった。


それでも奈津子は別れる決心を出来ないでいた。
でも、咲子のいる喫茶店の前で、店に入らず立っている政博を見て・・・たまらなくなった。
その時の政博の切なそうな顔を見て、別れる決心をしたのだ・・・・。

<彼の幸せを願おう・・・>


自分で決めた別れ。
でも、いざ自分の元から政博が去っていくと・・・寂しくて悲しくて・・・奈津子は徐々に追い詰められていった。

何も手に付かなくなり、眠れなくなった。
だんだん、どうしたら政博を取り返せるのか、
どうしたら彼がもう一度振り向いてくれるのか・・・そんなことしか考えられなくなる。


そして、絶えず頭に浮かぶ咲子の明るい笑顔。

咲子への憎悪。
嫉妬で周りの景色まで歪んで見えた。

食事も喉を通らなくなり、眠ることも出来なくなった。


必ず彼を取り戻す・・・。
どんな手を使っても・・・。

昔のことを思い出す。
奈津子が辛そうにしているとみんなが心配してくれた。
奈津子が泣いているとみんなが助けてくれた。

でも・・・政博は泣いても去っていった・・・・。
じゃあ・・・自分自身を傷つけたら振り向いてくれる?

<心から血を流していても目に見えないから振り向いてくれなかったんだ・・・>


じゃあ・・・・
実際に血を流そう・・・。

とっても優しい政博さんは、必ず振り向いてくれるはず・・・。
必ず・・・・戻ってきてくれるはず。


「奈津子ちゃん・・・お夕食、食べないと身体に悪いわよ・・・。」
部屋に閉じこもり、食事を拒否する娘に母親は心配そうに言った。

「・・・部屋に持ってきてくれたら・・・少し食べてもいいよ・・・。」
奈津子はベッドに座り、窓の方を見ながら呟くように言った。

母親はちょっと安心したように「じゃあ今用意して持ってくるわね。」
・・と言って部屋を出て行った。

奈津子一人残された部屋。
机の上に乗っていたカッターを手に取った。

カチカチカチ・・・・刃を出し、左手首に当てる・・・。

そおっとそおっと・・・・傷をつけよう・・・・。
政博さんを取り戻す為に。
もう一度やり直す為に。
少しくらい血が出ても、彼を失う辛さに比べたら・・・このくらいどうってことない。

<私はどんなことをしても彼をとり戻したかった・・・>

この時の奈津子は、こうするより他、思いつかなかったのだ・・・・・・・・。













月曜日。

「どうしたもんかな〜。」
朝っぱらからさえない顔している関口。
始業チャイムが鳴るまで、自分の席でコーヒーを飲みながら考え込んでいたのだ。


<いつ告白しようかな・・・>

気持ちを伝えることを決めたものの、今の咲子の心情を想うと、
自分の気持ちばかり押し付ける形になってしまってもマズイし・・・。
などと色々考えをめぐらせていた。
なにせこの男、こんなに真剣に人を好きになったのは久しぶりなので
いざとなると、どう気持ちを伝えたら良いのかわからなくなってしまったのだ。

<下手すると、冗談で流されそうだからな、俺の場合>

過去、咲子や他の女性にとってきた行動を振り返ると、その頃の自分に
蹴りを入れたくなってくる関口であった。

<でもまあ、過去ばかり見て嘆いててもしょーがないもんね。これから俺って人間を
知ってもらえばいいわけだし♪>
・・・関口は、健太郎と出会ってから、すぐに立ち直る男になっていた。


今日の行動予定をボードに書き込み、エレベーターホールに向かう。
運良く、エレベーターが到着してて、「あ、乗ります。」と言って
急ぎ足で滑り込んだ。

「・・・あ・・・・。」
「あら・・・。」

既に乗っていた先客と目が合った。
奈美江である。

奈美江も外に出かける用事でもあるのか・・・コートを着込んで会社の封筒を手にしていた。


関口は、どう反応して良いのかわからず、普通の挨拶を選んだ。
「おはようございます。」

奈美江も関口につられるように同じ言葉を口にした。

「・・・おはようございます。1階で良いですか?」
「はい。」

扉が閉まり、降下していくエレベーター。
2人きりの空間。

<・・・なんか気まずい空気だな・・・>

関口自身が原因ではなく・・・・奈美江の、どこか落ち着かない様子が作り出した
重苦しい空気だった。


ポーンという音が1階に到着したことを告げる。

自然に降りて、何となく2人足並みそろえて歩き出す。
外に出て、やっとお互いの行き先が別れたようで、関口は軽く頭を下げて
奈美江に背を向け歩き出した。


「あの・・・。」

後ろから遠慮がちに呼び止められ、関口は振り返る。


奈美江は、ちょっと戸惑いながら関口を見つめていた。
「あの・・・・今夜、お暇ですか?少し・・・お時間いただけませんか?」

関口はちょっと首を傾げ、困惑気味に奈美江を見つめた・・・。


奈美江は藁をも掴む思いだった。

<林さんが必死で隠していたことを、私が政博さんに話してしまった・・・>

ことの重大さに、押し潰されそうだった。
さすがに今回はどうして良いのかわからず、まいってしまった。

本来なら咲子にそのことを告げて、土下座でもしなければと
思いながらも、誰かに相談したくて、誰かの助言が欲しくてたまらなかった。

そう強く思っていた時、関口と顔を会わせてしまった。
咲子の子供の存在を知っていた人物のうちの一人。

咲子のことを相談できる数少ない人物なのだ・・・・。










夕方。
健太郎は客先での用件を終えて、急いで営業所に向かっていた。

昨日散々考えて、やっぱり気持ちを伝えなきゃ・・・・と決心したのだ。

<相手のことを知りたいなら、まず自分の気持ちを伝えなきゃな>
そう思い、決めたのだ。


「ただいま帰りました。」
事務所に戻り、挨拶しながら咲子の姿を探す。


もう、終業時刻間近なので、咲子は帰り支度を始めていた。
給湯室で湯飲みを洗っている姿を見つけ、緊張しながら声をかける。


「林先輩。」

入り口からひょこっと顔を出した健太郎に、咲子は笑顔を向ける。

「あ、田中君。お疲れ様。」
「あの・・・・・・。」
健太郎はちょっと躊躇し、言葉を詰まらせる。

「ん?なあに?」

「・・・あの、お話しがあるんです。いつでもいいですから時間を作ってもらえませんか?」

「お話し?ここでは言えないの?」

「・・・はい。」

咲子はきょとんとして、その後何かを思いついたようにニコッと笑った。

「あ、じゃあ、今週の日曜日、どうかなぁ。」
「日曜日?」
「カー助君に会いたいしお礼もしたいから、もし、迷惑じゃなければ何か手料理持っていくから。」
「うちに来てくれるってことですか?」
「ダメ?」

想像していた展開は、例えば会社帰り2人で夕食でも一緒に食べている時に告白する・・・とか
だったので、ちょっと困惑してしまった。

「・・・えっと・・・じゃあ、日曜日、待ってます。駅に着いたら電話下さい。迎えに行きます。」
「お昼頃行くわね。たくさん美味しいもの作っていくね。カー助君何が好き?」

健太郎はカー助の好物を片っ端から言葉にしながら
<何だかちょっと違うけど・・・ま、いっか・・・>などと思っていた。

2001.12.14 

どんどん感情が絡まりあっていくなぁ・・・(汗)